かすかに西国を感じる道(北関東の諸街道1)

f:id:tochgin1029:20171009112342j:image甲州街道を歩き通し、泊りがけのいささか遠出の旅が続いていて、少し気軽に訪れるような場所を歩きたくなりました。探してみると、北関東の周辺部にはまだ歩いていない旧街道がぽつぽつと残っています。今度はそれらの旧街道を歩くことにしました。北関東だと、家康が祭られた聖地とされた日光のあたりが中心点になりそうです。起点から終点まで一直線に目指すよりは日光を中心としてコースを考えてみることとしました。出だしは、例幣使街道という街道で、京都の朝廷から日光に参拝する使節が利用した街道です。中山道倉賀野宿から分岐して、かつての東山道付近を通りながら日光を目指す街道です。
f:id:tochgin1029:20171009112303j:image まずは目指したのは中山道倉賀野宿です。3年前に中山道を歩いて以来の倉賀野駅に降りると、当時のことを思いだします。まずは、例幣使街道との追分を目指しますが、よく眺めると3年前には気が付かなかったことも見つかります。たとえば、駅前を少し歩くと、途中には空っぽになった堀を歩道として歩けるようになっています。低い視点からの眺めは、倉賀野の集落を下から除くような視点です。たとりついた中山道との追分。思ったより自動車の通行量は多くありません。
 となりの玉村町までの県道がそのままかつての例幣使街道の道です。道は広くてもさして通行量は多くないので、それほど気になりませんが、あまり旧街道の風情は残っていませんね。
f:id:tochgin1029:20171009112426j:imageしばらくあるくと、「観音山古墳」という旧跡の看板が見つかります。看板に従って横にしばらく歩けば、整備された古墳の小山が立っています。その山に登ると、パノラマ状になった上毛三山を眺めることができます。まるで三山を独り占めしたかのような心地になります。そのことから自然と、この古墳の主がこの地域の支配者か権力者だったのだろうと想像できます。いまの群馬県と栃木県は合わせて毛の国と呼ばれていましたが、そんな国の支配者たちの墓でもあるのだろうか?などと想像します。この付近にはほかにも古墳が点在しています。
f:id:tochgin1029:20171009112506j:image 古墳を過ぎて、街道はそのまま県道沿いを走ります。おそらくは赤城山からのびる台地の端と思われる地形を上り下りするところだけが、本日の唯一の上り下りです。その台地に伸びる道のまんなかを老人がせっせと自転車をこいでいて、それがとても危なっかしい光景です。いまも故郷に住む80の母親によれば、老人にとって田舎道を自転車で通る場合、道の端を通るのは転落がこわいそうです。だから、どうしても道の真ん中を走ってしまうのだそうです。
f:id:tochgin1029:20171009112548j:image しばらく行き、玉村町の中心部にたどりつくと、玉村八幡宮という立派な社がそびえていて、鎌倉時代に建てられたものだそうです。このあたりがかつての玉村宿です。しばらくいくと本陣跡の碑が建てられています。さすが京都からの使者が記すだけあって、碑に刻まれているのは和歌です。これは武家や大名たちが利用する他の街道すじではみられない雅?な趣ですね。
f:id:tochgin1029:20171009112631j:imageこのあとは、まっ平らな平野をとおります。登りもなければくだりもない道です。物流倉庫などが立ち並ぶ道は殺風景で、江戸時代に旅人が目にした風景はどうだったかな?などと想像してみます。遠くに赤城山が見えて、ススキが広がる原っぱの中を通過する旅人。なんていう光景を想像します。どこか歌川広重の図にでもでてきそうな景色です。
f:id:tochgin1029:20171009112707j:image やがて、利根川が近くに見え、川岸には五料の関所跡が残っています。この利根川の流れは遠く江戸にまでつながっているのですから、なるほど関所の守りも必要でしょう。となりに大きな橋が架かっているせいか旧街道の趣はみじんも感じませんが、関所があるあたりだけがバイパス道から外れていて、奇跡のように当時の街道風情が残っているのです。ここでは、下流のようにはてしない川幅が広がっているわけではなくて、10分も歩かずに渡ることができます。橋の上から眺める対岸は、家々が密集した旧い集落でした。自由に川を渡れない往時なので、たいがいは大きな川の両岸では、通常だと宿場が近接しています。旧い家があつまる集落は宿場になっていて、本陣跡との石碑があるけれど、ここでは一般の家屋となっています。敷地からはみでるほどの立派な松の木が立っていて、旧街道の雰囲気を唯一感じさせる光景です。
f:id:tochgin1029:20171009112946j:imageここから先の道は、旧い家々が入り混じる集落をたどります。あいかわらず、上りも下りもない単調な県道です。その県道から分かれた旧道には、「右赤城」という立札が掲げられています。京都から日光へ進む道のりのほとんどは左手に赤城山が見えますが、右に曲がったこのあたりだけが赤城を右手に眺められる光景だそうです。いまでこそ家がたち並ぶ集落の原風景は、ここでもススキ原だったのでしょう。
f:id:tochgin1029:20171009112823j:image 川を渡ればまもなく境宿にたどりつきます。ここでは、細い道の周りには旧い宿場風情が残る町です。京都から例幣使が通った街道であったり、古の東山道が通じていたこと。原っぱに古墳が並んでいる光景からは、このあたりが関東でももっとも早くから西の文化が伝播していたエリアなのではないでしょうか?かすかな西国の空気がこの地からは伝わってくるようなのです。