自由の当事者(4月14日 国会前へ)

2015年8月30日の国会前行動は、参加した人にとって、いまでも思い出されるくらいの出来事で、わたしもその時のことを記事にしました。

8月30日 国会前へ - tochgin1029のブログ
その時に繰り広げられた「安保法制反対」というスローガンは、打ち砕かれたけれど、それは、2011の後の街場での抗議行動のひとつの到達点だったと思います。
それから2年を過ぎ、現政権で繰り広げられる出鱈目さはさらに酷くなったと思い、街場にも波及しているように思えます。たとえば公的文書の改竄などという問題はお役所だけの問題でなく、一般企業のガバナンスの崩壊という意味で、波及しかねないよう思えてなりません。
そんな危機感を感じつつ、昨日の国会前抗議に出かけたのです。あの時とおなじように、東京駅で降りて、皇居のわきを通りながら桜田門をぬけて国会前に行く。そのルートも同じです。途中で緑に覆われた皇居の城壁を見るたびに思うのは、この国のたたづまいは、おのずと大陸とも半島とも異なっていて、自分の愛国心などひけらかすものでもないし、他人の愛国心を推し量り見比べるものではないと実感する場所です。
あの日は、東京駅から国会前まで自分と同じように歩いていく人たちがぽつぽつといたけれど、そのころと比べれば少ないなと思いながら向かいます。
 着いてみれば、すでに抗議行動は始まっていました。著名人がスピーチを続けています。そのひとつひとつはもっともなのですが違和感が残ります。そこで行なわれた、原発反対、安保法制反対、特定秘密保護法反対…といったコールも、それぞれは正しいのだけれど、「いまここで」自分が思っていることとどこか違うように思いました。2年前よりも状況は悪くなっていて個々の悪行は限りなく数え切れない。その根っこにある怒り、ここに参加している人たちがうすうす感じている思いとは違う。同じようなフラストレーションはこの場所にいるほかの人たちも抱えていたように思います。
f:id:tochgin1029:20180415122023j:image 3時半を過ぎて、若者たちによる主催にかわりました。「まえへ」というコールは、そんなフラストレーションを代弁したかのようなコールでした。ほどなくして警察が設置した柵を乗り越えて、皆は路上に出ていきます。「決壊」という現象です。そしてコールする言葉も「アベハヤメロ」とか「ソウジショク」とか「ウソヲツクナ」というシンプルなものに変わります。
「今、ここで」行うコールならば、こちらのほうがしっくりくるように思いました。理が通じるわけでない相手に対する言葉は、ごくごくシンプルでなければならないのです。
コールそのものは、一斉に「あべはやめろ」と合唱した2年前の方が凄かった。ただし、それでもいいなと思いました。この場所で重要なことは、一糸乱れずにコールをすることよりも、現在の政権を支持していないことを路上に立って示すこと。そのことを2年のあいだに会得したのです。
f:id:tochgin1029:20180415122152j:image 離脱しながらながめた路上の解放区の自由さは、お祭りなどの盛り上がりとも違うし、ほかのどの場所とも異なります。それは参加する人たちの良識で成り立っている空間なので、秩序もないカオスな空間でなく秩序はあります。でも、それは上のほうから押し付けるような、枠に押し込めようとする秩序ではありません。
 この国では、自由というのもなにか、管理者とか権力者からあたえられたもののように錯覚されています。「自由には責任を伴う」という言葉は、管理者や権力者から発せられる限りうさんくさいものですが、本当はその言葉はこちら側が発するべき言葉です。自分たち自身が自由の当事者であること。さらに言えば自分の人生の当事者であること。前方後方それぞれのエリアで集団が形作られ、それぞれのやり方でそれぞれがコールをしたりまとまったりするのを眺めながら、そんなことを考えていました。この路上の解放区のありようこそが、自分自身が自由の当事者である、そのことを理解できるいちばん近い空間なのだと思いました。