心の中は異邦人(「湾生回家」を見て)

 毎年、2月から3月は故人たちの事を思い出すことが多くなる季節です。つい先日は、長い闘病を続けた叔父がなくなりましたし、父の命日がまもなくやって来ます。
 ある時に流れてきたtweetに「湾生回家」という映画について述べられていました。日本統治下の台湾に生まれて、戦後になり内地に引き揚げた人たちのことを湾生と呼ぶらしく、この映画はそういった湾生たちが故郷の台湾を訪れるドキュメンタリーで、舞台は東岸にある花蓮という街です。

 大阪で生まれたわたしの父も、幼いころに親兄弟と一緒に台湾にわたって、敗戦で引き揚げるまで台湾に暮らしていました。住んでいたのは、この映画の舞台花蓮の街です。父親や叔父叔母が台湾に住んで、戦後に引き揚げてからの父や叔父叔母たちの苦労した話は、どんな家族にもあっただろう敗戦直後の貧しさで、たいして特別なこととは思っていませんでした。

 けれども実際に「湾生回家」の映画を見た後で、それはまったく自分の無知だったことを痛感しました。生前の父は、台湾の思い出を話すことなどまったくなくて、わたしはその事を、父にとって「つらくて思い出したくない」いやな過去なのだと思っていました。けれども、台湾での生活は快適なパラダイスで、もし戦争がなければ台湾で一生をすごすつもりだったという事を、叔母が話していたと知りました。

その叔母と同じような湾生たちの証言が映画では流れていきます。かつての湾生であった出演者の富永さんは、花蓮を訪れてかつての友人たちの家を訪ねたり探したりします。生きていた友人と再会すれば涙を流す。すでに物故者となったことを知れば涙を流す。決して台湾での暮らしは楽だったわけでなく、最初に台湾を訪れた時、あたりは荒地だったそうです。その荒地を開墾して農地をつくり街を作っていった。パラダイスというのは生活にまつわるもろもろが合わさった感慨の言葉だったのです。
 やがて、台湾も空襲に襲われるようになり敗戦となり、日本に引き揚げることになります。良いところだと聞いていた日本での暮らしは、引き揚げてみれば実際には正反対で、引き受け先もない台湾からの引き揚げ家族はお寺に仮住まい。南国育ちの湾生はのんびりしていると教師に言われたという出演者の証言がありました。なかには差別的な言動や行為を受けていたこともあるのではないかと推測されます。
 映画では、病床の母に変わり、生き別れになった祖母の墓を日本で探す家族が描かれます。日本には引き揚げずに台湾に残った湾生たちもいて、家族や兄弟が離ればなれになったことも多いそうです。祖母の墓を探し当て、祖母の戸籍を見つけ、戸籍のなかに病床の母の名が記されていたことを知ります。祖母に捨てられたと、わだかまった気持ちを抱えていた母は誤解が解け涙を流します。反対に、日本に引き揚げた湾生は、台湾で戸籍が残っていたことを知り、自分が台湾に生きた証を知り涙を流します。
 湾生の一人が、自分たちは異邦人だ。と述べていました。この言葉にはっとしたのです。父にも叔父にも引き揚げ後に、職を転々としていた時期があったそうです。引き揚げた内地には自分の居場所がないと感じたからの行動だったのか?といまでは思います。もの言わず実家の茶の間で無口で座っていた生前の父でした。物故者となった今では知る由もないですが、父にとって心の故郷は台湾で、たぶん深い郷愁を感じていたのだろうと思いました。
 それにしても、戦争は多くの人々の人生を狂わせます。もし父が内地に引き揚げず台湾にいたら自分がこの世に生を受けることは無かったでしょう。戦争による災難の最たるものは、人々の人生の可能性を奪って行くことで、そのことは許せないことです。