将軍を追い出した国

 日本の権力構造の中心が空洞であるといい、その空洞の理由を天皇の存在にもとめる、彼が自分から権力を公使しない特徴にに求める言説があったと思います。ですが、いやそれは違うのではないか?と、考えさせる本を読みました。

「日本人と参勤交代」という本を図書館で借りて読み進めています。これはアメリカ人の研究者の書いた本なのですが、日本人研究者に比べて、客観的に書かれているように感じます。不思議なことに参勤交代について書かれた本が少ないということも。

 これによると、地方大名にとっては、かなりの金銭的な負担を課すこの制度、不思議なのは、江戸に出勤することを、自らサボタージュする大名も200年以上いなかったということです。幕末になれば規模の縮小がさけばれ、末期には緩和されるのですが、そのあとわずか2年で幕府は崩壊している。徳川家が一方的に指図するかのような幕藩体制ですが、現実の制度の運用はかなり柔軟です。藩主が病気であれば、届け出て出仕を遅らすことができたし、海に面した藩ならば、海外防衛を理由として、江戸への出仕の義務も緩かったようです。徳川家と各大名の関係についてはれっきとした序列があるけれど、その運用は実状に即した柔軟さも持っている。徳川家にとって、将軍を頂点とした秩序や権威が、江戸の街で演出されれば、ほかはそうつべこべ指図はしなかった。

 それは、各大名にとっては行列の規模が、家格を表すデモンストレーションでもあったということです。規則では石高によって、大名行列の規模は決められているのですが、大名の財政にも余裕があった元禄までは、規則よりも大規模な行列を、大名が自ら構成していたそうです。大名は江戸に出仕することで領地を安堵することができ、将軍家は大小さまざまな大名が、江戸に集まってくることで、自分たちの権威が高まる。徳川家と大名たちによる共同作業です。

 3000人にも及ぶ行列は、もちろん入念な準備が必要です。事前には、街道筋の本陣などの宿泊先との折衝、もちろん幕府方との折衝はもちろん、出発してからも、先見隊が先回りして、道の様子を調べたり、渡るべき川の水かさを調べたりと、入念な準備が必要です。

 また、庶民たちは行列すべてが通るまで、ひざまづかなければならないわけでなく、藩主が通る前後こそ、ひざまづかなければ身の危険が伴いますが、それ以外はそれほどとがめられるわけでもなかったようです。事実、庶民の間では、行列そのものが見物の対象になっています。行列めあてに追っかけを続ける庶民もいたようです。

 現在では、地方に選挙区をもつ国会議員が東京と選挙区をひんぱんに往復する姿が、これに近いのかもしれません。選挙区に帰ることをお国入りなどと呼んで、江戸時代の参勤交代になぞらえている風です。ただし、現在の参勤交代には欠けている物があります。かれらを安堵する世俗的な権威、すなわち将軍にあたるものが存在しない。制度上は、国民主権ですから、かれらを安堵するのは国民です。ですが、庶民とは切り離されて育った、世襲国会議員にとって、このことを腑に落ちてわかっているのはどのくらいいるのでしょうか疑問ではあるのです。江戸時代のように、国会の真ん中や皇居の中に自分たちを、安堵する権威が存在すると思っている。

 江戸幕府を壊して、将軍という世俗的な権威を消滅させた後で、その存在をいかにして埋め合わせようかというのが、日本の近代の迷走の起点ともいえるかもしれません。明治政府は、天皇を将軍の代わりにしようとしたのだと思いますが、天皇が世俗的な権力に傾くことは、逆に

天皇を危険にさらすことに、明治の元勲たちは後になって気がついたのですね。ですが、この矛盾は結局、いまも解消されていないのだと思っています。