花がいっぱいの道(北関東の諸街道9)

f:id:tochgin1029:20180401113710j:image 2月に喜連川まで歩いてからというもの、花粉症もちの私にとって、3月はスギ花粉が怖い季節。歩くのを自重していたところなのですが、だんだんと暖かくなれば、虫が久しぶりに歩きたくなり、久しぶりの街道歩きです。なんだか地中にこもっていた虫たちが地上に這い出るようなものですね。
 宇都宮線に乗り氏家駅までむかいます。宇都宮駅で乗り換えると、車中にはこれからゴルフ場にむかうさまざななグループがいます。氏家駅では、こういったグループと一緒に混じって降りました。駅前には周辺のゴルフコースに向かう人たちの列が、さまざまなゴルフコースにむかう送迎バスに吸い込まれていきます。それぞれのグループを眺めていると、一緒に回る人と、その時に初めて会う人だったりして、ゴルフというのはどうやら社交の場なのですね。ゴルフをたしなまない私にとってよくわからない光景だなと思いました。
 氏家駅から喜連川までは、温泉をまわる無料の送迎バスに同乗して向かいます。バスといいながら実際には大型のワゴン車で、地元の年寄りばかりが乗っています。少々肩身がせまいなあと思いながら片隅にちょこんと乗りました。しばらく行くと、バスの目の前はなんと山火事。地元の消防車が駆けつけています。たしかにからっからに乾いた山は、とても燃えやすいだろうなと思います。
 喜連川は、町の中心とはいえ非常に静かなもので、佇むところもありません。かつて銀行だった建物を改装した観光休憩所でコーヒーを飲みます。この非常に重厚な建物は、311の時もびくともしなかったそうで、ひびのひとつも入っていません。かならずしも新しい建物ほど地震に強いのがあたりまえというわけではないのですね。
f:id:tochgin1029:20180401113739j:image ガイドの方から教えてもらい、近くのこじんまりとした御用堀を眺めます。この喜連川は小さいながらも城下町で、喜連川藩は、江戸時代にわずか1万石という全国最小の藩だったそうです。かつての町役場には大手門と呼ばれる門があって、門には足利家のマークが掲げられています。近くの寺には足利家の歴代の墓所があり、となりは足利銀行まで建っています。どうやら喜連川藩の成り立ちは足利家とかかわりがあるらしいのですが、それ以上のことはわかりません。あとで調べてみましょう。
f:id:tochgin1029:20180401113808j:image 喜連川からの道は、バイパスではないのですが、自動車が行きかう県道になっています。ここでは沿道に咲いている花をせっせと眺めるのが今日の楽しみです。とかくこの季節は、花といえば桜ばかりになってしまいますが、まわりをきょろきょろと眺めると、赤・紫・黄・橙と、いろいろな色の花を眺めることができます。f:id:tochgin1029:20180401113953j:imagef:id:tochgin1029:20180401114009j:image

f:id:tochgin1029:20180401113845j:imagef:id:tochgin1029:20180401113936j:imageこの時期は、まだ
屋外で農作業をする季節ではないけれど、農家のひとが、せっせと道具を手入れしているとか、これからの農作業の準備を行っています。
f:id:tochgin1029:20180401114029j:image さくら市から大田原市に入り、佐久山交差点から細道を降りると佐久山宿に到着します。それまでは蔵の建物といえば大谷石の建物ばかりでしたが、久しぶりにここでは土壁が目に入るようになりました。どうやら喜連川とは違う生活圏にはいったことがわかります。平成の大合併まで、喜連川塩谷郡に属していました。そして大田原市のまわりは那須郡に属していました。白沢から氏家に行くまで、巨大な鬼怒川を渡るのですから、塩谷郡=鬼怒川水系を中心とする地域と把握することができそうです。一方で、佐久山宿をこえて直ぐにわたる箒川は、下流那珂川に注ぎます。那須郡那珂川水系を中心とした地域とみなすこともできます。このあたり鉄道や高速道路といった、近代の基幹交通だけを前提にしていると決してわからないことだと思います。f:id:tochgin1029:20180401114100j:image箒川をわたれば、かつての那須野ケ原を想像させるような景色が広がります。こどもの頃、学校では栃木の郷土史として那須野が原の開拓を学んだことがあります。そこで辛苦に耐えて開拓をする農民の姿を想像してしまうのですが、実際に目にした現代の那須野が原は、敷地の広い農家が点々と並ぶ、貧しいというよりもむしろ豊かな土地のように見えます。f:id:tochgin1029:20180401114206j:imagef:id:tochgin1029:20180401114139j:image 開拓地らしく、あまり名所や旧跡のたぐいは、このあたりではすくないのですが、途中の神社には、立派な石碑がありとても感心したのですが、行き会った旧跡めぐりの夫婦は、これを見てもあまりピンとしていない様子でした。
f:id:tochgin1029:20180401114121j:image 大田原の市街地に入ります。染物屋だったり左官屋だったり、金物屋だったり、旧い店がいろいろと残っていることから、ここが旧い町であることが分かります。街の入り口に建つお寺には、お堂に立派な彫刻がかかげられています。鹿沼を訪れたときに、かつて日光東照宮の造営にたずさわった彫師たちが、その後に近隣の各地に散らばったことを聞いたのですが、その彫師のネットワークが大田原にも伝わって根付いたことが、わかります。この町の中心となる交差点には、金燈籠とよばれるモニュメントがあります。かつて宿場が栄えたころ、日々かかさずにこの燈籠が町を照らしていたそうです。しかし、そんな燈籠が戦争に金属として供出され失われてしまいます。戦後になり、この町の有志の努力で復活したものだそうです。旧道歩きをしていて気が付くのは、こういった道端でみかける庶民の生活と知恵の集積、けっしてテレビや雑誌、インターネットに現れないような情報が、とても巨大で世代を超えて延々と伝えられていることです。例えば松尾芭蕉の「奥の細道」を見ても、各地に散らばった弟子や仲間のネットワークこそが、芭蕉たちが旅を続けられる基盤になっていることが分かります。それは、メディアで示されるような表面的な情報とは異なるもので、おそれ慄くほどに巨大なものだと思っています。
f:id:tochgin1029:20180401114226j:image これから栃木の観光キャンペーンが始まるらしく、ながらく芭蕉が滞在した黒羽という町がCMでナレーションされています。黒羽は大田原からとても近く訪れてみたいところなのですが、今日はここまでの行程にします。次回の歩きはきっと新緑を眺めながらの旅になるでしょう。