内田樹「呪いの時代」を読んで

団塊の世代に対する団塊ジュニア世代の恨みというのは、本当に根深いというものがあります。自分はその両世代の間に入る60年代後半の生まれ。社会に出るため苦労はさほどしませんでしたが、社会に入ってすぐに、いわゆるバブル経済が崩壊して、その後もあまりよい思いはなかった社会人生活です。新入社員の頃、ベテラン社員の「昔は羽振りがよかった」という会話や、定年間近の社員どうしの退職金の会話、年寄りが年金の話で盛り上がっている話は反感を感じます。が、だからといって団塊ジュニア世代の「自分たちだけが損をして、バブル世代は楽をしている」という恨み言葉にも「いつまでも被害者ヅラしてんなよ、てめえ等だけじゃないよ」とも反発を感じる、微妙なポジションです。
 先日、内田樹さんの「呪いの時代」という本を読みました。この文章がかかれたのは2008年ころ、秋葉原通り魔事件が社会に衝撃を与えた頃です。内田さんによれば、この事件の真犯人は加藤被告ではない。加藤被告の身体と切り離れた、生き霊のようなものではないか?と述べています。彼は派遣労働者の日常に恨みを述べる一方、殺害をする相手は派遣先の上司ではなく「誰でもよかった」。この行為で、加藤被告自身はなんの利益をもたらすわけでもないこと。この事件の真犯人は「生き霊」としか形容できないのだと内田さんは述べます。そして「生き霊」の例としては、源氏物語で生き霊となり葵の上を襲った、六条の御息所の話を掲げています。現代に限ったことではないとのこと。僕は源氏物語のこの話は、まったくのフィクションと捉えていましたが認識不足でし
。そういうことだったのかと、リアルの生活にひきつけて腑に落ちました。
 また、内田さんは朝日新聞から「ロストジェネレーション」論を一読して、帯文の依頼を断ったエピソードを述べています。ここに示されている論旨が、大学の卒業年次の違いで、世の中の不公平感を評論するもの。とてもではないが社会評論としてあまりにも貧しい、と述べています。団塊ジュニア世代が、就職氷河期を経て不公平感を意見することは正当であるが、
バブル崩壊の影響は、彼らだけに降りかかったのではない。ということです。まっとうな意見と思います。
 ここで、教育者でもあった内田さんらしく、教育について述べています。学校教育では「努力は無限」ということと「有限」であると、相反することを同時に教えるべきだが、現在の教育は「努力は無限」とばかり教えている。これが間違いの元と内田さんは述べます。たしかに「やればできる」と教える一方で、人生が有限であるこ
とを教えるようなアナウンスは、僕の学生時代でも、受験指導にしかありませんでした。だから、肥大化する自尊心を制御できないのは、高度経済成長以降に教育を受けた人たちに共通する悩みではないかとも思うのです。
 今日は24時間テレビを放映しています。テレビではハンディをかかえた人々が、がんばって乗り越える英雄的なストーリーが、続けざまに取り上げられています。彼らは、もちろん賞賛されるべきですが、けれど、誰
もが超人的な行動ができるわけでもないし、できなかったからといって、劣等感に打ちひしがれる必要もないことは、同時にアナウンスしなければなりません。でないと、受験や就職、婚活などなど人生のはしばしでうまくいかなかった人たちが、世を恨み社会を破壊する行動にはねかえってしまうことを助長する。かえって社会の害になるということをテレビ制作に携わる人たちにはわかってほしいと思うのですが・・・