鎌倉時代の可能性2(藤沢 遊行寺「一遍聖人聖絵」)

 国宝の「一遍聖人聖絵」が現在、藤沢の遊行寺というお寺で展示されていることを知り、見にに行きました。最近はこのような展示に行けば、若い人はほんとうに少ないものです。お年寄りばかりだというのは少し寂しいですね。館内は、老人が職員にひたすら自説を話しかけたり、夫婦で訪れて、妻にうんちくを語りかけるだんなとか、よく散見されます。隣で又聞きしても、おおかたはどっかの受け売りだったり教科書っぽい話がおおく、感心をひくものはありませんでした。作品そのものよりも、ネームヴァリューそのものを見ているよう。有名観光地のように行くことそのものが目的で、果たして、展示された絵そのものを楽しんでいるようには見えないのが、少し残念な気がします。そんな疑問はあっても、絵そのものは、この「一遍聖人聖絵」は本当にすばらしいものです。1巻から12巻まですべて揃ったことで、この絵がもっとも伝えたい「一遍聖人の生きざま」を流れとしてつかむことができることに意義があるのですね。
 一遍聖人の行くところ行くところには、常に人垣が発生してきて、念仏をとなえながら踊る姿が描かれています。それは、宗教者というよりは、現在でいえばミュージシャンと観客が歌い踊るライブ会場のような姿ですね。そして、そこに集う庶民たちの姿は千差万別。乞食もいれば、立派な身なりのものもいます。そしてなによりも、ひとりひとりの顔立ちはどれも違っていて、かつ喜怒哀楽の表情がとても豊かなことにとてもびっくりしました。たとえば、浮世絵でも表情が描かれることはありますが、それは一遍聖人聖絵のように生き生きとした表情ではないし、ましてや鈴木春信が描くような美人画は、すました表情に見えても喜怒哀楽はありません。この国の社会が、太古の昔から全体主義だったと語られるありようとは、この一遍聖人聖絵の世界は全く異なる世界です。前回の記事で「古今東西の画を、統一したのだ。」という狩野派の豪語を書いたのですが、狩野派にとって取り込まれなかったものはなにか?といえば、絵のなかで表現されるひとびとの喜怒哀楽の姿です。絵画とが彫刻のなかで喜怒哀楽が表現されていたのは鎌倉時代までで、その後の時代になると、やまと絵の世界から人々の豊かな表情が消えさっている。
 はてしなく遠い過去に失ってしまったが、昔は確実に存在したもの、それを「ひらがな日本美術史」のシリーズで、橋本治さんは鎌倉時代に存在した「可能性」と言っています。そのことはいったいなんなのか、ずっとひっかかっています。