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頭を垂れること(神仏を信じるということではなく)

 頭を下げるという行為を、最近は忘れてしまったなと自省します。他人の話ではなく、自分自身のことです。

 子供の頃は、だらしがなくて身の回りのことなどきちんとできないなかった私は、毎月のように母親の大目玉をくらっていました。とはいえ、なんで大目玉をくらうのかは、身にしみてはわからない。なんども同じことを繰り返しては大目玉を食らう。きっと、大人になったら怒られなくなるのだと思い、早く大人になりたいものだと思っていました。

 やっぱり、大人になれば怒られることも少なくなるのはいいけれど、だんだん人に頭を下げるという行為に、縁遠くなっていくのを実感します。中高年のひとが、頭を下げるといえば、仏壇に手を合わせるとか、寺社仏閣で頭をさげるくらいでしょうか。安易に謝ったりするのはよくないけれど、本当は頭を下げなければならなときに下げれない、意固地になるというのを年をとる毎に実感してしまう。

 日常生活のなかのどこかで、頭を下げるという行為はこなしておいたほうがいいのかなと思います。別に神様仏様を信じななさいというのではなく、世間が自分を中心に回っているのでないということを再確認する行為として。

 会社の中でふんぞりかえっているワンマン社長であっても、顧客・消費者に対しては頭を下げるものです。一代で大企業を発展させたワンマン社長が、不祥事により晩節を汚すのはよくあることで、周りがイエスマンばかりだったとか直言できる部下がいなかったとか言われますが、本当の原因はそこではなくて、祭り上げられているうちに、当人が頭を下げるという行為そのものを、忘れてしまっているからでしょう。周りがイエスマンばかりでも、立派な社長さんは、現にいくらでもいると思います。

 まもなく、311の震災から4年がたちます。一昨日のテレビ番組でみた特集のなか、コメンテーターからは「自然への畏怖」という言葉が発せられました。災害の当事者ではない私が、災害から得ることのできる教訓は、端的には「自然への畏怖の念を忘れないこと」なんだと思います。天皇陛下がずっと行っていることなかに、戦争の犠牲者や災害への犠牲者に対して祈り、頭を下げていることです。あまり省みられないのですが、みなから「偉い」と思われている人は「決して誰に対しても頭を下げてはいけない」わけではないのです。もしも、偉い人が「誰にも頭を下げなくていいのだ」と考えているような組織や団体、国があるならば、その組織はいずれ崩壊するでしょう。