楽しい街道歩き(東海道を歩く(その1))


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 久しく、歩いていませんでした。関東あたりの道歩きがつづいたせいか、道歩き当初の新鮮な楽しさが薄れたかもしれません。

 ただしその間、体重計の数値は上がっぱなしで、定期的に通院している医院では、運動をと言われる始末。そういえばおなか周りもなんとなく・・・なんていうわけで、街道歩きを再開です。

 関東近郊もいいけれど、ただ見知らぬ土地、ただ見知らぬ景色の中を歩きたいと思いました。5街道だとまだ歩いていないのは東海道ですから、今度あるくのは東海道で決定。もちろん行き先は日本橋


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 この日、東京駅で降りて日本橋に向かう道は、すでに観光客だらけでした。昔なら百貨店のいくつもの紙袋を抱えた買い物客がいきかうのが日本橋の光景だったでしょうが、いまの日本橋なら主役は訪日観光客と、仕事はリタイアしたような高齢者カップルで、買い物よりは美味しいものを食べたり、そぞろ歩きをしたりして過ごすのが目的です。いつも仕事で訪れる界隈も、つぎつぎと新しいビルが建ち風景が一変したことに、いまさらながら気が付きます。ビルに老舗がテナントとして入居して、かろうじて日本橋らしさを演出しています。


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 銀座の交差点も同じように様変わりしています。有名ブランドのビルが軒を連ねていて、そのせいか日本橋界わいにくらべ意匠を強く打ち出した建物が多いようです。クライアント好みの意匠が壁面すべてに展開された建築物は、眺めるとどこか気持ち悪さを感じるのが正直な印象です。技術の進化によって、建築家やデザイナーが頭に描くイメージを、忠実に建物に再現できるようになったのかもしれませんが、それゆえに、他人の脳内を無理やり見せられている感じ、気持ち悪さの正体はそんなところかもしれません。


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 さらに進むと、汐留あたりで途中の道端には再現された旧新橋停車場がありました。後ろには電通本社ほか汐留のビル群がそびえています。猛烈な勢いでオフィスビルが建ち都心の風景が一変したことの象徴の光景に思いました。

 新橋へ田町へと進みます。都心のようなビルの建築ラッシュはありませんが、どの駅前も、なにかしら新しいビルが建っています。


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 田町駅の近くでは、道脇に西郷隆盛勝海舟江戸開城の談義をしたという場所の石碑が残っていました。このあたりはかって、大木戸とよばれる江戸の町内と外を隔てる門があり石垣も残っています。江戸城を目指す薩長軍が、東海道をつたって江戸の町に入るなら、たしかに、江戸と周囲を隔てる境界のような場所にあたるようで、その先には四十七士が葬られた泉岳寺があります。47士の墓地としてあまりにも有名なお寺ですが、ふと気が付けば見たこともありませんでした。どんなものかと見に行くことにします。


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 こぎれいに整えられた境内の中は、多くもなく少なくもなくといったほどほどの参拝客ですが、ここでは、こぎれいな本堂より義士の墓のほうが目立っています。墓地に入り、線香を購入してから47義士の墓参りをします。主君浅野内匠頭の墓も加わって、ここでの墓碑の総数は50を越える数です。そのすべての墓前に線香を揃えていくのは、実はけっこうしんどくて、体力を使うものだと思いました。途中には「首洗いの井戸」という、吉良上野介の首をあらったとされている井戸があります。元禄時代では、仇討という行為は、そもそもありえない行為になっていました。身に降りかかった損害を、自力で取りかえすという行為は、まだ「徳川の平和」が実現された管理社会になっていない中世的な紛争解決の方法で、47士が行った自力救済という手段は、その意味で天下を揺るがす大事件だったというわけです。

 泉岳寺からは、すこし歩けば、品川駅付近に到達します。学生の頃は、このあたりでアルバイトをした場所でした。そのころは、品川駅はただの乗換駅に過ぎず、巨大なホテル群のほか、これという繁華街でもない町でした。その当時に比べれば、いまや駅前の交通量は、何倍にも膨らんでいます。反面で、アルバイトをしていたころのあか抜けない、のんびりとした雰囲気は、この界隈からはなくなってしまいました。そのころ働いていた店はもうすでに無くなってしまい、そのころ一緒に働いていた人たちもこの場所にはいません。彼らは今ごろどうしているのか?当時が懐かしくなる場所です。


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 さらに進むと、新八ツ山橋へと進みます。京浜急行の踏切があり、とぎれなく電車が通過していきます。朝ラッシュでもないのに、ここは開かずの踏切で、まったく渡ることができません。その踏切を通過したあたりから、かつての品川宿が始まります。かつての東海道は、ここではそのまま地域の生活道路に変わっていて、かつての宿場町もそのまま生活に密着した商店街に変わっています。このあたり、左手をながめると土地が一段低くなっています。広重の版画では、この品川宿は海岸沿いに延びて描かれているので、その一段低くなった先は、かつては海がひろがっていたのだと想像できます。反対に右手を眺めると、一段高い段丘になっています。いわゆる高級住宅街が広がっています。かつてはこの段丘の上は大名屋敷だったそうです。休憩所の方が教えてくれました。このあたりは、韓国料理店が点在しています。昼飯はそのうちの1件に入りました。韓国料理にしては、あっさりとした味なのは、たしかに家庭料理風です。となりの客は、参鶏湯を食べたところ、効能で一週間元気で過ごしたと話しています。思わず参鶏湯が食べたくなります。
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旧宿場をさらに進むと「品川寺」という寺がありました。ここには、巨大な地蔵菩薩が鎮座しています。お寺そのものも由緒のあるお寺のようで、建物の中では一般の人たちが写経?をしていました。立合川のあたりは、どうやら坂本竜馬にゆかりのある土地のようです。駅の近くには立派な竜馬の銅像がありました。
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西郷勝海舟の談話といい、江戸の大木戸や、47士の泉岳寺、この場所は江戸の町と外を隔てる境界の場所だからこそ、竜馬のような素性の定まらない浪人がうろうろ活動できた、うってつけの場所だったのかもしれません。反対に、江戸末期の当時に来日した欧米人にとっては、品川は危険な場所であまり通りたくない場所だったと、訪日の記録には書かれています。立会川を過ぎればにぎわっていた旧道沿いも、次第に殺風景になっていきます。そして、第一京浜と合流します。その旧東海道がぶつかるあたりに、かつての鈴ヶ森の刑場跡が残っています。このような刑場という施設は、境界に置かれる施設の代表で、このあたりが当時に江戸と外を隔てる境界のような場所として意識されていたことを示しています。


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 今日の歩きはここまでです。もう少し先まで歩くつもりでしたが、思いのほかこの品川宿かいわいは旧跡が多く、街道歩きの楽しみをたくさん感じられる場所で、この先の川崎宿、さらに神奈川宿保土ヶ谷宿も期待が膨らみます。