コロニー(植民地)とは?(北海道 松前と勝山館を訪れて)

f:id:tochgin1029:20170920200505j:image 北海道の南部、松前から上ノ国江差にかけての渡島半島のあたりは、地名からもわかるとおり、早くから和人が定住しだした場所と言われています。網野善彦さんの数々の著作では、上ノ国町にある「勝山舘跡」の巨大さについて言及されていて、いつか行きたいと思っていた場所です。先日に、念願かなって行くことができました。
f:id:tochgin1029:20170920200712j:image 最初に向かったのは松前。函館から松前までの道は、海岸近くまで段丘崖がせまります。風が強いせいか段丘には大きな木も生えていません。たどり着いた松前も、押し迫っている段丘に街並みがちょこんと乗っかっているよう。本州に住んでいるわたしたちがイメージするような、よく時代劇にあらわれる城下町という風情と、かなり異なっていることがわかります。旧城下町のあたりは往時の姿を再現していますが、その街並みは土地に根差したものというよりも、外来的にやって来たもののように感じられます。形容するならコロニー(植民地)のような雰囲気です。もちろん、松前にまったくおもしろいものがなかったわけではなく、城の形に建てられた資料館の最上階からは、遠く竜飛崎や小泊岬が見えます。おそらく、山を越えなければたどりつけない陸続きの集落よりも、遠くに見える海の向こうのほうが心理的な距離は近かったのだろうと思います。今ではただの集落でしかないこの場所にいくつもの廻船がやってきて、最果ての城下町が栄えた理由のひとつなのだろうと思います。
f:id:tochgin1029:20170920200742j:image 松前から上ノ国まで、ひたすら海と寄り添いながら海岸を登り下りしながら進む道でした。そして、しばらく進んだ海岸沿いの道を離れ丘を登った先に「勝山舘跡」があります。近くにはガイダンス施設があり、発掘された陶器などの品々が展示されています。それよりも感嘆したのはその広さです。勝山舘の中心部とされた場所は整地されていますが、国分寺跡のような場所と比べても遜色がない広さです。また、周囲にはアイヌの墓とされている墓地も多く残っています。松前の資料館でみた絵図には、アイヌはごくわずかしか描かれていませんでしたが、この勝山館でのアイヌの存在はおおっぴらです。網野善彦さんの著作によれば、この勝山舘ではアイヌと和人が混住していたとされています。さらに感嘆したのは夷王山からの眺めでした。上ノ国から江刺までの湾が一望できまて、遠くからやってくる船の出入りを見張ることもできます。この勝山舘の主、蠣崎信広の子孫が、後年になって松前に移転し大名となっていくのです。
f:id:tochgin1029:20170920200816j:image 松前の町をみてどこか不思議に思ったことが、勝山舘をみて瓦解していくようでした。江戸文化の意匠で整えられた松前の町が周囲の大地から浮いているコロニー(植民地)のように見えたのも、勝山舘につづくアイヌと和人の交易の歴史と伝統を引きずっているはずの、この町のありようと、江戸文化の意匠がアンマッチであることからくるものです。その伝統は、田園が広がるような農村の風景とも異なるし、屯田兵開拓使の歴史として理解されている北海道の歴史とも異なります。和人とアイヌの交易のこそが、この地にとっての歴史と伝統なのだと気が付いて感嘆したのです。松前の町を訪れるなら、上ノ国町の勝山館もあわせて訪れることをお勧めします。
 網野善彦さんが晩年に記した「日本社会の歴史」3巻では、ほとんどの記述は、豊臣秀吉の統一までで終わっています。たとえ、蝦夷地では和人とアイヌとの不平等な交易が、琉球では薩摩によよる公平でない交易がおこなわれていても、それを江戸や京都、大阪といった3都の人々が意識sることはない。沖縄への米軍基地の集中や、北方領土問題といった矛盾が首都圏の人たちに意識されないことと同じことです。