内面は譲り渡さない(映画「1987ある闘いの真実」)

『1987、ある闘いの真実』2018年9月8日(土)シネマート新宿他、全国順次ロードショー!

「1987ある闘いの真実」という韓国映画を見ました。この前に光州事件をとりあげた「タクシー運転手」は、ふだん映画を見ないわたしにとって、とても衝撃をうけた映画でした。

軍隊が自国民にたいして銃口を向け発射すること。しかもそれがたかだか30-40年ほど前まで隣国で行われていた出来事だということに衝撃をうけました。最近でも、朴政権を弾劾し、あらためて文大統領を選びなおした、韓国民衆のデモクラシーの根っこはなんだろうとも思ったのです。
 「タクシー運転手」では、義に目覚めていくタクシー運転手の心理が中心でしたが、こちらの映画では、むしろ映画での悪役である独裁政権側のありかたが、詳しく描かれていました。主人公は、「アカ」とみなした共産主義者を取り締まる組織の局長で、独裁政権の権力者にとりわけ近い場所に居ます。恩義があるためでしょう、脱北者の彼はふるまいも思想も独裁政権に忠誠心をもっているし、だから共産主義者とみなし取り締まる対象には際限がない。だからこそ、彼らは身に覚えのない容疑で拘束された被疑者を、拷問にかけ殺してしまいます。
 また、この映画では、独裁政権の側近たちと、公務員たちのせめぎあいの場面も多く描かれています。被疑者の若者の死が拷問であったことを隠したい局長側と、あくまで法にのっとり事実を明らかにしたい検事、あるいは、刑務所に収容された部下と面会し暴力により脅しをかける局長たちに、刑務所の規則にのっとった行動をとるよう暴力をうけつつ抗議する刑務所の長。それは、正義感というよりは公務員としての職務に、忠実であろうとするからの行動です。権力者の後ろ盾をかさに、刑務所であろうが教会であろうが寺社であろうが新聞社であろうが、暴力をもって入り込んでいく局長たちの姿がたくさん映画では描かれています。市民を監視し、疑わしいとみれば日常にずかずかと入りこみ暴力をふるっていきます。もうひとりの主人公でもある大学生の女性も、たまたま居合わせたデモの現場でで、デモ隊の仲間とみなされ執拗に追いかけまわされます。なにが恐ろしいかって、権力側が、日常に踏み込んでいくその恐ろしさでした。
 一方で、権力者が持っている強大な暴力とはうらはらに、かれらは猜疑心の塊であり、だからこそその組織は以下のような原理で繋がっています。
・構成者の信頼関係でなく、組織の上下関係を梃子にした支配と服従によって集団は結びついている。
・構成者の外形的な服従だけでは不安である。内面までの権力側への無限の忠誠が求められる。
・権力と「一体化」した自意識こそが行動原理。権力者との近さこそが、法や組織の規律よりも優先される。
・上位からの命令は、下位の構成者にとって公私の区別がない。上位からの理不尽な要求が下位の構成者に押し付けられやすい。
・上位からの命令が、ほんとうに権力者本人からのものか?いわゆる忖度によるものかわからないこと。
想起したのは、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」丸山がここで述べている、日本での陸軍の行動原理ににているのです。映画でも、権力者の全斗煥は現れず、局長たちは、指示(とされる)命令を上位から伝え聞くばかり。中心が空虚なのです。
 戦後の韓国史と日本の戦後史のかかわりは、せいぜい朝鮮戦争の勃発で日本が特需に沸いて、戦後の復興を支えたくらいしか教科書では教わりませんでしたが、日帝の植民地支配が巡り巡って、韓国の独裁政権の行動原理にまで影響を与えていることを知り、戦慄しています。
 しかし、ひたかくしにしてきた拷問死は、検事や、刑務所、それぞれの良心がリレーされて、権力の監視の網を潜り抜け公になります。それは、やがて独裁政権を倒し、民主化宣言を勝ち取る動きの種になるのです。外形では服従しても内面までは独裁政権に譲り渡さないという意思が映画でも描かれています。時の権力や社会、時流によってころころ善悪が変わるのではなく、もっと深い普遍的な善悪の価値観を韓国社会が持っているように見えます。その価値観は、残念ですが日本の社会には存在しないものです。

 それにしても、「タクシー運転手」にせよ「1987ある闘いの真実」にせよ、独裁政権の暴力を受けるのは大学生が多くて、息子とちょうど同世代なのです。自分にとっては、なかなか見るのがキツい場面の連続で、映画館でずっと泣いていました。

やっぱり河に寄り添っている(北関東の諸街道15)


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 いよいよ、日光街道からの歩きも今日でおしまいです。ただ、自宅にほど近い場所ゆえ、身近な景色を進む行程には、ゴールという高揚感はなかなか生まれないものです。
さて、越谷駅にほど近い宿場町の近くから再び歩き始めます。越谷駅の南側には、目立つような名所旧跡はなくて、自宅の周辺を歩いているのとそう変わりない住宅街を進みます。
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武蔵野線をくぐるあたりで少し脇の方向を眺めると、鉄道コンテナがたくさん積まれている一角があります。JRの貨物駅です。当初は貨物線として開業したことからもわかるように、この武蔵野線のあたりは、首都郊外の物流基地として賑わっていたし、大規模な操車場もありました。物流の主役が道路輸送に変わっても、この貨物駅は割と賑わっています。少し進むと、じきに綾瀬川に沿っての道となっていて、川岸には釣り糸を垂らす人が点々と居ます。この綾瀬川は、かつては全国1水質の悪い川とされたこともあって、ながめても確かにきれいな流れではないのですが、単調な住宅地を歩くのに比べれば、視界が開けて楽しく歩けます。

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川沿いをさらに歩けば、松原が始まります。この立派な松原はとても規模の大きなもので、ご近所の人たちの恰好の散歩コースになっていて、この日もたくさんの人たちが歩いています。奥州街道由来の松原を、最近になってきれいに整備したもののようです。途中には、車道をまたぐ太鼓橋風の立派な歩道橋があって、その歩道橋の上から街道とあるく人を眺めると、どこか往時の賑わいを想像できそうな気になってきます。途中には、松尾芭蕉の石碑や望楼のある一角があって、河岸公園とよばれています。その公園の由来を眺めていてはっとしました。このところ、夏になるとどこかで水害が起きます。今年は西日本で水害がありましたが、こと関東については、不思議なほど水害は起きていないし、縁遠いものと決めてかかっていました。
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ですが、この公園の由来を読めば、ほんの30-40年くらいまで、この地ではときどき水害が起きていたそうです。公園そのものが、治水対策も兼ねているそうです。

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 この公園の近くから、かつての草加宿が始まります。旧宿場の雰囲気が残る街道沿いのそこかしこに、せんべい屋が軒を連ねています。ここでそのうちの一軒にたちよりました。それほど大きな宿場ではなさそうですが、それでも旧い旧家などがぽつぽつと残っていて、旧宿場町の雰囲気は十分に感じられます。
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その草加の街を抜け、埼玉県から東京都内に入ります。ここでいきなりガラッと雰囲気が変わるわけではないのですが、それまで、草加では沿道の住宅が庭付きのものであったのが、都内に入ると団地が立ち並び、ほとんど庭のない長屋のような一軒家が立ち並ぶ風景に変わります。
どちらかというと、浅草などよりも、こういったごちゃごちゃとした小さな家が並ぶ住宅地の雰囲気こそ、わたしにとっては典型的な下町という雰囲気を感じるのです。そういえば「男はつらいよ」シリーズで、寅さんの妹さくらの家族が購入し住んでいた家も、このような典型的な長屋のような狭い一軒家でした、また、下町に住んでいた母の従妹の家に小さいころ遊びにいったその家もまた、隣の家とくっついているかのような、長屋のような一軒家だったのを思いだします。
 さらに歩いていくと、生活感のあふれる通りになります。平坦な地形もあって、年寄りたちがみんな自転車で通り過ぎて行きます。その多いこと多いこと!歩行者と自転車の割合は半々という感じでしょうか。活気を感じます。
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梅嶋駅の高架をくぐり、進んでいくと、前方をふさぐように大きな堤防が現れます。荒川の堤防です。土手に上がりながら堤防を進むと、左手には、常磐線とつくばTX線、千代田線、東武線と、線路が並んでいて、ひっきりなしに電車が通ります。この線路がすべて北千住駅を経由しているのです。これだけの線路が集積している場所は、山手線沿いの駅を除けば、北千住くらにしかないのではないでしょうか?川を渡り反対側の堤防からながめた千住の町は、ずいぶんとごちゃごちゃして見えます。

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 品川、内藤新宿、板橋、千住と5街道沿いの宿のなかでも、千住の宿は最大の規模を誇ったそうで、街道沿いの商店街は、そのまま現役の賑わいを保っています。この雰囲気は、東海道中山道の交わる草津宿の雰囲気とどこか似ているようにも思いました。
千住宿の街はずれには市場があります。このような市場の立地には、繁華街から遠からず近すぎずといった距離がちょうどよいのでしょう。この先、千住大橋隅田川を渡るのですが、首都高が視界を遮り眺めはよくありません。渡った先の南千住では、真っ先にJRの貨物線を横切ります。市場も貨物線も、けっして街のど真ん中に立地できないけれど、かといって繁華街とかけ離れた郊外に設置することもできない。都心と千住あたりの距離感というのは、車社会が到来する以前の絶妙の距離だったのだろうと思います。

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 さらに、浅草の裏手をまわるように進みます。このあたり、日曜の午後ということもあって、恐ろしいくらい人通りも車の交通量も少なく、車自体が音を出さなくなっていることもあって、静かな町です。観光客の姿を見かけるようになると、浅草の街に入っていきます。直近の地震で減ったとされているようですが、それでも現在の浅草の観光では、主役は訪日観光客です。その賑わいで歩くのもままなりませんが、それも浅草寺の周辺に限られるようで、その観光スポットを離れれば、一気に人通りが少なくなります。
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浅草橋を抜け、馬喰町の問屋街を抜け、どちらも日曜とあってまったく人の姿が見えません。小伝馬町や大伝馬町のオフィス街もまったくひとの姿が見えません。このあたりは、普段の通勤先にも近く、平日の有り様をよく知っているつもりですが、日曜の静かな光景は、普段とはかけ離れたとても静かな様子でした。その人気のないオフィス街を曲がれば、とつぜんのように人通りがわんさかと増える。三越本店が見えると、まもなくゴールの日本橋です。観光客と買い物客でいっぱいの日本橋から川を眺めると、水上タクシーと称する船が浮かんでて、観光客を載せています。

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 傍らには「日本橋魚河岸跡」という石碑が立っていました。現在の築地市場が設置される前の魚河岸は日本橋にありました。これまで歩いてきた関東各地の河岸から運ばれる船の行き先も、その多くは日本橋でした。江戸の町、とりわけ日本橋が、その後背地ともいえる、関東各地の河岸や河川交通と密接に繋がっていることが、日光街道を歩くとよくわかります。まもなく、魚河岸は築地から豊洲へと移転します。都心の局所では江戸文化が見直され、局所では観光客でにぎわっている一方で、一歩離れれば都心はとても静かなもので、人々が普段の暮らしを営む空間としての路上の賑わいは、全体として都心の街から失われつつあるように見えました。
 さて、日光街道をゴールし、いわゆる五街道のうち東海道が未走破のまま残りました。今回は、江戸に向かうルートをとりましたが、いかんせん職場や普段の普段の生活空間とも繋がっていることもあり、この場合だとゴールに向かうわくわく感には欠けるようです。この次に歩く東海道は、やっぱり江戸から京都への向きで歩くことにします。

河に寄り添って(北関東の諸街道14)



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 街道歩きも次第に日本橋に近づきました。那須や白河に向かうなら、早起きしてながながと電車に乗り・・なんてところですが。今回は、すべて埼玉県内を歩くルート。すぐに目的地の栗橋にたどり着きます。たどりついた栗橋の街は、宿場と駅とは少し離れています。利根川の堤防のたもとにある、かつての宿場町にはあまり人気もありません。宿場町の片隅にある神社は、スーパー堤防のために移転するらしく、やがてこの宿場そのものがスーパー堤防に埋まってしまうのかと心配になります。

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 宿場を離れ、隣に行幸湖という沼を眺めながらの行程になります。この細長い形状の沼は、かつて川筋が、河の流れと切り離された結果できたものです。強い日差しがさしこむ中、湖畔の堤防に植えられている木がちょっとした木陰を作っていて助かります。

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行幸湖からはなれると、典型的な田園風景が広がります。そういえば那須や白河を歩いたころは田植えの季節でしたが、いまではすっかり稲穂が伸びています。これまた典型的な田園集落の途中には「つくば道」と記された追分があります。日差しの強い中を歩くのは消耗します。幸手の街につく頃にはへとへとの体。昔ながらの商店がちらほらと残る商店街は、どこか懐かしさの残る街並みです。その一角にある小さな公園で休憩します。
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幸手の街を離れると、その郊外は、田園風景と住宅が入り混じる風景になります。このあたりで、日光脇往還の道と離れ国道4号線に合流します。名の知れた外食チェーンが軒を並べる 道沿いは広い歩道があるけれど、上から日光にさらされ、下からは照り返しにさらされる、歩いていてつらくなる道です。その国道を別れれば、すぐに杉戸のまちにたどりつきます。
 
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杉戸の街は、東武の駅から離れているせいもあって、比較的古い建物の残るまちでした。
この街も川沿いに広がっています。ただ、低地にできた街は水害に脆弱なようで、電信柱にはカスリーン台風の被害を受けたことをしめす標識が取り付けられていました。ここで昼食とします。
杉戸から粕壁へむかうころあたりは曇ってきました。強い日差しがやわらぐならむしろ大歓迎というところです。国道4号の沿道に、名所、旧跡の類はすくなく、ここも疲れがより増しそうな道です。
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一軒だけ立派な門を構えたお寺を見かけました。が、近くに寄ってみると門の仁王さまは腕が取れ塗装がほとんど剥げています。寺の庭もあまり手入れが整っているように見えませんでした。この寺だけでなく、総じてこの辺りの旧家旧跡は、維持や補修に手がかけられいていないように見えます。それが残念なところです。
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 粕壁の街も川を取り囲むように街が広がっています。人通りは少ないが旧い町の奥行きと広がりで、そこがより大きな宿場町であったことがわかります。少し前まで通り沿いにあった百貨店が閉店したことも影響しているのか?かつては賑やかだったろう中心商店街のさびれぐあいは、むしろ杉戸や幸手よりも深刻に見えました。かつての百貨店の建物は家具のショールームになったようですが、家具のショールームがそもそも賑わいをうむわけもありません。ただでさえ人通りのすくない街のなか、そのショールームの周りはさらに人がいない。無人地帯のようになっています。まるでニーズがなさそうに見えるこの場所に、なんで巨大な家具のショールームだったのだろう?と首をかしげたくなりますね。


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粕壁からは、ひたすら国道4号沿いの道を南下します。
ごく近くを走る東武線の影響からか古くから宅地化されたこの付近は、住宅がびっしりと立ち並んでいます。まるで自宅近くの住宅地を歩いているのと変わらない風情です。
その東武線は、立ち並ぶ住宅に隠れて見えません。それでも少しずつ風景の変化はあるもので、住宅が立ち並ぶ一ノ割駅のあたりを過ぎ、武里駅のあたりから河川(用水路みたい)が並行してせんげん台のあたりで、これまた別の河川と並んでいます。変化が少ない景色の中で目立つのは、河や用水路の類の非常に多いことです。
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 たどりついた越谷の街も、街の真ん中を元荒川が流れています。いや、このあたりの街はすべて、河川と結びついて成り立っているのがよくわかります。幸手や杉戸、粕壁と南下して、もはや越谷の街にそれほど古い町並みはのこっていないのでは?と思ったところでしたが、そうでもありませんでした。旧い街道情緒はみじんもないのですが、ぽつぽつと土蔵作りの建物が残っている。しかもいまだに現役の金物屋として営業していたり。これにはびっくりしたのです。

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 今日の歩きは越谷までで終わり。次第に都心と近くなることで、あまり風情は感じませんでしたが、河川から湖沼用水路まで含めれば、限りなく水にかかわる景色を眺めたのが、今日の道のりでした。ゴールの日本橋はかつての五街道の起点ですが、その一報で、日本橋の魚河岸に物資を運ぶには水運が欠かせませんでした。その水運をささえたのが、今日通り抜けた、河川に設置された数えきれないほどの河岸です。それは、中山道甲州街道を歩いてもわからなかったことで、日光街道だけが感じとれる部分のようです。

抵抗すること(映画「タクシー運転手」)

映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』公式サイト

80年代の頃、韓国の民主化運動がかなりニュース報道で取り上げられていたことを覚えています。大学生たちが路上で抗議をしては警官や軍隊に排除される。その繰り返しでその実情は報道ではよくわからない。光州事件という出来事も知ってはいても、いかなる様相だったのか?国内報道を見てもわからないままで、韓国現代史での意義もあまりピンと来たことがなかったのです。
現在「タクシー運転手」という映画が各地で上映されています。光州事件を潜入取材するドイツ人記者と彼を乗せるタクシー運転手の実話をモチーフにしています。カネに困っている運転手は、お金さえ貰えれば、あとは適当に付き合えばいいと考えていました。なにしろ光州が封鎖されていることさえ知りません。

ですが、潜入した光州のはケガ人が大量に病院に運ばれる尋常でない光景。そして、封鎖された光州の街で丸腰の大学が次々と軍隊の的になって倒れてく光景を目の当たりにします。人なつっこく、彼とドイツ人記者に接してくれた人たちも次々と銃弾や暴力に倒れていく。通訳も兼ねて同行してくれた若者も犠牲となる。適当に付き合ったらソウルに逃げようとした運転手は、抵抗運動にかかわっていくように変わっていく。

封鎖された街で、銃の前に出ては撃たれる人々。逃げ遅れて軍隊の暴力にさらされる人びと。けれど独裁政権下では、テレビでも新聞でも暴徒と書かれています。光州の実情を街の外の人々は知らないのです。封鎖される街と独裁政権、その恐ろしさが感覚として迫ってきます。

けれど、人々は一方的に逃げまわってばかりの存在では有りません。多数の市民の犠牲者がいると言うことは、それだけ、尊厳をかけて独裁政権に抵抗する市民がいることの裏返しです。記者と運転手を怪しみながら見逃す軍人もいるけれど、彼らはこの映画ではきわめて非人間的に描かれています。

もしも、日本映画ならこうは描かれないだろうなとも思いました。映画「大魔神」の中に革命の物語を見出したという記事を、かつて書いたことがありました。大魔神は農民の願いを具現化した存在だけれども、農民たちそのものが悪者に抵抗するわけではありません、農民たちはひたすら超越的な力(大魔神)にすがります。ですが「タクシー運転手」に描かれる市民の抵抗はそれとは違う。軍隊の恐怖をものともせず名も知れない市民が抵抗するのです。韓国の民主化運動では、2人の政治家金大中や金永山が有名かも知れませんが、韓国の民主化運動というのは、こういった無名の市民の抵抗が基盤だったのだと思い知りました。
とても良い映画でしたが、見終わって劇場を出る頃にはくたくたになっていました。魂を揺さぶられる。というのはこういうことを言うのだろうと思ったのです。

おしゃべりな道(北関東の諸街道13)

f:id:tochgin1029:20180721202311j:image進路を南にとって、宇都宮から小山宿まで進んだものの、前回はあまり変化の少ない行程でした。というのも、国分寺下野国府が立地していた、旧い歴史を持つ土地を通りながらも、その歴史性を否定するかのように河岸台地上を街道筋が単調に通っていたことも原因かもしれません。今回の歩きだしは小山宿から、日本橋に向かう街道歩きは、歩き始めが自宅から近くなるのはよいのですが、またも単調な行程だったらどうしようか?などと不安になります。
 幸い、前回には気が付かなかった、かつての宿場町の趣を残した場所が小山宿にもありました。その代表は、街の一角におおきな敷地を占める須賀神社です。神社を訪れれば今日はお祭りで、氏子の人たちがせっせと準備に追われています。そのわきを参拝します。となりには「小山評定」に関する石碑が立っています。関ケ原を前にして徳川を中心とした大名たちの領地の采配など、徳川と関係が深い神社のようです。
この車社会では、小山のような比較的大きな街でも、個人商店が成り立つのもせいぜい駅前くらいのようで、それなりに賑やかだったろう街道沿いも、すこし駅を離れればいまではただの住宅地。あたりにはスーパーらしき廃墟も見られます。
f:id:tochgin1029:20180721202658j:imageしばらく歩くと、目の前にこんもりとした緑の山が見えてきます。地図では浅間神社とありましたが、その山の正体は千駄塚とよばれている古墳でした。これまで、街道沿いに徳川時代よりも旧い旧跡はすくなく、思わずうれしくなります。間々田宿には、わずかに問屋場を示す看板が立っていて、その場所だけが明瞭に宿場町だということを示しています。f:id:tochgin1029:20180721201704j:imageまた、宿場の途中には「間々田ひも」という看板がありました。組み紐の一種らしく「栃木県指定無形文化財」ということですが店はまだ開店前。そのまま通り過ぎます。近くには市立博物館があり、見学することにします。案内の方によれば、この付近にはわりあいと多くの古墳が残っているようです。縄文の頃からの遺跡も残っているらしく、そのとなりには国分寺造営のための瓦を焼いたとよばれる窯が再現されています。かつての下野国の中心がこの付近であったという、徳川時代よりも前のこの土地の歴史性にやっと触れられたような気がします。この博物館のあるあたりは河岸段丘となった地形のへりにあたっていて、遠くを眺めれば真っ平らな地形が遠くに広がっています。真っ平な地形の先は、たぶん渡良瀬遊水地です。
f:id:tochgin1029:20180721201739j:image かつての関東平野の交通網は陸路だけではなくて水運も盛んでした。ある程度の規模の河川であれば、河岸とよばれる船着き場が方々にありました。このちかくも乙女河岸があって、東照宮を造営する物資はここで降ろされたそうです。すこし趣の違う景色が見たくなったので、その跡地に向かいます。たどりついた河岸は、いまではなんてことはないただの河原なのですが、休憩所には群馬からの行程の途中というサイクリストと地元のおばあちゃんが談笑していました。誘われてわたしもその輪に加わります。そのおばあちゃんの年齢は85歳とのこと。この河原に来るまでには、むこうの台地からおりては堤防を上らないと来れないのです。高低差のある堤防の上まで自転車をこいでくるとのこと。わたしの母親より年長なのにぴんぴんしてうるのにびっくりしました。しばらく談笑をして2人と別れて、ふたたび街道に戻れば単調な道に戻ります。このあたり不思議なくらい同じような街道歩きの同好の士とであいました。なかにはそろって歩いている夫婦も見られますが、どの人も黙々とあるいていて、声をかけるのもためらうような様子なのが残念ですね。途中には寺社やコンビニが集まっている一角がありました。しばし休憩。
f:id:tochgin1029:20180721201834j:image 渡良瀬遊水地のだだっぴろさを感じさせるように、空は広くてまったいらです。歩いていると、1歩1歩すすむごと、風が通るスポットもあれば、地面からの照り返しがきついスポットもあります。その微妙で些細な変化を身体で感じていました。野木の宿場は小さくて、ここもやっとひとつの看板でわかる程度です。地形図で見れば、野木宿はJRの野木駅とは離れており、むしろ古河の街にかなり近いようです。
しばらく行くと、自動車の整備工場でしょうか?なかから仕事の休憩中の方に出くわします。あまりに暑くて「おあがんなさい」との言葉にすなおに甘えます。休憩しながら世間話。自分の仕事方面とはまったくことなる、その業界の話は、ほとんど知らなかった話ばかり。とても面白くて、なによりとてもよい休憩になりました。ほどなく古河宿の入り口が見えてきて、宿場に入ります。
f:id:tochgin1029:20180721201801j:image古河の宿場町は駅の西口にひろがっています。とりわけ横山町のあたりにはまるで骨董品のような商店が並んで建っていてなつかしさを感じる街です。いつもはただJR線で通り過ぎるだけの古河の街がこんな古めかしい町であったことに、なにか秘密を見つけたような気分になってひとりでほくそえんでいました。ここで食事にします。入った食堂は年寄り家族で営んでいる店のよう。頼んだものがほんとうに出てくるのか?すこし不安になりましたが、もちろんそんなことはありません。ここでも涼むことができてありがたい。f:id:tochgin1029:20180721202104j:imageその街をすすむと、しだいに城に近づき、街はかつて商人町だったエリアから家臣の侍たちが住むエリアに変わったようです。城のあたりは今では公園になっていて、ここでも歴史博物館に入ります。徳川に近いお殿様が治める古河藩の性格から、展示物はちょっと格調が高くあまり興味をひかなかったのですが、展示された古地図などから、かつての古河城のあたりは、城を川や堀で取り囲むようになっていたことがわかります。この町はもともと渡し場として栄えた街らしく、地図をながめればこのあたり茨城栃木群馬埼玉の県境が近接しています。まるで関東のへそのような街で、この渡し場の伝統があるからこそ、鎌倉を追い出された足利の殿様が、この古河公方としてこの町に引っ越したわけです。
f:id:tochgin1029:20180721202003j:image 古河の街を過ぎれば、またもや単調な道が続きます。ときどき雑木林が隣に広がり、途中には松並木が伸びていますが、このあたりなにか面白い旧跡があるわけでもなく、歩いていてもっともつらい区間です。とちゅうの中田宿もそういえばそうかな?気が付くくらい、ただの住宅地と化しています。f:id:tochgin1029:20180721201953j:imageここで、やっと利根川をわたり栗橋宿に。あたりは堤防工事を行っていて、かつての本陣が建っていたらしい八坂神社のあたりは移転するとの張り紙が流れていました。となりでは本陣の発掘作業を行っているようです。ここ数年、梅雨あけの時期には、どこかで豪雨被害が起きています。高い堤防をつくってもそれを「乗り越える」ように災害が起きる。そしてまた、より高い堤防をつくろうとする。旧いものは取り壊されて、新しいものに塗りつぶされていく。どこかやりきれない気持ちになります。栗橋の通り沿いでは、もくもくと夏祭りの準備がされていました。商店会の有志の人たちのバンドがリハーサルをしています。
f:id:tochgin1029:20180721201933j:image 今日の歩きは栗橋宿まででおわりです。どちらかといえば下野が「台地の国」という印象なら、下総は「河の国」と印象がします。そのうつりかわる風景を歩きながら体感する行程でした。これまでの街道歩きでは、誰にも会わず黙々と歩く日も数多いのですが、今日はまったくそれとは異なる日で、道端での見知らぬ人とこれだけの長々と世間話をしたのは初めてでした。たまには楽しいものです。この先、幸手、杉戸、粕壁宿へと。だんだん日本橋が近くなります。

ディスリンピア2680(東松山「丸木美術館」)

f:id:tochgin1029:20180709224530j:image 丸木位里・俊夫妻の作品「原爆の図」が常時展示されている東松山の丸木美術館は、前々から訪れてみたかった場所のひとつです。けれど、東松山の外れ、電車やバスで行くに少し不便な場所にあるこの美術館は、訪れるのをおっくうに感じるような場所に建っています。そんな場所に行こうと思ったのは、たまたま東松山の市長選に安冨歩さんが立候補して、選挙活動の中で安冨さんが丸木美術館を訪れ「ここから始まる」といった趣旨のことを述べていた(勘違い?)ように思います。その言葉でなぜか腰が浮いて、やっと訪れることができました。つきのわ駅を降り、なんの変哲も無い道路を30分ほど歩けば到着します。意外にもこぶりな美術館です。2階が常設展示らしく1階が企画展示のスペースのようです。
2階で初めて目にした「原爆の図」は衝撃的でした。被爆して死に至ろうとする人たちが描かれた絵は、どれも巨大屏風絵のようになっていて、それが10作以上もの連作になっています。どの絵も中心になるのは、被曝して死の淵をふらふらと彷徨うたくさんの人たちです。これをみて連想したのは、藤田嗣治の「アッツ島玉砕」をはじめとした戦争画と呼ばれる一連の作品群のことです。ポエムにならない絵画(藤田嗣治の戦争画) - tochgin1029のブログ

あの時に戦争という題材に魅せられていた藤田が描いたのは、命を失おうとする兵士、屍を乗り越えて前に進もうとする兵士たちでした。その兵士たちの絵からは「国民精神」という戦争のプロパガンダにもなりうる言葉です。戦う意義を見いだして戦争に協力していった文化人や知識人ほど、大まじめに東西文明の戦いとして捉えていました。
驚いたことに、その丸木夫妻の描いた「原爆の図」からも、実はその「国民精神」が浮かび上がって見えたのでした。けれども、それは藤田の描いたような戦う「国民精神」ではなく、被爆して苦しみのたうちまわる人々の姿からたちのぼった「なにか」です。戦前の国家主義と決別するような理念が、戦後の社会に存在すべきだったなら、この「原爆の図」に描かれたような、被爆に苦しみ命を失おうとする人々たちの姿、ここから始めなければならなかったのではないか?とさえ思いました。
 一階に下り、企画展「ディスリンピック2680」を眺めました。東京オリンピックの名のもとに、甲乙丙と人々を選別する日本式の全体主義への批判です。全体主義のもと、一人の人間は集団の部品でしかなくて、たとえ甲でえらばれたとしても、乙に選ばれたとしても良い部品にしか扱われません。ましてや丙に選ばれた人々は部品にもなれず排除される。そのほかに、組体操や富士山。鎧姿の怨霊が矢を放つ姿の絵が展示されていました。どれも全体主義の恐ろしさを表した絵ですが、ここにはヒトラーのようなわかりやすいシンボルはありません。人を甲乙丙と選別する主体はここに描かれていません。組体操を強要する主体もここには描かれていません。そう、日本式の全体主義には、目に見える明確な責任者はいません。いったい誰の指図で命令で人が人を選別や排除しているのか誰もわからないまま全体主義がはびこること。その恐ろしさに戦慄しながら丸木美術館を出ました。
 とうとう、戦前の国家主義と決別するような理念は戦後の日本には生まれませんでしたが、戦後を象徴する理念になり得ただろう事物をいくつか想像できます。この丸木位里・俊夫妻が描く「原爆の図」での人々の苦しみもその1つではないでしょうか?

本来なら、この原爆の図の連作は、国立近代美術館の玄関正面にでも展示されるのにふさわしい作品ではないだろうか?と思っています。

驚くことばかり(映画「ワンダーランド北朝鮮」)

映画『ワンダーランド北朝鮮』 | 北朝鮮の”普通”の暮らしとその人々。これはプロパガンダか?それとも現実か?

 平昌オリンピックの頃までは、いつか東アジアで戦争が始まるとかミサイルが飛んできてもおかしくないかといった国際情勢だったと思います。それが、今まで姿を見せることもなかった北朝鮮の権力者が姿を見せるやいなや、韓国、中国、ついに米国までも矢継ぎ早に首脳会談を重ねることに驚きました。この光景を去年の今ごろ誰が想像できたでしょうか?

 いつからか北朝鮮といえば、あの仰々しい国営放送のアナウンサーやミサイルの映像やマスゲームのことばかりが報道され、市井の人たちがどのような日常を暮らしているのか?ということは取り上げられません。緊張緩和の動きが日本では当惑を含んで受け取られ、置いてきぼりをくらっているのは、社会が、あまりにも片寄った情報ばかりに浸っていたことと関係があるでしょう。

 「ワンダーランド北朝鮮」という映画がただいま上映されています。この映画には、指導者や権力者の姿は現れないしミサイルもマスゲームも出てきません。映画に登場したのは、プールの運営会社に勤める男性とその家族、工場に勤める女性を描く美術家、元山の縫製工場に勤める若い女性、農村のトラクター運転手とその家族たち、といったごくごく一般の人たちです。映画を見終わって思ったのは、片寄った国内報道から、この国になにか収容所じみた印象を持っていたのとは異なる姿でした。
 もちろん、彼らの行動のはしばしには権力者をたたえる言葉が入ります。職場にはかれらの銅像があり、家庭の壁には金日成金正日の額がかざられています。ただし、これが日本に住む私にとって異世界か?というと、それほどでもないことに驚いたのです。たとえば、職場に掲げられた銅像は、そこここにある、政治家や地元の有志の胸像、二宮尊徳銅像のようなものだと見れなくもないし、職場にでかでか掲げられる目標やスローガンの類は、日本の工場といった職場でもそんな珍しくもない。家庭に掲げられる金日成金正日の額というのも、昭和の古い家庭であたりまえのように見かけた天皇陛下の額を想像すれば、そう違和感はない。そして映像に現れる人たち。

 登場する北朝鮮の一般人たちは、独裁国家という姿から想像されるように権力に近く目下とみれば横柄な態度をとるようなこともなく、むしろ紳士的です。息子に結婚してほしいと語る祖母や、もっと勉強して平壌に行きたいという夢を語る、元山の縫製工場に強める女性からは、夢も希望もなく刹那的に生きるような独裁国家の印象がなくて、非常に真面目に人々が生きていることに驚いたのでした。あらためて国内で流付される報道が、わかりやすく独裁国家の一面を誇張して伝えているか?思い知りました。
 もちろん、北朝鮮の社会に軍の存在が非常に大きいということも映像はあらわしています。16-17で、ほとんどの子供たちは軍に服役するらしいこと。軍は戦闘だけをするのではなくて、土木工事のようなインフラ整備まで行っているらしい。先軍政治と呼ばれるような社会のからくりにこんな一面があるみたいです。社会の中で軍人は尊敬されているようで、戦前の日本で軍人たちが尊敬されたのもこんな感じだったのかと思わせます。
 農村の映像には、高度経済成長前の日本の農村風景を連想させるような懐かしい景色が映っています。ぷらぷらした老人たちが農地のわきにたむろしています。映像では、軍を除隊したトラクター運転手とその家族が映されています。彼らの暮らしは、日本の農村風景からくらべればいかにも貧しい。娯楽といえば村の劇場みたいな場所でされる歌の発表会。もちろん歌の内容は、いかにも全体主義国家のそれなのですが…
 それにしても、映像にあらわれる北朝鮮の人たちは素朴でした。自分や家族の夢や希望を北朝鮮の人が語る。そもそも北朝鮮の人に「個人」という意識があったことにも驚いています。たぶん、国際関係の改善が進めば、この閉じられた国にはさまざまな外国資本がやってくることでしょう。この10年くらい「あと〇〇年で崩壊」といった言説ばかりが国内では伝えられていましたが、そうなったとしても、たぶんこの社会は生き延びると思います。もちろん、そのときに映像で見たような人々の素朴さは失われるのだろう、とも思います。
 
えいぞう