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文明化の一過程としての神仏習合(義江彰夫「神仏習合」岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)


 以前に安丸良夫さんの「神々の明治維新」を取り上げましたが、そこでの論点は、明治維新というより王政復古の号令にあわせて発生した、廃仏希釈と神仏の分離運動が非常に政治的な運動であったことを述べました。では、それ以前は神仏習合と呼ばれた神仏の境目のない世界であったわけで、その世界のありようはどうだったのか探りたくなり「神仏習合」という岩波新書を手に取ってみました。

 仏教が日本に輸入されたのは、欽明天皇の頃です。仏教を肯定した蘇我馬子と否定した物部守屋の対立は日本書紀にも描かれているし、聖徳太子仏教の伝播にとっては決定的な存在です。けれども、奈良時代までの仏教は、あくまで支配層の為でしかなかったし、どこまで理解したかといえば、単に、海外で広まった風習でしかない。という理解だったと。それが、支配層の内面にまで影響を与えるようになったのは、聖武天皇のころですね。平城京を捨てて、紫香楽宮恭仁京など転々とした聖武天皇の奇っ怪な行動は、たとえば橋本治さんの「窯変平家物語」では藤原広嗣の反逆の報に怯えたからと語っているし、別の本では長屋王の祟りに怯えたのだとも。諸説ありますが帝の不振な行動の裏に怯えがあったなら「怯え」という心の動きそのものが、伝播した仏教の内面化に他ならないというわけです。
 平城京で、帝を中心とした支配層のための仏教が盛んでも、地方では、いままで通り氏族由来の神を信仰しているし、まだ縦穴式住居にすんでいる人たちも多い。そんな場所で、じっさいに王権の権威など理解されるはずもありません。実際には、その土地土地の古来の習俗と妥協しています。たとえば、各地で毎年作付けする籾は、当時、土地土地の神々から支給されるという習わしでしたが、その籾に王家から支給される籾が混ぜてもらって、ようやく王家の権威が成立する。籾を支給する/されるという関係が権威を支えています。

 やがて、土地の私有が進み、技術の進歩から稲の収量も増えれば、籾を王家に求める実益はなくなっていきます。それまで、王家から支給される籾を各地が取りに行くものでしたが、遠隔地では辞退するのが相次ぎます。籾をテコにした支配体系が崩れるし、なにより王家に富が集まらないのです。

 そんな中で、地方で起きたのは、土地土地の神々が仏教に下る。という行動です。現在も残る「神宮寺」と呼ばれる寺の多くは、そのようにして成立するのです。王権はその動きに抗えなくなってきます。当時に残る神のお告げというものは、苦悩する神々が仏門に下るというものです。神のお告げと言いつつ、これは当事者自身の悩みと読み替えることができるし、仏教を借りて個人に自我が宿る瞬間のように見えます。
 そのあと神仏習合は、神が仏の化身であるという本地垂迹説にまで進行していきますが本質は変わっていないように思うのです。神仏習合の意義というのは、まじないとか呪術によって成り立っていた社会が、ともあれ仏教の力によって脱出する文明化の現れのように思います。しかもこれは権力者の強制ではなくて、社会から自力で編み出された進歩なのだということは、実は衝撃的です。
 その意義からすれば後世の「神仏分離」と「廃仏棄釈」という運動は、非常に政治的な運動です。江戸時代に発見されて、国家神道という形で広められた「古代」は、事実とは違う物語であって、中世の神仏習合の世に生きた中世の人々だけが、神仏が分離された現代を正しく評価出来るかもしれません。普遍的にこの世界を眺める原理として仏教が広まり、古来の神々と混じり合って、日本の社会は世界を普遍的に見る目を獲得していった。その原理を排除した神仏分離は、歴史の進歩でなく歴史の退化のように見えるのではないでしょうか?