周縁と境界の道(東海道を歩く(その2))

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 歩き始めた東海道は、品川宿のあたりも旧跡がたくさん残る場所でした。江戸という町はそれぞれが木戸で仕切られた管理社会です。その江戸から外れた地だからこそ、町内では憚れるとされたことも、おおっぴらに行えたことでしょう。

 鈴ヶ森の刑場跡から本日の歩きを始めます。最初は第一京浜沿いを歩き、途中でわき道にそれると、美原通りという通りに出ます。かつての海苔養殖のなごりでしょうか、商店街のなかにぽつぽつと海苔問屋が数件残っています。平和島大森町、梅屋敷と、京急の高架線を休みなく電車が通り過ぎていきます。そして駅前には、どこにもほどほどにぎわっている商店街があります。そのうちのひとつ梅屋敷駅の商店街にある食堂で食事をとります。
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 このあたりは自分にとって、かつて暮らしたことがあるなじみの場所です。インターネットといった、ひまつぶしの道具もない時代に、ひとり暮らしの気楽さと淋しさを存分に味わった場所です。こういった商店街の賑やかさと人の温度によって時々、寂しさから幾度か救われていたことを思い出します。

 その先、京急蒲田のあたりもなじみの場所だったはずですが、往時とはすっかり違う景色に変わってしまいました。かつての京急蒲田駅は、空港線を3両の電車がいったりきたりするだけで、その都度、第一京浜の踏切では、遮断機が手動で上げ下ろしされていました。どこかのどかだった光景は、いまでは巨大な高架橋とともに電車が空中を抜けていきます。駅と高架橋はまるで要塞のようで、人工的な空間が広がる場所に変わってしまいました。

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蒲田を過ぎたあたりから高い建物はなくなり低層の住宅が延々と立ち並ぶ景色に変わります。高層の建てもので視界が切り取られることもなく、広い空を眺めることができます。蒲田付近よりも、こちらの景色の方が昔からかわっていない。のんびりとしています。ちょうど六郷神社では、幼稚園の帰宅時間とぶつかって、たくさんの園児たちが境内をはしりまわっています。生活感のあふれる光景は、今回の歩きで初めて遭遇しました。


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 六郷橋を渡ると、多摩川の河原にはところどころテントの家屋が建っています。なかには、まるで豪邸のような小屋もあります。その多摩川を渡りきると川崎宿に到着です。川崎にはいろんな旧跡があって、地元でも親切な案内が掲げられていますが、いかんせんそこは街のなか、探しても探しても半分の旧跡は見つかりませんでした。川崎の街中は、さすがに人々がたくさん行きかっています。本陣跡がのこるあたりを過ぎれば、その先は商店街、さらにそれを過ぎると庶民的な食堂や歓楽街に変わります。そのほとんどは雑居ビルに変わっているので、旧い建物はまったく残っていないし、宿場町の風情を求めるのはそもそも無理なようです。


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 川崎の街外れでは、地上に降りた京急線とぶつかります。その場所に八丁畷駅があり、駅のわきには無縁仏を供養した石碑があります。この場所はちょうど川崎宿の外れの位置に当たります。この付近からは、江戸時代のものと思われる人骨がたくさん発掘されたそうです。低地であるこの地では水害も多発したでしょうし、犠牲も多かったことでしょう。行き倒れた人々もいたでしょう。泉岳寺、鈴ヶ森刑場、そしてこの八丁畷。徳川の260年の秩序の矛盾は、こういった境界地域で目立たぬように処理されていて、多くの人は気がつかない。

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住宅街を進むと、この先に鶴見市場駅があります。このあたりがかつて市場村とよばれていたからであって、鶴見市場という名前の市場があるわけではないようです。鶴見川を渡れば、鶴見の街へ入ります。

 鶴見の街は、旧跡に見るべきものは少なくて、それよりは、庶民的な街の雰囲気を楽しみながら進むほうが良いようです。鶴見の街を抜けたあたりに国道駅があります。この薄暗い高架下は、薄暗い闇が魅力的な不思議な空間です。形容するなら、谷崎潤一郎の「陰影礼讚」で述べられているような陰影の魅力でしょう。駅を過ぎれば、住所はすでに生麦となっています。


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 生麦は、幕末の薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件で有名な場所で、開国のあと、排外的な雰囲気も漂う時代の頃でした、当時、欧米と結んだ条約は、歴史の授業では不平等条約とされ、明治政府が克服すべき目標とされていましたが、欧米人の目線になれば、往時の日本国内で彼らの安全が保証されていたわけでもなく、彼らの身を守るには必要な条約だったかも知れません。もっともこのあたり、隣は首都高の高架と巨大なキリンビールの工場が鎮座してとても殺風景な場所ですが・・・。


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 第一京浜に合流した先は、広い道路のわきを歩くばかりとなります。新子安や神奈川新町のあたりに、街道風情はみじんもありません。神奈川宿の位置もわかりずらく、高札場跡を眺めても本陣跡を眺めても、ほんとにそこが宿の中心なのか?というくらい、宿場町の気配がありません。第一京浜を離れれば、やっと宿場風情がかすかに残る道中に変わります。洲崎大神を過ぎ、京急神奈川駅やJR線を超えた坂道のあたりがかっての神奈川宿の中心なのでしょう。途中には、数年前まで地上を走っていた東急東横線の線路跡が遊歩道として残っています。すぐ先はトンネルになっていて、この暗闇も、それは魅力的に見えるのですが、ともかく先に進みます。


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関門跡までで今日の歩きはおしまい。

横浜が開港して、東海道は東京と横浜を結ぶ重要な道ともなりました。だから、このあたりの旧跡は多くが幕末に由来するものです。このあたり、崖の下はかっては海だった場所で、さぞかし見晴らしが良かったと想像するのですが、いまはビルばかりなにもみえません。恐ろしく急な階段で崖を降りると、横浜駅はあっという間です。