デジタルディバイド(情報格差)の新たな形態

 かつて、デジタルディバイド情報格差)という言葉が存在しました。それは、インターネットやパソコンを持つ人々と持たざる人々の間で、得られる情報に格差が起きる状況のことを意味していたと思います。パソコンを持つ人は、インターネットを利用できる環境を持てば、新聞やテレビやチラシにない様々な情報を、世界中から得ることができるのに比べて、持たない人々は、依然として新聞やテレビからしか情報を得ることができません。10年前はだいたいそんな状況でした。

 ひとびとが情報を得る方法は、いまはパソコンからスマートフォンへと移行していて、電車に乗れば、老若男女関係なく乗客がスマートフォンを操作する光景は当たり前ですね。けれども情報格差とがなくなったわけでなく、新たな形の格差が生まれつつあるように思うのです。
 だいたいの人は、いまではネットを利用できるようになりましたし、受け取る情報量に格差はありません。現在の格差は、それよりも人間同士のコミュニケーションのありかたに地殻変動が起きつつあって、そのことについていける人々と、ついていけない人々との隔たりが大きくなっていると思うのです。そのことは、SNSが一般に普及してはっきりしました。

 SNSの特徴は、単に双方向の伝達が可能だというだけでなく、どんな有名人だろうが無名人だろうが、メッセージを送り受け取ることに違いはない。いわゆるネット社会のありかたは、本質的にフラットなので、上下関係とか序列が生まれづらいのです。ニュース記事だって新聞なら芸能人のゴシップ記事と海外のテロの事件は異なる頁に掲載され、記事の扱いにも差が付くものですが、ネットニュースでは、前者と後者の記事はフラットに並べられ扱いに違いはありません。最近では、東京都の舛添知事が辞めさせられたのも、最初は政治面での公私混同の問題だったのが、辞める直前では、各マスコミの取材は政治記事ではなく芸能ゴシップと違いのない状態になる。ニュースジャンルのさかい目もなくなってしまいました。
 ただネットニュースを眺め情報を受け取るだけでは、人間の知覚には、そう影響はしません。有名無名に関わらず、誰でも発信者になれる、インターネットの双方向性の特徴が、人と人とのコミュニケーションのあり方を変えつつあり、移行期の混乱が、今の状況を表していると思います。
 いまでも、世間の道徳というのは、だいたいは儒教道徳の影響下にあって、ビジネスマンであれば上司と部下は対等ではないし、なんらかのヒエラルキーがあります。年長者と若者なら、若者が年長者を敬うのが当然とされているし、医者や教師、弁護士は、知的労働の代表で、敬意をもって「先生」と呼ばれています。
 でも、ネット社会のフラットさは、そういった名士や先生の存在をあたりまえにはしませんし、年長者だからといって敬われるのがあたりまえでもありません。専門家とよばれる人々が、SNS上で素人から集中放火を浴びるのは、あたりまえの光景です。議論に慣れている専門家ならともかく、年長ということ=敬意をもたれて当然、という日常を生きるおじさんたちが、ネット上のフラットなコミュニケーションに戸惑っているのがよくわかるのです。高度経済成長のなか、日の丸株式会社のもとで、懸命に働いたおじさんたちの社会人生活は、理不尽さを我慢しながらヒエラルキーをかけ上がっていくというものでした。おじさんたちは、そのヒエラルキーの序列の中に自分の位置を見つけて安心した。
 企業社会にどっぷりとつかっていたおじさんほど、リタイヤした後の生活には苦労しているし、尊大な態度から説教をしたがるおじさんたちは、とかく現実世界でもネット社会でもいやがられるものです。著名人の○○さんが若者を一喝する。といった記事に、おじさんたちが溜飲を下げるのは、実は現実社会やネット社会で、フラットなコミュニケーションをうまくとれないおじさんたちの淋しさの現れです。
 その淋しさを、うまくすくい上げているのが、産経新聞や正論といった、右派の雑誌媒体です。ヒエラルキーの価値観にどっぷりと浸ったおじさんたちにとっては、じぶんよりも下等に扱うことのできるかたまりがあれば安心するのであって、中身はなんでもよいのかもしれません。右派論客の「サヨク」「中国」「朝鮮」の語り口から、いっこうにリアルな像が浮かばないのは、その実体が、コミュニケートできない相手への不安と恐怖心が生み出した幻想だからです。
 現在の情報格差というのは、もはや、情報をやりとりする量の問題ではなくなっています。ネット社会が変えつつある現実社会のフラットなコミュニケーションについていけるか?ついていけないか?という問題に移行しつつあるように思うのです。
 

文明化の一過程としての神仏習合(義江彰夫「神仏習合」岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)


 以前に安丸良夫さんの「神々の明治維新」を取り上げましたが、そこでの論点は、明治維新というより王政復古の号令にあわせて発生した、廃仏希釈と神仏の分離運動が非常に政治的な運動であったことを述べました。では、それ以前は神仏習合と呼ばれた神仏の境目のない世界であったわけで、その世界のありようはどうだったのか探りたくなり「神仏習合」という岩波新書を手に取ってみました。

 仏教が日本に輸入されたのは、欽明天皇の頃です。仏教を肯定した蘇我馬子と否定した物部守屋の対立は日本書紀にも描かれているし、聖徳太子仏教の伝播にとっては決定的な存在です。けれども、奈良時代までの仏教は、あくまで支配層の為でしかなかったし、どこまで理解したかといえば、単に、海外で広まった風習でしかない。という理解だったと。それが、支配層の内面にまで影響を与えるようになったのは、聖武天皇のころですね。平城京を捨てて、紫香楽宮恭仁京など転々とした聖武天皇の奇っ怪な行動は、たとえば橋本治さんの「窯変平家物語」では藤原広嗣の反逆の報に怯えたからと語っているし、別の本では長屋王の祟りに怯えたのだとも。諸説ありますが帝の不振な行動の裏に怯えがあったなら「怯え」という心の動きそのものが、伝播した仏教の内面化に他ならないというわけです。
 平城京で、帝を中心とした支配層のための仏教が盛んでも、地方では、いままで通り氏族由来の神を信仰しているし、まだ縦穴式住居にすんでいる人たちも多い。そんな場所で、じっさいに王権の権威など理解されるはずもありません。実際には、その土地土地の古来の習俗と妥協しています。たとえば、各地で毎年作付けする籾は、当時、土地土地の神々から支給されるという習わしでしたが、その籾に王家から支給される籾が混ぜてもらって、ようやく王家の権威が成立する。籾を支給する/されるという関係が権威を支えています。

 やがて、土地の私有が進み、技術の進歩から稲の収量も増えれば、籾を王家に求める実益はなくなっていきます。それまで、王家から支給される籾を各地が取りに行くものでしたが、遠隔地では辞退するのが相次ぎます。籾をテコにした支配体系が崩れるし、なにより王家に富が集まらないのです。

 そんな中で、地方で起きたのは、土地土地の神々が仏教に下る。という行動です。現在も残る「神宮寺」と呼ばれる寺の多くは、そのようにして成立するのです。王権はその動きに抗えなくなってきます。当時に残る神のお告げというものは、苦悩する神々が仏門に下るというものです。神のお告げと言いつつ、これは当事者自身の悩みと読み替えることができるし、仏教を借りて個人に自我が宿る瞬間のように見えます。
 そのあと神仏習合は、神が仏の化身であるという本地垂迹説にまで進行していきますが本質は変わっていないように思うのです。神仏習合の意義というのは、まじないとか呪術によって成り立っていた社会が、ともあれ仏教の力によって脱出する文明化の現れのように思います。しかもこれは権力者の強制ではなくて、社会から自力で編み出された進歩なのだということは、実は衝撃的です。
 その意義からすれば後世の「神仏分離」と「廃仏棄釈」という運動は、非常に政治的な運動です。江戸時代に発見されて、国家神道という形で広められた「古代」は、事実とは違う物語であって、中世の神仏習合の世に生きた中世の人々だけが、神仏が分離された現代を正しく評価出来るかもしれません。普遍的にこの世界を眺める原理として仏教が広まり、古来の神々と混じり合って、日本の社会は世界を普遍的に見る目を獲得していった。その原理を排除した神仏分離は、歴史の進歩でなく歴史の退化のように見えるのではないでしょうか?

中世を感じる道(鎌倉切り通しの道を巡る)

 かつての東京湾沿いが、どのような姿だったかよくわかるのが、京急線のあたり横浜から三浦半島にかけてのあたりです。車窓を眺めれば、ところどころに浮島のような丘が点在して、その間に白っぽい住宅が連なっています。白っぽい住宅のあたりを、かつての東京湾の入り江だったところと想像すれば、たぶん松島のような景勝地だったことでしょう。それは金沢八景という駅名にも残っています。隣は金沢文庫という駅名。鎌倉幕府の有力者である金沢氏が、集めた文書を保管した施設に由来します。このあたり、かつて六浦と呼ばれ、鎌倉幕府の時代に重要な港として栄えた場所です。六浦から鎌倉にかけての道は、朝比奈切り通しと呼ばれ、いまもその道が残っています。そんな道を歩いてみました。
f:id:tochgin1029:20160807114653j:image まず向かったのは金沢文庫です。金沢文庫称名寺と呼ばれる寺の広い敷地の一角にあります。称名寺の一部が金沢文庫なのだと形容するのが正しいようです。ここから金沢八景の駅前にいたるまで寺社が多く残ります。右は陸地ですが、左はかつて干拓地だったと思われる住宅地。中世にはここは海を左に長めながらの道中だったのでしょう。f:id:tochgin1029:20160807114738j:image

途中には瀬戸橋という橋があります。この場所は、当時の入り江の中に、半島のようになって飛び出していて、いち早く対岸と橋が架けられたところです。ここから切り通しまでの間は、人為的に削られた崖が点在します。ところどころ崖の横には穴があいていて、奥には地蔵など鎮座していそうな光景です。そして道路沿いにはあいかわらず寺社が多い。しばらくいくと、住宅地を離れ、朝比奈切り通しの山道が現れます。
f:id:tochgin1029:20160807114800j:image

 道を通すため、削った崖の表面はごつごつとしていて、現代に重機で掘られたものとまったく違います。どちらかといえば、ごつごつとした岩が道の表面に転がっているのでなく、削った崖の石と一体になったかのような、つるつるした路面が続いているのです。途中の崖にはところどころ横穴があいていて、奥には地蔵でも座っているような趣です。
f:id:tochgin1029:20160807114834j:image 

切り通しを抜ければ、鎌倉市街のはずれにでます。鎌倉といえば、いまでは、おしゃれな観光地という町の印象ですが、住宅地の表層をはぎ取ると、地底からいろんな地霊や怨霊ともども中世の町があらわれてきそうなくらい、中世の残像が色濃く残っている町のように感じます。宗教的なものが世のありようや人々のありようを規定していたのが中世という時代の特徴ですが、低い丘と谷、削られた白い崖と横穴が織りなす光景が、建物だけでなく宗教的な印象を想起させる。それがほんとうの鎌倉の原風景なのだと思います。
 和賀江島が鎌倉の表口なら、六浦は勝手口だったと想像されています。六浦という場所は、房総半島や東京湾を経由して内海のような川を北上すれば、さらに北関東へと足を進めることができる。ここまでの道中は2時間くらいですから、鎌倉の当時は、そうとうに栄えた道だったのだと思います。陸上交通を前提で考えると、ここが栄えたことが不思議に思うのですが、干拓も埋め立てもない中世の水辺はいまよりももっと広かったはずで、水上交通や海上交通もいまより一般的だったはず。
 目からうろこが落ちるような道歩きは、なかなかおもしろいですね。ほかにも鎌倉には朝比奈のような切り通しの道があります。有名観光地を巡るだけではわからない、鎌倉の町の実相を感じることができるので、このあとも切り通し巡りは続けようと思っています。
 

今週起きたあの事件と世間の反応が私を憂鬱にさせる

 今週になってからのラジオニュースは、もっぱら相模原の19人の殺人事件についての解説ばかりです。事件の起きた障がい者施設でかつて働いていた犯人は、当初は普通に勤務していたそうですが、いつのころからか、突然殺人や差別言動を公言するようになったらしく、半ば強制で入院し施設もやめさせられた。それでも昨日のような事件を起こしてしまったとのことです。
 ラジオでは、解説者は「ナチスの優生思想」を持ち出して、犯人の心理状態を解説していました。別の識者は、警察の体制、行政の対応の不手際を述べていました。けれども、初動対応に不手際はなくて、犯人を強制で入院させたのも、危険を察知して施設を辞めさせたのも、そんなに粗相のあるような対応ではないと思うのです。識者の言うような「行政の不手際」というのも、この種の事件を伝えるニュースの、単なる常套句にしか感じません。それに「ナチスの優生思想」と言ったところで庶民にとっては他所の国のこと。その言葉に危機感は感じません。総じてラジオ報道についての論調には、のんきだなという感想しか起きませんでした。
 ツイッターでは、それとは異なる世界が広がっています。たとえば犯人が持っていたアカウントが、いわゆる「ネトウヨ」という、自分と出自の異なる人を誹謗中傷し、排外思想をまきちらすようなアカウントばかりをフォローしていたという話題も流れています。では、SNSが犯罪の原因になのかという短絡もしてしまいがちですが、他人を誹謗中傷することと、実力で排除する行為の間にはとても大きな段差があるはずで、それを飛び越える心理というのはいったいどうしたきっかけがあったのか?という疑問も起きます。犯人の心中を理解するなんてことはまず不可能です。

ただし、日常に不満を感じながら生活する人物が排外思想にふれたからといって行動に移すわけがない。とも言い切れません。それは他人にはわからないことです。ある人物が、日常に不満を持ったとしても、事件を起こさせないようにすることが、世間でせいぜいできる対応なんだろうと思います。だとすれば、やっぱりSNS上での罵倒表現はやめさせるべきでしょう。同じ空の下でいろんな人が生活している。憎悪はその共生の空間を破壊するだけで、なにも生み出さない。
 案の定、ネットの世界では、複雑な世の中の問題を手っとり早く理解したい人あるいは考えたくない人たちに向け「朝鮮人」がどうこう「在日」が起こしたとか、煽りと憎悪の画像が流れています。タカ派とされる政治家の中には、犯罪予備群に対してGPSを付けろとか、あるいは措置入院の制度をいじろうとか。またもや本質とはかけ離れた話題が始まりました。例によって、それに大手の報道各社も加担を始めています。

選挙のあと変だなあと思うこと

 参議院選挙が終わりました。三分のニを与党が占めたといわれるけれど、実態はやっと数を合わせたに過ぎなくて、与党が圧倒的に勝利したとも言いがたいように思うのですが、報道の伝えかたはそうではないようです。憲法といっても、100を越える条文のなかから、いったいどこを変えるのか?ということは後回しにされています。
 2~3日たって、結果からはいろいろ興味深いことがわかります。たとえば北海道や東北、沖縄では野党が勝っています。反対に西日本では与党がほとんど勝っています。与野党の勢力を県別に赤青に色分けした地図は、まるで古代政権の勢力図のようですね。これ、たまたまの偶然ではなくて、類をみないほど権力欲を隠さない現政権が押し付ける、負担と権益の世界観を、忠実に地図に反映するとこうなるのでは?と思います。古代政権の勢力図のような日本地図には、そのような意味が込められているように思うのです。
 それぞれのメディアや報道番組で流される選挙まとめでも、3分の2という結果を元に、野党の共闘は意味をなさなかったとか政策よりも数合わせだという批判的な意見が流れています。じっさいに、いままでの選挙で政策論争がされた記憶は全くないので、それは現実には意味のない意見のように思います。前2回の選挙情勢を考えれば、むしろ野党は健闘しているように見えるのですが、総じてメディアの論調が与党に甘く、野党に厳しいのは公平でないし、報道当事者の方たちが無自覚なのは問題でしょう。
 同じように、選挙後の総括を著名な評論家から聞いていても、どこかずれているように思います。彼が普段接している政治家や著名人たちの日常や生活感と、毎朝電車に揺られて職場に通勤しているような庶民の生活とはかけ離れているでしょう。報道機関も、足を使って取材するよりも、SNSで流れている大きな声を拾って、まとめて記事にする。自分たちでこしらえた現況のストーリに縛られて、現実に起きたストーリーとは異なる変化を、まったく拾うことができていないように思います。
 戦前に、近衛首相のもと新体制運動というのがありました。欧米への留学経験があり、皇族の血も持っているインテリな首相のもとでたくさん知識人も名前をつらねましたが、彼らはやがて戦争が始まれば、自ら妥協して協力していった。もう負けたのだから、野党は改憲論争から逃げるな、という論調に感じる胡散臭さは、体制に妥協してやがて自ら進んで戦争に協力していった知識人たちの姿に重なるからなのです。

それに比べれば、たとえば最後の元老西園寺公望は、総理を推挙する立場から、最後まで好戦的な政権が生まれることに抵抗しています。人としてどちらが誠実かといえば、もちろん後者の方です。

 そして現在、政界がまるで政策論争をする土俵になどなっていないのに「政策論争を」と言う評論家のナイーブさに比べれば、ハフィントンポストにのっていた、シールズの奥田さんの意見は意外にも現実的なものでした。自民党の人情に訴える選挙活動を、彼は興味深く眺めています。理詰めも大切だけれども、政治はそれだけで動くものではないと彼は理解しています。選挙のたびに、関心がない庶民を嘆き、政策論争がないと嘆く評論家筋よりも誠実だと思います。

室町時代の可能性(清水克行「喧嘩両成敗の誕生」)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

 テレビを見ていて一番不快になる番組といえば、イジリ芸と呼ばれるものです。イジる側がつねにベテラン芸人、反対にイジられる側は若手芸人、双方の間に決定的に立場の強弱があるので、若手芸人のほうはイジりに対してキレることができない。バラエティに名を借りたハラスメントといえなくもないところが、不快になる原因です。赤穂浪士の討ち入りの話はそんなイジりに切れた殿様の話とも受け取れます。徳川による秩序が形成されていた元禄の世は、すでに敵討ちが許されなくない世でした。けれどイジり芸のようなハラスメント行為は世間の

いたるところにあって、だからこそ庶民が喝采を送ったのです。一方で、徳川の秩序が形成される以前、中世に敵討ちは世間で許容されていました。そんな世間がどんなありようだったのか?清水克行さんによる「喧嘩両成敗の誕生」という本を読んで知りました。
 中世では、人や集団が恨みごとを晴らそうとしたときに、それを遮るような秩序はありません。現代に置き換えれば、ひどく混雑した通勤電車、乗客の間で押した押さないという車内トラブルが、いちいち殺し合いに発展してしまう世の中を想像すれば分かりやすい。清水さんによれば、室町時代に生きた人々は、とても自尊心が強かったそうです。この本で取り上げられただけでも、お辞儀の慣習についての誤解から殺し合いに発展した例、相手に笑われたことに恨みを抱いて復讐をする例、現代であれば、凶悪な通り魔事件として取り上げられるような出来事が、けっして室町時代では異常な出来事ではない。
 また、室町時代には人々の集団化が進んでいきます。庶民があたりまえのように武器をもつ中世に、現代でいう治安などは存在しません。なんらかの集団に属さないことなしに、個人が身の安全を保つことはできない。なので、紛争を解決する主体は、当事者が属するおのおのの集団となる。争いのきっかけが1対1であっても、いつのまにか属する集団同士の諍いごとに発展します。京都の街を破壊した「応仁の乱」とは、そんな当時の諍いごとが、極端にまで膨張した例として挙げられるのです。
 集団間の争いに、当時の室町幕府が介入する余地はまったくありません。室町時代の足利将軍の行動に、源平の合戦や戦国大名のような華々しさも、英雄的な行動も存在しないのは、決して本人のせいではなくて、個々の自尊心が素でぶつかり合う当時の世間が、足利将軍の権威などは寄せ付けないほど強烈だということです。
 もちろん、室町幕府も紛争ごとを解決する秩序を主導しようとした形跡はあって、物事の理非に応じて当事者を裁いた例もあるようです。けれども、時代が進み人々の集団化が進むにつれ、ものごとにシロクロつけるよりは、争いごとが拡大しないように、世間のコンセンサスが変わっていく、そういう慣習は室町幕府が主導して作ったわけでも「喧嘩両成敗」を法に表した戦国大名たちの独創でもなくて、当時の世間のコンセンサスが基底にあったのだ、というのが清水さんの論です。江戸幕府や現代のような秩序として中世の権力が存在したかのように誤解するのですが、そういったものは、中世には存在しない。
 一方で室町時代では、その後のように、個人と属する集団の関係に、服従するとかされるといった関係性はまだ薄いようです。現代であれば、ある集団に属する個人同士が諍いを起こしたからといって、ただちに集団同士の争いには発展しない。そこには、いきり立つ当事者を押しとどめ、争いを拡大させないような、集団内の秩序が働くでしょう。けれど室町時代では個人の諍いごとがただちに集団の争いに発展する。たぶん当時、個人は集団に服従するような関係ではなくてむしろ逆。個人に集団が従うような関係性にも思えます。それが、後世に集団間の秩序が形成されていく課程で、個人が集団に服従する関係にひっくり返っていく。
 それ以前、鎌倉時代では、写実的な仏像彫刻が生まれていますし、当時の絵巻物では、乞食でさえも堂々と存在を主張している社会が描かれています。私はそこから、鎌倉時代のことを日本の歴史上でもめずらしい「個人の時代」だと思っているのですが、室町時代に人々の集団化は進んでも、個人の自尊心の高さは引き継がれている。そんな個人主義的なありかたが、どうやって「全体主義」へと変遷していったかというところが、もっか不思議でならないことなのです。

人間が真ん中でない3(絵画とヒューマニズム)

 出光美術館の50周年展示も、三回目の最後の展示に入りました。今回では取り上げられる絵は、江戸時代の作品が中心です。江戸時代といえば、浮世絵の展示が取り上げられそうですが、ここでは、歌麿北斎もそれぞれ一点ずつという控えめな展示。もっとも展示作品数の多かったのは、狩野派だったり琳派だったろうと思います。たとえば琳派なら、どこかに現代のデザインやイラストに繋がる感性の源流が見えます。決して江戸が停滞の時代だったわけではないこと示すものだと思います。
 会場でまっさきに目に入るのは、都を描いた二種の屏風です。ひとつは桃山時代の「祇園祭礼図屏風」もうひとつは江戸時代の「洛中洛外図屏風」絵の主役は、京都の町の町衆たちです。桃山時代ならではでしょう。絵のなかにかぶき者らしき奇抜な出で立ちの武士たちが登場していますがここでは主役ではありません。この町ではよそ者として描かれているのです。それに比べると内裏の公家たちは地味に描かれていますが、かぶき者達に比べれば、住人として町にとけ込んで描かれています。江戸時代になると京の街には二条城が建ち、目立っていますが、これも異物感ありありですね。
 江戸の街を描いた「江戸名所図屏風」でも、洛中洛外図屏風と同じように、絵の主人公は江戸の町人たちです。神田や日本橋も人であふれかえってにぎやかです。けれども、江戸城の主、大名屋敷の武士たちの姿は、雲にかくれてみえません。江戸の町の大方を占めているはずの大名屋敷の存在は隠されている。かぶき者が目立ち、貴族たちも町にとけ込んでいる京都にくらべると、権力者たちがこそこそとしている、江戸の町がまだまだ成熟度していない様がわかるようです。
 そんな奇抜な武士たちのいでたちが、基本的には平安末期から江戸時代初期までほとんど変わっていないことにも気がつきました。伴大納言絵巻に描かれた、大納言を逮捕するため邸に向かう武士たちのいでたちは、赤の鎧が目立つもので奇抜にうつりますが、江戸のかぶき者たちとそう変わっていないように見えます。そしてかれらは町を歩いたときに目立つけれども、町中のかれらの存在の異物感も変わっていない。
 江戸幕府はときどき、公所良俗に反するという名目で、天下に批判的な書物や、風紀の乱れをとりしまっていました。そのあおりで、三宅島に島流しにあったひとりの絵師がいました。英一蝶という絵師の絵を見てびっくりしました。展示された絵は、彼が島流しのさなかに江戸の生活を想い描いた絵です。皆がどんちゃん騒ぎをし、楽しそうに踊っている絵の登場人物がみなゆたかな表情なのです。近世になって絶滅したと思っていた。生きた人間がど真ん中に存在する絵です。彼の経歴をネットで調べれば、狩野派に入門しながら破門されるような、奔放な生活をしていたそうで、島流しにあいながら子供はつくったとかいうたくましい面も持っています。

 狩野派でも琳派でも、江戸時代では、絵師個人よりは、絵の流派のほうがきっと大きな存在だったのでしょう。現在にも名の残る絵師たちは、そんな流派のワクからはみ出してしまった特別な存在なのであって、特別な才能もない絵師たちは、個として才能が認められることもなく、流派のひとりとして埋もれ一生を終える。

 だから、会場でも多数展示されていた琳派の絵にすばらしさは感じてもヒューマニズムは感じません。そこに「流派」という集団はあっても、そこに「絵師」個人の存在は薄い。けれども、英一蝶の作品「四季日待図巻」を見て、どっこい江戸の世に、ヒューマニズムがきちんと描かれた絵が存在することに、びっくりしたのです。
 出光美術館の「日本美術史」の歴史を概観する3回の特集展示で感じたのは、時代を経るに従って人間の存在が隅においやられていく歴史を感じざるをえません。それは、個人の自由よりも集団の規律が優先される世の中とシンクロしています。でもヒューマニズムは滅んでしまったわけではなくて、見えていないだけなんだということも確か。人々が屈託なく笑い泣く中世の絵巻物や、英一蝶が江戸を想い描いた図のなかに、絶滅危惧種のようにヒューマニズムを見つけ、ホッとしたのです。