「水戸学と明治維新」を読む

お盆やすみは読書三昧ですね。一日一冊みたいな調子で読んでいる所です。いま読んでいるのは「水戸学と明治維新」という本。江戸時代にあれほど庶民の文化が花開きながら、次の明治政府が、なぜ権威主義的なのか?という疑問があったからです。

水戸学の起こりは水戸光圀が命じた「大日本史」の編纂から。編纂作業を通じて水戸藩に生まれた思想のようです。御三家のひとつである水戸藩が編纂をするのですから、それは本来は幕藩体制の正統性を語るものですが、古をたどるうちに、何故か南朝正統論や尊王思想に傾いてしまう。思想の裂け目から幕府を転覆する思想に変わっていく。幕府側か藩閥側かにかかわらず、幕末の武士階級の主な思想となって行く。

 でも、根本的に、水戸学はあくまで支配階級の思想なのだと思いました。著者によれば、藤田幽谷らの思想からは、庶民に対する蔑視感があり、事実、水戸藩の財政的な苦境の原因を農民に求めたりという考え方をしています。でもこれは明らかにおかしいことです。生産活動をまったくしない5%の武士たちが食えなかったからといって、95%の農民のせいにするんですから。事実、そんな歪んで間違った蔑視観は、息子の藤田東湖が藩政に関わり現実に触れることで矯正されたようです。  藤田東湖の思想は、国学などの成果を取り入れたようですが、国学に対する考え方の違いがさらに対立を産んだようです。師弟の間ですら対立が多いのも水戸学の特徴かもしれません。

 で、そんな水戸学に染まった藩士たちが作る政府の政策、例えば教育勅語のようなもので、本来は武士階級だけのものである水戸学の思想が庶民にまで広がる。でも、水戸学に残った庶民への蔑視観は、庶民に普及することで、後世の日本に悪影響を与えたのではないかと思っています。そもそも、庶民の自尊心は否定されるわけで、庶民同士でさえ分断と対立を産んでしまう。 また、水戸学を信奉した藩士の多くは、大志のためといいながら、乱暴狼藉しかやらなかったのも事実です。

 さて、現代の日本では、教育勅語を信奉すると公言する政治家も多いですが、彼らは、権威主義的だったり、庶民に対する蔑視観のみ引きついでいるようにしか思えないのです。自分の利権を追っているようにしか見えないのに、それを大志のためという。幕末に、乱暴狼藉を尽くした浪人たちと変わるところがないと思います。水戸学そのものに内包された問題点かもしれません。

水戸学と明治維新 (歴史文化ライブラリー)

水戸学と明治維新 (歴史文化ライブラリー)