新しいライフスタイル?(「ノマドランド」を観た)

 街中で中高年アルバイトと出会うことが多くなったことに気が付きます。コンビニでの買い物とか。多くを期待できない年金の受給さえ将来に不安がある。企業を定年退職した人たちも、拍手に囲まれ花束をもらい職場を去った翌日には、すぐに職探し。なんていう光景が当たり前です。日本とアメリカとではまるで環境が異なるし顕れかたも違いますが、一昨日に視た「ノマドランド」という映画で描かれた中高年たちの過酷な日常は、日本でも変わりがないなと共感したものでした。
 この映画では、定住をやめ自動車に寝泊まりアルバイトで生活する中高年たちが主役です。主人公の女性もそのなかのひとり。夫婦ですんでいた炭坑の街が閉山になり街がまるごとなくなり、夫も先に死んだあと、改造したバンに寝泊まりする暮らしを選択しました。昼間はアマゾンの包装のアルバイトをやってなんとか生計を立てる。そのような中高年アルバイトの存在が、実はアメリカでのアマゾンの運営を成り立たせていると知ったのは後日談です。
 身なりのくたびれさ加減から彼らの生活が過酷で苦しいことが推測されますが、それでも「ホームレスではないハウスレス」と自分の暮らしを前向きに生きています。不要になったものは同じハウスレス同士で、物々交換などをしてやりくり。お金に不自由がある生活であるが故、お金を媒介しないコミュニティが成り立っています。もちろん、このような移動生活を送るものたちは、孤独を愛する側面があります。物々交換などで一時的に集まっても、やがて集まりが終われば、また散り散りに去っていく。柵と絆という鎖に繋がれた日本のコミュニケーションからは、とてもドライな関係にうつります。
 映画の中ではそんな主人公の移動生活がゆさぶられるシーンが二度ありました。バンが故障し、遠くの街で定住生活を続ける姉にお金を借りようとしたとき。もうひとつは、移動生活から離れ定住生活を始めた仲間の男性(実は彼女に好意を秘めている)に招かれ、家を訪れたとき。けれども、どちらも主人公は定住には背を向け黙って家を出ていく。「わたしはわたしの風が吹く」と、他人の家に寝泊まりすることそのものが束縛なのでしょう。
 映画を見終わったとき、さて日本のなかでこの映画のようなコミュニティってあったかな?と思いましたが、それに類するものは現代の日本にはなくて、それよりはわずかな古典のみで知る中世の日本を連想しました。たとえば「一遍しょうにん聖絵」に描かれたような、山人だったり漁師だったり、移動しながら生活する人たちのことを。映画では、移動生活の集団の中で、この漂泊する生活を肯定的に唱える新興宗教の教祖のような人物が現れます。そういえば中世の鎌倉時代でも新しい仏教が花開いていたっけとも想像します。
 この映画で描かれたのはリーマンショック後のアメリカで、その当時に中間層から脱落した人々の存在は日本でも報道されました。そして現在の日本でもコロナによる苦況のなかで、多くの人たちが職を失って来ています。描かれた中高年たちの新しい?ライフスタイルはアメリカだけのことでなく、自分にも起こりえる事としてながめています。