終わらない杉並木(北関東の諸街道7)

f:id:tochgin1029:20180106145753j:image 東照宮までを歩き終わりました。かつての例幣使たちは参拝のあとで、江戸に向かっています。どこか日光には終着点というイメージは薄くて、ここで終えるには半端な感じがします。まずはここから宇都宮まで向かうことにします。再び降りたJR日光駅は訪日観光客でいっぱいでした。彼らが駅員に提示するのはJAPANRAILPASSです。わたしが提示するのは青春18きっぷです。
f:id:tochgin1029:20180106145812j:image 日光駅宇都宮駅には400mの標高差があります。宇都宮駅では晴れていましたが日光駅では風花がちらちらと舞うさむい曇り空です。ここが山間部であることを天気から感じます。歩きだせば快調な下り坂で、行きには苦しかった並木道も、進むこと進むこと1時間もあるけばあっという間に今市の市街にたどり着きました。このコースは前回は2時間で通過しているのですからだいたい半分程度の時間です。行きでは通り過ぎていた資料館に休憩がてら入ることにします。
f:id:tochgin1029:20180106145043j:image ここで知ったのは、現在の日光市域というのはそのまま江戸時代の日光神領と重なっていったことです。幕府の支えがあったからといってここに住む庶民が豊かだとはいいがたいわけです。江戸の終り頃、日光街道の通行量が増えれば増えるほど、近隣から駆り出される助郷の負担も大きくなっていったようで、説明書きには逃亡する農民もいたそうです。それだけでなく、重なる飢饉とかによる影響で、江戸の末期に北関東の人口が30%ほども減ったのだというグラフが掲示されていました。二宮尊徳が晩年にこの地の救済に乗り出したのはこのようなことが前提であったのだとわかります。思い出したのはイザベラバードの「日本奥地紀行」この記述では、日光を除いた北関東の光景は、人々が貧しくて、不衛生でみすぼらしかったと、だいたいは辛辣で否定的に描かれています。この当時に北関東の人々が、実際に貧しい暮らしをしていたのだということが想像できます。そして、杉並木の途中に政府軍の弾を受けた木が残っており、この地では戊辰戦争の戦場ともなった場所です。政府軍に負け続ける幕府軍はこの今市から会津西街道を北上していきます。そこから会津藩の悲劇へと繋がっていくのですから、ある意味この道は幕府軍が敗走していく道でもあるのですね。f:id:tochgin1029:20180106145107j:image今市で食事をとりたいところですが、この日の道の駅は休み、コンビニでの食事になります。再び杉並木へと入りますが、宇都宮への距離が28kmとあります。いままでであれば2日かけて歩く距離です。うんざりするような遠さです。
 入ってみた杉並木では、ここでも自動車の走路と杉並木は分かれていて、歩きを自動車にさえぎられることが少ない快適な道です。この杉並木には「保護地域」と「特別保護地域」いうのがあって、特別保護地域というエリアほど、よく見てみると杉の木が傷んでいることがわかります。自動車が杉並木から除かれたのも、杉の木にとって自動車の排気ガスが原因となっているとみなされたからです。たしかに途中には根が傷んだために中が空洞となってしまっている数本の杉の木がありました。f:id:tochgin1029:20180106145135j:image大沢宿のあたりでいったん杉並木は途切れますが、ここでもかつての宿場の面影はあまり感じません。そのまま通り過ぎ、また杉並木に入りしばらくすると並木の寄進碑があらわれます。鹿沼~今市のあいだのようにここで杉並木というものは終わりであるはずなのですが、そんな甘いものではなかったのを、あとで思い知ります。
f:id:tochgin1029:20180106145200j:image しばらく歩けば、あっけなく宇都宮市域にはいります。ですがまわりの風景は人家もまばらなさびしい集落の風景が続きます。日光神域ということも関係するのでしょうか?このあたり道端にたつ神社のたぐいの存在感がまるで薄いことも気になります。この地の歴史は、日光開山~幕府のの聖地化~避暑地~観光地 と進んでいくのですが、日光が幕府の聖地になっていく過程で、この土地に住んでいたさまざまな神々は追い出されていったのではないか?神々が追い出された代わり、この地には万里の長城のような並木道がそびえることになったのだと想像しました。
f:id:tochgin1029:20180106145220j:image 地図を見る限りでは、徳次郎宿を過ぎればどこでもあるロードサイドの道に変わるのだと思っていたのですが、その想像は裏切られました。寄進碑を過ぎても杉並木は点々と続いています。通常の並木道では歩道と並木とは平面ですが、このあたりの場所では並木の植えられている個所はこんもりと盛り上がっていて、わきに歩道がつけられています。車道と歩道のあいだにはけっこうな高低差があるのですが、この歩道が非常に歩きづらいやっかいな代物なのです。f:id:tochgin1029:20180106145246j:image街道沿いの住宅や店舗から車道への取り付け道路に繋がるたび、この歩道は車道の高さまでのぼり降りしていて、この上り下りが疲れた足に負担となるのです。このような道は、結局は宇都宮市街のごく近くまで伸びています。もっともこの並木道が延々と続いているため、よくあるロードサイド店舗がこの街道ぞいに増えるのを抑えているみたいです。
f:id:tochgin1029:20180106145846j:image並木道が終われば、全国チェーンの飲食店やらが立ち並ぶどこでもあるロードサイドの風景にきり変わります。途中には栃木県体育館を見つけました。この体育館は、自分が中学校と高校生のとき部活動で幾度か行ったことのある場所でとても懐かしくなります。

 ここから宇都宮の宿場町に入ります。ぽつぽつと旧い建物が存在するのは判別できても日も暮れていて、街並みを確認することはできません。それでも宇都宮駅につづく大通りに出たあたりが奥州街道との追分となります。追分を示す石碑は見つかりませんでしたが、このあたりに本陣跡の看板があって目じるしとなるものを見つけることができました。今日の歩きはここまでとします。

f:id:tochgin1029:20180106144926j:image ここから宇都宮駅まではバスで向かうことにしました。近くの伝馬町のバス停には、仕事帰りのサラリーマンがバス待ちをしています。大学を卒業し就職しようとしたのはもう30年近くも前のこと、栃木出身のわたしは、その時にUターン就職をしようとは思いませんでした。けれどUターン就職ならいまごろはこのサラリーマンのように宇都宮のバスにゆられていたかもしれません。戻ることはもうないと思いますが、自分にとってあり得たかもしれない人生の選択肢を間近でみたような気がします。宇都宮のサラリーマンをみながら、ひとりで感慨にふけっていたのでした。
 さて、例幣使の足取りではここから江戸に向かうところですが、わたしは反対の道白河へ進むことにします。