戸惑いの赤(大田記念美術館「明治維新150年幕末・明治―激動する浮世絵」展)

原宿にある大田記念美術館では現在、幕末から明治にかけての浮世絵を展示していて見に行きました。北斎や広重や国芳といった大家の作品はないけれど、幕末と明治初期に描かれた作品群を眺めていると「ご一新」のかけ声と共にやってきた明治の時代を、絵師たちや町人たちがどのように捉え、どのように受容していったのかがわかります。
 明治初期の時代の作品を眺めると、いたるところに赤の色が多用されています。火事でも夕日の空を描いているわけでもないのに、絵の背景が赤く塗り籠めていたりとか。解説によれば、そういった作品の評価は現在では低いものということですが、反面でこの赤色こそ「ご一新」をうけとめた庶民の気分をもっとも象徴しているのではないかな?と思いました。

 はて、それ以前の江戸末期にそのような象徴する色はあったかな?と思い返します。そういえば、広重ブルーと言われる「ベロ青」がありました。それ以外でも、そういえば背景は青系の色が多かったかな?と思い出しました。

 ほんとうのところ、幕府の統制がどのくらい厳しいものだったか?それぞれの地方で異なったでしょうが、江戸の町に限れば、幕府の統制はかなり行き届いていたはずで、その存在も巨大なもの。そんな巨大な幕府が突然倒れてやってきた支配者たちが、なにを始めるのかもわからない状態。町人たちにとって世間がどう変わるかなんてわからないし、不安だらけだったでしょう。「ご一新」の号令は、どうやら「いままでと異なる様式の絵を描かなくてはならない」という具合に絵師たちには受け止められたのでしょう。それが「赤」という色で絵を塗りつぶした理由のひとつなんだと思います。明治初期の浮世絵に特徴のある「赤」をそんな不安の色のように感じました。
 井上安治や小林清親の光線画が登場するのは、その新たな支配の姿がだんだんと見えてきて生まれたものです。徳川の時代に、江戸の絵師たちに自分の描きたいように絵を描く自由はなくて、自分たちの師匠や流派に沿った様式で絵を描くしかありませんでした。新しい時代にはそうではなくて、流派とか形式ばったものではない「自分が描きたいように絵を描く自由」があることを、町人たちが会得していったから生まれた表現なのだと思います。おっかなびっくりでも風刺画といった表現が生まれてくるのも、その明治の世間が少し落ち着いてからのことです。

長州のように明治維新の勝利を叫びたい側と、会津のように明治維新を辛苦の時代の始まりととらえる側がいます。こと、江戸の町人たちにとっては、それまで偉そうにしてたサムライたちが退場し、自分たちを縛るものたちが居なくなったことの開放感が、明治のある時期の絵画から感じることができるのです。
 ところで、光線画に特徴のある絵の全体を覆う暗い闇を眺めていると、現在の明るい夜とはだいぶ様相が異なります。その昔に夜というものは、こんなに暗いものだったかと感慨深く思いました。