久しぶりの美術館

 新型コロナの感染予防とのことで、街中のあらゆる店は営業自粛になりました。これまで気軽に立ち寄っていた美術館ほとんどが休館になりました。この異常がいつまで続くのか?なにが一番不安な気持ちを沈めるには必要かと思うと、それは文化芸術や教養の力なのではないだろうか?と思います。6月になると、美術館の展示も少しずつ再開され始めました。早速のように出かけたのでした。
 特別な企画展示がなしで、常設展示をいちばん楽しめる場所としては、竹橋にある国立近代美術館がいちばん好きな美術館です。はてさて?いきなりの入館は難しいのだろうか?WEBをみれば事前予約を促されました。あとの煩わしさを避けてチケットを予約したので、むしろ入館はこれまでよりもスムーズでした。国立近代美術館の常設展示は、所蔵品のなかからいくつかセレクトして、年に何回か展示替えしています。この国において「近代」とは明治時代からのことですから、展示される作品はすべて明治時代以降からの作品です。
 見た中で気になったものといえば2番目の展示室。新緑の季節らしく緑を基調とした絵画の数々。川田喜二郎をはじめとした点描画もたくさん展示されています。さまざまな色の光が景色に溶け込んで見える様子は、確かに点描画という技法でないと表現できないだろうなあと思います。風景を眺めるまなざしは、江戸時代までの絵画とはまったく異なっているのがわかります。自分を取り囲む景色をそれ全体として眺めるのは、西洋文明とふれあわなければ獲得しなかった視座です。たとえば、洋画が展示された一角には好んで農作業をする農民や日常の田園風景が描かれていて、これはこれまでの日本画で描かれてきた花鳥風月とは異なる視点です。かれらは西洋とふれあうことで、農民の作業風景を題材として扱うことを発見したのですよね。柄谷行人日本近代文学の起源」を読むと、同じことは小説の世界でも起きていて、例えば、国木田独歩の「武蔵野」あたりで、西洋文明と触れることで、見る風景そのものを「愛でるもの」そのものとして扱う視座を獲得したこととシンクロしています。
 展示を大正時代の絵画に進みます。デモクラシーの時代とされる大正ですが、2つの戦争に勝利したことで、日本がアジアの他国に対する優越感をもち自信過剰になっていった時代。展示された絵画群からも見えてきて、画家が取り上げる対象も西洋の事物一辺倒になり、アジアに対する優越感や差別視が芽生えいく時代です。川端龍子などがアジアを訪れて描いたスケッチが展示されています。スケッチはまるで観光気分で訪れた旅行者が描いたような呑気さが見えます。
 時代はさらにすすんだ「太平洋戦争」の最中に開催された絵画展にしっかりと引き継がれています。かつて藤田嗣治戦争画を同じ国立近代美術館でみました。そこでは画家が題材として戦争を活き活きと描いていてを感じたのですが、今回は、政府の依頼で日本画家が描いた画も隣に展示されています。藤田の絵では、兵士個人ひとりひとりの身体が大きな戦争を構成しているという事実を表しているのに、隣の日本画では、生々しさは消えて、まるで牧歌的な絵にしか見えない。花鳥風月を描くように戦争が描かれています。また、上海に凱旋する日本軍を描いた絵画でも、これまた他者(中国人)にたいする生々しい視線はすっぽりと抜け落ちています。
 敗戦の後も、通俗的なテレビドラマでは、いきなり明るい戦後社会が訪れたかのように描かれていますが、いやそうではなく、1950年代に描かれた絵画をみると、決して明るい時代であったわけではなく、それは暗い基調の絵画も多くあります。なにより貧しかったのだと思います。それが経済成長の時代を超えて物質に満たされた日常を超えて、だんだんと観念的になっていきます。表層だけは明るくなってきます。戦後の作品を時系列で眺めているとそんな印象を受けます。21世紀の現代もその延長線上でしょうが、もうすぐ終わるだろうなと、いまは冷ややかに眺めています。
 近代美術館の常設展示はいつも、歴史博物館を訪れるのとは違った形で、日本の近代史を振り返るよう趣があります。美術館でありながら、どのような視線をもって日本の近代を人々は生きてきたのか?なんて歴史的なことを振り返る場所です。