左手は日光の山(北関東の諸街道4)

f:id:tochgin1029:20171119181159j:image例幣使街道の道中は、必ずといってよいほど左手の山々を眺めながらの道中でした。けれども、富田宿を過ぎたころ、左手の山はだんだんと低くなり遠ざかっていきます。この左手の山々が途切れるところが、両毛とよばれる地域の境を示しているように思いました。近くには永野川という川が流れています。この日もよい天気で、イチョウの木の黄色がとても空の青色に映えています。
f:id:tochgin1029:20171119181226j:image右手に東武線の高架が並ぶ道を進めば、あっけなく栃木の街に入ります。この日は日曜日で、栃木宿に着けば観光客がぽつぽつと現れています。町中には古い建物も多いのですが、多くの建物がきれいに整備されていて、そういった観光客向けのカフェも新たに作られようとしていました。それは、いままで通ったどこか寂れた市街地とは異なった華やかさが見られます。その先にある嘉右衛門町と呼ばれるエリアには、とりわけ古い建物が連なっていて、国の保存地区の指定を受けているそうです。
f:id:tochgin1029:20171119181304j:image 嘉右衛門町を過ぎれば、広い県道と合流します。いつのまに左手の山は遠くにいってしまい、その遠くに見えるのは日光の山々に変わっています。東武線をまたがる巨大な陸橋を超えたあたりは、どうやら合戦場宿らしいのですが、宿場を示すような石碑をまったく見つけられず困りました。そんな殺風景なこの場所にある旧跡らしきものといえば、日立製作所創始者とされる、小平浪平の生家が、街道沿いに立っていたことです。f:id:tochgin1029:20171119181338j:imageけれども、この家はいまでも現役の私邸として利用されているので、残念ですが中を見学することができません。そのさきには、升塚という史跡がありました。どうやら、この小高い丘は戦国時代の戦死者のお墓だそうです。f:id:tochgin1029:20171119181407j:image足利や佐野と比べると、栃木をすぎたこのあたりから沿道には史跡のたぐいが少なくなったように思います。庚申塚や馬頭観音が道端に点々と立つような光景もなく、合戦場という地名や升塚という戦死者の巨大な墓から受ける印象では、どこかこの場所は戦いが繰り返された場所だったのではないかという想像をします。たくさんの自動車が走る道は、ほんとうは家中宿、金崎宿を通過しているはずなのですが、どのエリアも宿場を示すような碑もなくて、いったいどこが宿場であるのかよくわかりませんでした。
f:id:tochgin1029:20171119181441j:image その単調で変化も乏しい道のりながらも、進んでいけば次第に車はすくなくなりました。金崎の集落を過ぎると思川を渡ります。赤城山を過ぎてからの両毛地域の風景は、岩舟山を例外とすれば、ほとんどがなだらかな女性的な地形のように見えたのですが、このあたりの風景は、遠くに見える日光連山の姿から、しだいに男性的な地形だという印象を受けています。これまで歩いた、足利の川崎天満宮や玉村八幡宮では例幣使が歌を残していますが、そのような例幣使の痕跡は、このあたりには残されていないのが、どこか不思議にも思いました。両毛地域のなだらかな山々を眺めて、そこに京都の風景を思い出したのかもしれません。そういった場所が例幣使にとっては心和む旅路であっても、このあたりだと、訪問先の日光も近づいて、例幣使にとっては緊張を感じされる場所だったのかもしれないなと想像しましたが、さて真偽のほどはどうなんでしょうか?
f:id:tochgin1029:20171119181510j:image 壬生道との追分を過ぎれば、まもなく楡木宿に到着します。今回の行程はここまでです。このあたりでは街道筋はとてもひろく、往時もそれなりに開けた宿場だったと想像しているのですが、集落の外れにある楡木駅につけば、駅はそっけない無人駅でした。