驚くことばかり(映画「ワンダーランド北朝鮮」)

映画『ワンダーランド北朝鮮』 | 北朝鮮の”普通”の暮らしとその人々。これはプロパガンダか?それとも現実か?

 平昌オリンピックの頃までは、いつか東アジアで戦争が始まるとかミサイルが飛んできてもおかしくないかといった国際情勢だったと思います。それが、今まで姿を見せることもなかった北朝鮮の権力者が姿を見せるやいなや、韓国、中国、ついに米国までも矢継ぎ早に首脳会談を重ねることに驚きました。この光景を去年の今ごろ誰が想像できたでしょうか?

 いつからか北朝鮮といえば、あの仰々しい国営放送のアナウンサーやミサイルの映像やマスゲームのことばかりが報道され、市井の人たちがどのような日常を暮らしているのか?ということは取り上げられません。緊張緩和の動きが日本では当惑を含んで受け取られ、置いてきぼりをくらっているのは、社会が、あまりにも片寄った情報ばかりに浸っていたことと関係があるでしょう。

 「ワンダーランド北朝鮮」という映画がただいま上映されています。この映画には、指導者や権力者の姿は現れないしミサイルもマスゲームも出てきません。映画に登場したのは、プールの運営会社に勤める男性とその家族、工場に勤める女性を描く美術家、元山の縫製工場に勤める若い女性、農村のトラクター運転手とその家族たち、といったごくごく一般の人たちです。映画を見終わって思ったのは、片寄った国内報道から、この国になにか収容所じみた印象を持っていたのとは異なる姿でした。
 もちろん、彼らの行動のはしばしには権力者をたたえる言葉が入ります。職場にはかれらの銅像があり、家庭の壁には金日成金正日の額がかざられています。ただし、これが日本に住む私にとって異世界か?というと、それほどでもないことに驚いたのです。たとえば、職場に掲げられた銅像は、そこここにある、政治家や地元の有志の胸像、二宮尊徳銅像のようなものだと見れなくもないし、職場にでかでか掲げられる目標やスローガンの類は、日本の工場といった職場でもそんな珍しくもない。家庭に掲げられる金日成金正日の額というのも、昭和の古い家庭であたりまえのように見かけた天皇陛下の額を想像すれば、そう違和感はない。そして映像に現れる人たち。

 登場する北朝鮮の一般人たちは、独裁国家という姿から想像されるように権力に近く目下とみれば横柄な態度をとるようなこともなく、むしろ紳士的です。息子に結婚してほしいと語る祖母や、もっと勉強して平壌に行きたいという夢を語る、元山の縫製工場に強める女性からは、夢も希望もなく刹那的に生きるような独裁国家の印象がなくて、非常に真面目に人々が生きていることに驚いたのでした。あらためて国内で流付される報道が、わかりやすく独裁国家の一面を誇張して伝えているか?思い知りました。
 もちろん、北朝鮮の社会に軍の存在が非常に大きいということも映像はあらわしています。16-17で、ほとんどの子供たちは軍に服役するらしいこと。軍は戦闘だけをするのではなくて、土木工事のようなインフラ整備まで行っているらしい。先軍政治と呼ばれるような社会のからくりにこんな一面があるみたいです。社会の中で軍人は尊敬されているようで、戦前の日本で軍人たちが尊敬されたのもこんな感じだったのかと思わせます。
 農村の映像には、高度経済成長前の日本の農村風景を連想させるような懐かしい景色が映っています。ぷらぷらした老人たちが農地のわきにたむろしています。映像では、軍を除隊したトラクター運転手とその家族が映されています。彼らの暮らしは、日本の農村風景からくらべればいかにも貧しい。娯楽といえば村の劇場みたいな場所でされる歌の発表会。もちろん歌の内容は、いかにも全体主義国家のそれなのですが…
 それにしても、映像にあらわれる北朝鮮の人たちは素朴でした。自分や家族の夢や希望を北朝鮮の人が語る。そもそも北朝鮮の人に「個人」という意識があったことにも驚いています。たぶん、国際関係の改善が進めば、この閉じられた国にはさまざまな外国資本がやってくることでしょう。この10年くらい「あと〇〇年で崩壊」といった言説ばかりが国内では伝えられていましたが、そうなったとしても、たぶんこの社会は生き延びると思います。もちろん、そのときに映像で見たような人々の素朴さは失われるのだろう、とも思います。
 
えいぞう