現実にはありえない風景

レター・フロム・ホーム

 山水画では深山幽谷が、よく描かれます。ですが、そこに描かれるのは、決して実在しない景色です。平安時代の貴族たちののほほんとした社会から、武士たちの社会に変わっていったときに、新たな世の支配階級である武士たちは、平安よりも中国から輸入された宋の新文化をとりいれて、自分たちのよりどころとしていく、貴族社会に対するカウンターカルチャーでもあると思います。ですから、そこに描かれるのは一種の理想郷であって、現実には実在しない、ましてや異国の風景でもある。もしも、山水画に描かれたような風景の中で暮らすならば、多くの現代人はまずその不便さに参ってしまうことでしょうね。

 でも不思議なのは、武家社会が終わり、近代社会になっても、山水画は画の一ジャンルとして、決して消滅したわけではないですね。そして「現実には決して存在しない風景」を描く画の系譜、というのは日本文化の歴史の中普遍的に延々と続いていますよね。ある意味では、銭湯の富士山の画だって、現実の富士山とは似ていてもそれは違うものです。歌川広重といった浮世絵の絵師たちが描く風景というのも、絵師が感じた、山の頂きや川の風景がデフォルメされた表現です。写実的な表現ではないです。

 写実表現でない風景というものの核心を突く言葉として覚えているのは、ユーミンこと松任谷由美が残した文がもっとも適切なのだと思っています。25年も前に、彼女はパットメセニーグループの「レターフロムホーム」というアルバムの日本盤ライナーに文章を寄せています。語られるのはもちろん、パットメセニーの音楽に対して語られる文章ですが、その言葉はそのまま、彼女自身の音楽制作の隠し味についても述べています。

 彼女の詞で語られる風景は、穏やかでもあり、時には荒くれて、素のままの自然では決してないということです。「語る私」と外の風景とはガラス一枚を隔てている。いくら外の景色が荒れ狂っていても、「語る私」は、ガラスで隔てられた冷房の利いた部屋にいる。居心地のよい場所から、ガラス窓という額縁で区切られた景色を、心地よい音楽や画として楽しむ。パットメセニーグループの音楽も同じようなもの。と述べています。

 このように述べれば軟弱なようですが、素の自然と人間の暮らしを意識の中で切り離し、パッケージとして楽しむ文化は、盆栽や日本庭園のよう日本文化のなかにいっぱいありますよね。山水画は、そんな文化の源流として位置づけられるものでしょう。

 ガラスの向こうの荒くれる自然と、ガラス一枚を隔てた心地よい部屋にいる私。というモチーフは、島国文化論にもつながってきますよね、でもそれはとても広大すぎる話ですね。それはまたの機会に書きたいと思います。