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自己犠牲は美しいだろうか(朝日新聞夕刊連載「ヤマトをたどって」)

 今週まで、朝日新聞の夕刊では「ヤマトをたどって」というシリーズ記事が連載されていました。その記事のなかで、手塚治虫の泣いていた姿が記述されています。とある座談会で、ちょうど「宇宙戦艦ヤマト」の映画が、大ヒットした直後のことです。

 手塚治虫が泣いたのは悔しさからです。ヤマトの商業的な成功に嫉妬したのではなくて、ヤマトのストーリーに描かれたような、主役キャストたちが自己犠牲を繰り返して勝利するストーリーを、手塚は「浪花節」とばっさり切り捨てます。メインキャストが自己犠牲をしながら集団の為に死んでいく、自己犠牲を美化するヤマトの視点は、彼にとって、戦争中自分にたいしてつらい経験を強いた、軍国主義の精神そのもので、戦中につらい体験をした手塚にとって、それは許せなかったんだろうと。

 ヤマトの作者である松本零二も、プロデューサーの西崎義展とは対立したと聞いたことがあります。彼は「さらば宇宙戦艦ヤマト」のラストを、主人公がヤマトもろとも敵鑑に突入するようにはしたくなかったと、映画化の直後のインタビュー記事で読んだことがあります。しかも西崎が当初のぞんでいたのは、もっと軍国主義的な色彩に満ちた脚色だったそうです。ヤマトのストーリーの機軸となっているのは、物量ともに戦力の圧倒的に劣勢な「ヤマト」が、敵方に奇跡の連続で勝利する。それは、戦争体験者たちがフィクションに仮託した太平洋戦争の夢物語で、本来の松本零二の作風とはやはり異質な作品だと思うのです。

 反対に、富野由悠季機動戦士ガンダム」の、リアリズム追求の脚色では、ヤマトのような奇跡は連続しない。リアリズムの視点からは、物量ともに優れたほうが勝利する。それが、富野による「ヤマト」にたいする批判だというのです。数ある従軍記の中には、富野と同じような考え方をする作者も多く、なぜ日本軍が負けたのかという問いに、物量や補給のことを日本軍が当時まったく考えていなかったからだという結論となっているものも多いです。その点では富野の考え方は、特に独創的なものではないでしょう。

 けれども、リアリズムを追求したはずのガンダムでさえ、ストーリーの中には主要キャストが自己犠牲で死んでいく姿が現れます。むしろ、ヤマトよりもすさまじいかもしれません。自己犠牲を、どうしても尊くて美しいものとして描いてしまう。その感性から逃れられないのが、戦前生まれの限界かもしれません。手塚治虫でさえ戦争シーンの描写はあるではないかという批判はありますが、戦前を生きた人間は、肯定否定を問わず、自己犠牲を尊いとされた戦前の教育の影響下に育ってしまう。 

 では、自己犠牲を尊くて美しいと感じさせてしまう、そんな感性から逃れ得る方法はあるのでしょうか?困難ですが答えは簡単かもしれません。みなが、それぞれの自分の生を充実させる。という至極あたりまえのことしかないのでしょう。