やっぱり河に寄り添っている(北関東の諸街道15)


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 いよいよ、日光街道からの歩きも今日でおしまいです。ただ、自宅にほど近い場所ゆえ、身近な景色を進む行程には、ゴールという高揚感はなかなか生まれないものです。
さて、越谷駅にほど近い宿場町の近くから再び歩き始めます。越谷駅の南側には、目立つような名所旧跡はなくて、自宅の周辺を歩いているのとそう変わりない住宅街を進みます。
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武蔵野線をくぐるあたりで少し脇の方向を眺めると、鉄道コンテナがたくさん積まれている一角があります。JRの貨物駅です。当初は貨物線として開業したことからもわかるように、この武蔵野線のあたりは、首都郊外の物流基地として賑わっていたし、大規模な操車場もありました。物流の主役が道路輸送に変わっても、この貨物駅は割と賑わっています。少し進むと、じきに綾瀬川に沿っての道となっていて、川岸には釣り糸を垂らす人が点々と居ます。この綾瀬川は、かつては全国1水質の悪い川とされたこともあって、ながめても確かにきれいな流れではないのですが、単調な住宅地を歩くのに比べれば、視界が開けて楽しく歩けます。

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川沿いをさらに歩けば、松原が始まります。この立派な松原はとても規模の大きなもので、ご近所の人たちの恰好の散歩コースになっていて、この日もたくさんの人たちが歩いています。奥州街道由来の松原を、最近になってきれいに整備したもののようです。途中には、車道をまたぐ太鼓橋風の立派な歩道橋があって、その歩道橋の上から街道とあるく人を眺めると、どこか往時の賑わいを想像できそうな気になってきます。途中には、松尾芭蕉の石碑や望楼のある一角があって、河岸公園とよばれています。その公園の由来を眺めていてはっとしました。このところ、夏になるとどこかで水害が起きます。今年は西日本で水害がありましたが、こと関東については、不思議なほど水害は起きていないし、縁遠いものと決めてかかっていました。
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ですが、この公園の由来を読めば、ほんの30-40年くらいまで、この地ではときどき水害が起きていたそうです。公園そのものが、治水対策も兼ねているそうです。

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 この公園の近くから、かつての草加宿が始まります。旧宿場の雰囲気が残る街道沿いのそこかしこに、せんべい屋が軒を連ねています。ここでそのうちの一軒にたちよりました。それほど大きな宿場ではなさそうですが、それでも旧い旧家などがぽつぽつと残っていて、旧宿場町の雰囲気は十分に感じられます。
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その草加の街を抜け、埼玉県から東京都内に入ります。ここでいきなりガラッと雰囲気が変わるわけではないのですが、それまで、草加では沿道の住宅が庭付きのものであったのが、都内に入ると団地が立ち並び、ほとんど庭のない長屋のような一軒家が立ち並ぶ風景に変わります。
どちらかというと、浅草などよりも、こういったごちゃごちゃとした小さな家が並ぶ住宅地の雰囲気こそ、わたしにとっては典型的な下町という雰囲気を感じるのです。そういえば「男はつらいよ」シリーズで、寅さんの妹さくらの家族が購入し住んでいた家も、このような典型的な長屋のような狭い一軒家でした、また、下町に住んでいた母の従妹の家に小さいころ遊びにいったその家もまた、隣の家とくっついているかのような、長屋のような一軒家だったのを思いだします。
 さらに歩いていくと、生活感のあふれる通りになります。平坦な地形もあって、年寄りたちがみんな自転車で通り過ぎて行きます。その多いこと多いこと!歩行者と自転車の割合は半々という感じでしょうか。活気を感じます。
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梅嶋駅の高架をくぐり、進んでいくと、前方をふさぐように大きな堤防が現れます。荒川の堤防です。土手に上がりながら堤防を進むと、左手には、常磐線とつくばTX線、千代田線、東武線と、線路が並んでいて、ひっきりなしに電車が通ります。この線路がすべて北千住駅を経由しているのです。これだけの線路が集積している場所は、山手線沿いの駅を除けば、北千住くらにしかないのではないでしょうか?川を渡り反対側の堤防からながめた千住の町は、ずいぶんとごちゃごちゃして見えます。

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 品川、内藤新宿、板橋、千住と5街道沿いの宿のなかでも、千住の宿は最大の規模を誇ったそうで、街道沿いの商店街は、そのまま現役の賑わいを保っています。この雰囲気は、東海道中山道の交わる草津宿の雰囲気とどこか似ているようにも思いました。
千住宿の街はずれには市場があります。このような市場の立地には、繁華街から遠からず近すぎずといった距離がちょうどよいのでしょう。この先、千住大橋隅田川を渡るのですが、首都高が視界を遮り眺めはよくありません。渡った先の南千住では、真っ先にJRの貨物線を横切ります。市場も貨物線も、けっして街のど真ん中に立地できないけれど、かといって繁華街とかけ離れた郊外に設置することもできない。都心と千住あたりの距離感というのは、車社会が到来する以前の絶妙の距離だったのだろうと思います。

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 さらに、浅草の裏手をまわるように進みます。このあたり、日曜の午後ということもあって、恐ろしいくらい人通りも車の交通量も少なく、車自体が音を出さなくなっていることもあって、静かな町です。観光客の姿を見かけるようになると、浅草の街に入っていきます。直近の地震で減ったとされているようですが、それでも現在の浅草の観光では、主役は訪日観光客です。その賑わいで歩くのもままなりませんが、それも浅草寺の周辺に限られるようで、その観光スポットを離れれば、一気に人通りが少なくなります。
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浅草橋を抜け、馬喰町の問屋街を抜け、どちらも日曜とあってまったく人の姿が見えません。小伝馬町や大伝馬町のオフィス街もまったくひとの姿が見えません。このあたりは、普段の通勤先にも近く、平日の有り様をよく知っているつもりですが、日曜の静かな光景は、普段とはかけ離れたとても静かな様子でした。その人気のないオフィス街を曲がれば、とつぜんのように人通りがわんさかと増える。三越本店が見えると、まもなくゴールの日本橋です。観光客と買い物客でいっぱいの日本橋から川を眺めると、水上タクシーと称する船が浮かんでて、観光客を載せています。

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 傍らには「日本橋魚河岸跡」という石碑が立っていました。現在の築地市場が設置される前の魚河岸は日本橋にありました。これまで歩いてきた関東各地の河岸から運ばれる船の行き先も、その多くは日本橋でした。江戸の町、とりわけ日本橋が、その後背地ともいえる、関東各地の河岸や河川交通と密接に繋がっていることが、日光街道を歩くとよくわかります。まもなく、魚河岸は築地から豊洲へと移転します。都心の局所では江戸文化が見直され、局所では観光客でにぎわっている一方で、一歩離れれば都心はとても静かなもので、人々が普段の暮らしを営む空間としての路上の賑わいは、全体として都心の街から失われつつあるように見えました。
 さて、日光街道をゴールし、いわゆる五街道のうち東海道が未走破のまま残りました。今回は、江戸に向かうルートをとりましたが、いかんせん職場や普段の普段の生活空間とも繋がっていることもあり、この場合だとゴールに向かうわくわく感には欠けるようです。この次に歩く東海道は、やっぱり江戸から京都への向きで歩くことにします。