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デジタルディバイド(情報格差)の新たな形態

 かつて、デジタルディバイド情報格差)という言葉が存在しました。それは、インターネットやパソコンを持つ人々と持たざる人々の間で、得られる情報に格差が起きる状況のことを意味していたと思います。パソコンを持つ人は、インターネットを利用できる環境を持てば、新聞やテレビやチラシにない様々な情報を、世界中から得ることができるのに比べて、持たない人々は、依然として新聞やテレビからしか情報を得ることができません。10年前はだいたいそんな状況でした。

 ひとびとが情報を得る方法は、いまはパソコンからスマートフォンへと移行していて、電車に乗れば、老若男女関係なく乗客がスマートフォンを操作する光景は当たり前ですね。けれども情報格差とがなくなったわけでなく、新たな形の格差が生まれつつあるように思うのです。
 だいたいの人は、いまではネットを利用できるようになりましたし、受け取る情報量に格差はありません。現在の格差は、それよりも人間同士のコミュニケーションのありかたに地殻変動が起きつつあって、そのことについていける人々と、ついていけない人々との隔たりが大きくなっていると思うのです。そのことは、SNSが一般に普及してはっきりしました。

 SNSの特徴は、単に双方向の伝達が可能だというだけでなく、どんな有名人だろうが無名人だろうが、メッセージを送り受け取ることに違いはない。いわゆるネット社会のありかたは、本質的にフラットなので、上下関係とか序列が生まれづらいのです。ニュース記事だって新聞なら芸能人のゴシップ記事と海外のテロの事件は異なる頁に掲載され、記事の扱いにも差が付くものですが、ネットニュースでは、前者と後者の記事はフラットに並べられ扱いに違いはありません。最近では、東京都の舛添知事が辞めさせられたのも、最初は政治面での公私混同の問題だったのが、辞める直前では、各マスコミの取材は政治記事ではなく芸能ゴシップと違いのない状態になる。ニュースジャンルのさかい目もなくなってしまいました。
 ただネットニュースを眺め情報を受け取るだけでは、人間の知覚には、そう影響はしません。有名無名に関わらず、誰でも発信者になれる、インターネットの双方向性の特徴が、人と人とのコミュニケーションのあり方を変えつつあり、移行期の混乱が、今の状況を表していると思います。
 いまでも、世間の道徳というのは、だいたいは儒教道徳の影響下にあって、ビジネスマンであれば上司と部下は対等ではないし、なんらかのヒエラルキーがあります。年長者と若者なら、若者が年長者を敬うのが当然とされているし、医者や教師、弁護士は、知的労働の代表で、敬意をもって「先生」と呼ばれています。
 でも、ネット社会のフラットさは、そういった名士や先生の存在をあたりまえにはしませんし、年長者だからといって敬われるのがあたりまえでもありません。専門家とよばれる人々が、SNS上で素人から集中放火を浴びるのは、あたりまえの光景です。議論に慣れている専門家ならともかく、年長ということ=敬意をもたれて当然、という日常を生きるおじさんたちが、ネット上のフラットなコミュニケーションに戸惑っているのがよくわかるのです。高度経済成長のなか、日の丸株式会社のもとで、懸命に働いたおじさんたちの社会人生活は、理不尽さを我慢しながらヒエラルキーをかけ上がっていくというものでした。おじさんたちは、そのヒエラルキーの序列の中に自分の位置を見つけて安心した。
 企業社会にどっぷりとつかっていたおじさんほど、リタイヤした後の生活には苦労しているし、尊大な態度から説教をしたがるおじさんたちは、とかく現実世界でもネット社会でもいやがられるものです。著名人の○○さんが若者を一喝する。といった記事に、おじさんたちが溜飲を下げるのは、実は現実社会やネット社会で、フラットなコミュニケーションをうまくとれないおじさんたちの淋しさの現れです。
 その淋しさを、うまくすくい上げているのが、産経新聞や正論といった、右派の雑誌媒体です。ヒエラルキーの価値観にどっぷりと浸ったおじさんたちにとっては、じぶんよりも下等に扱うことのできるかたまりがあれば安心するのであって、中身はなんでもよいのかもしれません。右派論客の「サヨク」「中国」「朝鮮」の語り口から、いっこうにリアルな像が浮かばないのは、その実体が、コミュニケートできない相手への不安と恐怖心が生み出した幻想だからです。
 現在の情報格差というのは、もはや、情報をやりとりする量の問題ではなくなっています。ネット社会が変えつつある現実社会のフラットなコミュニケーションについていけるか?ついていけないか?という問題に移行しつつあるように思うのです。