久しぶりの美術館

 新型コロナの感染予防とのことで、街中のあらゆる店は営業自粛になりました。これまで気軽に立ち寄っていた美術館ほとんどが休館になりました。この異常がいつまで続くのか?なにが一番不安な気持ちを沈めるには必要かと思うと、それは文化芸術や教養の力なのではないだろうか?と思います。6月になると、美術館の展示も少しずつ再開され始めました。早速のように出かけたのでした。
 特別な企画展示がなしで、常設展示をいちばん楽しめる場所としては、竹橋にある国立近代美術館がいちばん好きな美術館です。はてさて?いきなりの入館は難しいのだろうか?WEBをみれば事前予約を促されました。あとの煩わしさを避けてチケットを予約したので、むしろ入館はこれまでよりもスムーズでした。国立近代美術館の常設展示は、所蔵品のなかからいくつかセレクトして、年に何回か展示替えしています。この国において「近代」とは明治時代からのことですから、展示される作品はすべて明治時代以降からの作品です。
 見た中で気になったものといえば2番目の展示室。新緑の季節らしく緑を基調とした絵画の数々。川田喜二郎をはじめとした点描画もたくさん展示されています。さまざまな色の光が景色に溶け込んで見える様子は、確かに点描画という技法でないと表現できないだろうなあと思います。風景を眺めるまなざしは、江戸時代までの絵画とはまったく異なっているのがわかります。自分を取り囲む景色をそれ全体として眺めるのは、西洋文明とふれあわなければ獲得しなかった視座です。たとえば、洋画が展示された一角には好んで農作業をする農民や日常の田園風景が描かれていて、これはこれまでの日本画で描かれてきた花鳥風月とは異なる視点です。かれらは西洋とふれあうことで、農民の作業風景を題材として扱うことを発見したのですよね。柄谷行人日本近代文学の起源」を読むと、同じことは小説の世界でも起きていて、例えば、国木田独歩の「武蔵野」あたりで、西洋文明と触れることで、見る風景そのものを「愛でるもの」そのものとして扱う視座を獲得したこととシンクロしています。
 展示を大正時代の絵画に進みます。デモクラシーの時代とされる大正ですが、2つの戦争に勝利したことで、日本がアジアの他国に対する優越感をもち自信過剰になっていった時代。展示された絵画群からも見えてきて、画家が取り上げる対象も西洋の事物一辺倒になり、アジアに対する優越感や差別視が芽生えいく時代です。川端龍子などがアジアを訪れて描いたスケッチが展示されています。スケッチはまるで観光気分で訪れた旅行者が描いたような呑気さが見えます。
 時代はさらにすすんだ「太平洋戦争」の最中に開催された絵画展にしっかりと引き継がれています。かつて藤田嗣治戦争画を同じ国立近代美術館でみました。そこでは画家が題材として戦争を活き活きと描いていてを感じたのですが、今回は、政府の依頼で日本画家が描いた画も隣に展示されています。藤田の絵では、兵士個人ひとりひとりの身体が大きな戦争を構成しているという事実を表しているのに、隣の日本画では、生々しさは消えて、まるで牧歌的な絵にしか見えない。花鳥風月を描くように戦争が描かれています。また、上海に凱旋する日本軍を描いた絵画でも、これまた他者(中国人)にたいする生々しい視線はすっぽりと抜け落ちています。
 敗戦の後も、通俗的なテレビドラマでは、いきなり明るい戦後社会が訪れたかのように描かれていますが、いやそうではなく、1950年代に描かれた絵画をみると、決して明るい時代であったわけではなく、それは暗い基調の絵画も多くあります。なにより貧しかったのだと思います。それが経済成長の時代を超えて物質に満たされた日常を超えて、だんだんと観念的になっていきます。表層だけは明るくなってきます。戦後の作品を時系列で眺めているとそんな印象を受けます。21世紀の現代もその延長線上でしょうが、もうすぐ終わるだろうなと、いまは冷ややかに眺めています。
 近代美術館の常設展示はいつも、歴史博物館を訪れるのとは違った形で、日本の近代史を振り返るよう趣があります。美術館でありながら、どのような視線をもって日本の近代を人々は生きてきたのか?なんて歴史的なことを振り返る場所です。

あるきづらい石畳の道(東海道を歩く6)


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 しばらく、街道歩きはできないでいました。今年の冬は、身辺の忙しさがあって出かける余裕がなければ、3月になっても花粉症が怖くて歩けない次第。4月にもなり、ようやく花粉症も怖くなくなったので、久しぶりに歩きに出かけることができました。4月になっても寒い日の多い今年の4月には珍しく暖かく、外を出歩く人も多い日でした。小田原駅を出て、街かど交流館と呼ばれるよばれる旧家を眺めた場所が、今日のスタートです。
 国道1号の大通り沿いは、そこそこ古めかしい薬屋とか伝統菓子の立派な建物も多くて、楽しく眺めながらの行程です。板橋見附を過ぎれば国道とは分かれます。目の前に箱根の山がそびえて、その手前には街道を囲んで家がずらっと並んでいます。峠に向かう街道沿いの光景そのままです。通りの近くには、箱根登山電車が通っています。
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途中に通り過ぎた風祭の駅はとても小さく、まるで市内電車の駅のようです。かつて箱根登山鉄道の小田原から箱根湯本までは珍しい3線軌道になっていて、登山鉄道の小型の車両と、小田急の大型車両や特急車両の両方が通過していました。さらに進んだ入生田駅の近くには、まだ名残の3線軌道が残っています。そして、踏切をわたり200-300mくらいすすんだだけでも、街道に並行する線路がそうとう高いところを走っています。相当の急こう配であることがわかります。
 
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まるで、箱根湯本駅あたりの雑踏を避けるかように、旧東海道は駅の直前で折れ曲がり三枚橋をわたります。橋を渡り終えるとすぐ傾斜のきつい坂が始まります。歩行者にはお構いなく、温泉場の狭い道を自動車が追い抜いていきます。箱根は相当に公共交通機関が整備されている観光地ですが、それでも観光客が箱根を訪れるのは、公共交通機関よりもマイカーでやってくるのが一般的なのでしょう。
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坂道の途中には早雲寺が立っていました。名の通り北条早雲にちなんだお寺です(由来の案内板は見忘れました)その当時、禅宗などといった文化が、武士たちの間で流行っていたそうです。しかし、最近に読んだ本「日本文学史序説」(加藤周一)の中では、総じてかれら武士たちが禅宗の精神を理解していたかというとはなはだ疑わしく、興味のほとんどは絵画などといった物質的なものにしか興味を示さないと嘆く禅僧の言葉が紹介されています。北条早雲の場合はどうだったのでしょうか?早雲寺を過ぎしばらく似たような温泉街が続きます。温泉街が途切れた街はずれには大規模なホテルが続きます。ホテルが途切れると、今度は道の途中に極彩色の神社や寺が2~3点在しています。どうやら新興宗教の施設らしく、桜の花のほかはまだ茶色い山の中で、極彩色の施設はとりわけ目立ちます。このあたり遊歩道と案内はあっても、旧東海道という明確な案内がないところが、少々わかりづらいのです。しばらく行き、道路と離れ右に折れ曲がるとようやく石畳が始まります。
 
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石畳の道は正直なところ、あまり歩き安くはなく滑りやすい道です。ふかふかの落葉や土の上を歩くほうがはるかに快適な道です。でも2~3の看板にかかれていた石畳の由来や構造や工夫を読んでいると、いったん雨になれば、足が泥に沈むほどの悪路となっていたこの山道が、石畳が作られたことで安全に道を歩けるようになったらしく、ただ石をすきまなく敷き詰めただけではない水を逃がす工夫も書かれていました。
 石畳がいったん途切れ、寄せ木細工の集落がある畑宿に着きます。ハタと名の付く地名は、古代の渡来人の大集団の秦氏に由来をもつそうです。神奈川には秦野という町もありました。また、コマと名の付く地名は、高句麗とかかわりがあるらしいとも。とすれば駒ヶ岳駒形神社という地名を含む箱根全体が、どこか渡来人の文化との濃厚なかかわりを持つ場所のようにも思えます。
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一里塚のわきに腰かけて昼飯を食べていると、ぽつぽつとハイカーたちが通り過ぎます。あいさつに答える人、無視する人さまざまです。再び歩き始めると、その半分くらいは車道わきの歩道でした。箱根は、あまりにも観光開発がされ過ぎて、素朴な山道を楽しむような道中にならないのは残念なところです。このあたりが小田原から箱根までの行程で、もっともきつかったように思います。
 
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甘酒茶屋に到達し、もちろんのように休憩します。あたりは中高年の人たちのグループやデート中のカップル。道の駅のような建物を想像したのとは違い、茅葺き屋根の建物は意外と素朴な雰囲気が残されています。甘さが控えめの甘酒は身体になじみやすい味です。甘酒茶屋を過ぎ再び山道にはいり、芦ノ湖の外輪山と思われる、本日のピークに到達します。このあたりは、上下それぞれの二子山がよく見える場所で、この二組の二子山はどちらもよく似た形をしています。
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その後は急な下り坂に入ります。石畳の下り道は滑りやすく歩くのが怖い道でおそるおそる通ります。芦ノ湖の湖面が見えれば、観光客がたくさん賑わっている元箱根に到着。どこの観光地も、いまは訪日観光客でたくさんですが、ここ箱根でも同じ光景です。元箱根から関所までの道は、日光のように杉並木が形作られていますが、日光に比べれば箱根の杉並木では、杉の木が元気なように感じられます。まもなく、箱根関所に到着します。 
 
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復元された箱根関所は、道を遮るように柵がたてられ、その横に建屋が配置されています。確かに関所というのは、自由な通行をせきとめ出入りをコントロールするという目的がむき出しになった施設です。街道を中心とした山と湖の斜面一帯には柵がつづいていて、この柵を避けるように越えることはできません。わたしも入口で500円の入館料を払わないと街道を先に進めません。

 関所というのは、わたしたちの社会に残るタテ割り社会の原型かもしれません。たとえば電車にのるには、改札口という名の関所をこえなければならない。別な電車に乗り換えるにも乗換口という名の関所を超えなければならない。新聞の記事をWEBで読もうとすれば有料会員になりIDという通行手形を持たなければ記事を読めない。とかくわたしたちの社会で、利用者より提供者の都合が優先されることの多くは、関所が原型のように思います。
 さて、今日の歩きはここまで。「箱根フリーパス」という割引切符きっぷでやってくる観光客は、箱根登山バスに乗りますが、そうでなければ、むしろ伊豆箱根バスのほうが空いていて安心して乗ることができるようです。ここで、ようやく関東から離れます。この先三島から始まる静岡の歩きが楽しみです。

中から外から?(「古代日本文化の源流」金達寿 を読む)

古代日本文化の源流 (河出文庫)


 「古代日本文化の源流」という本を、古本屋でたまたま見つけて読みふけりました。棚に転がっていた300円ばかりの本はなかなか面白いものでした。谷川健一さん、金達寿さんの二人の著者が、相反する意見を戦わせ、それが日本の古代文化に関する、立体的で面白い論点を提示しています。どちらかといえば、谷川健一さんは日本の歴史と文化は自律して発展したものだとの論者です。北と南から流れてきた文化は、日本列島の中でミックスされ独自の文化として発展してきたと。それに対して金達寿さんは、日本文化の多くは朝鮮由来の文化がやってきたもので、それが変形変容して日本文化となったのだと。

 金達寿さんの著書は昔に読んだことがあります。日本の古代文化がかなりの部分を朝鮮に由来しているという論を、その当時はかなりこじつけのように受け取ったし、少々反発も感じたものですが、あらためて読んでみると今はそれほど反発も感じません。むしろ、少し韓国語をかじると「奈良」という言葉の音は、そのまま韓国語に置き換えると나라という「国」というを表す言葉になることもわかるし、反対に日本人たちが当てはめた北海道や北東北の地名の多くが、かつてのアイヌ語に起源がある。なんてことを類推すれば、同じように日本各地の地名に古代朝鮮文化の言葉の痕跡が残っているという金達寿さんの指摘は、突拍子もない意見とは思いません。

 伊勢、九州、北陸、関東、出雲と各地に残る神社や古い地名から朝鮮との関係を語っていきます。谷川健一さんは、東西南北の各地から流れ着いたいろいろな文化が、日本列島のなかで交わって日本文化を自律的に形成していったのだと信念を持っています。金達寿さんは、日本文化に見られる事物の源流は、多くが朝鮮にあって、それが海をわたり世代を超え、他の文化に交じり合って変形していったとの見方をしています。古代では文化と技術の伝播は、それをもった人々が海を渡ってやって来ることから始まります。世代が変わり住み家が移動し、異なる集団とも接触していき、渡来した文化は異なる文化に変容していく、文化とはそのように発展していくものであって、けっして日本文化が朝鮮文化のマネをしてと述べているのはない。と、金達寿さんは再三延べていました。勘違いしやすいところであり誤解を受けやすいところなのだろうなと思います。

 奈良大和を経由しない海外と各地との交流があったはずではないか?文化の発展をことさら日本列島内から由来するものと考えすぎると、さまざまな地方の古代文化や遺跡が、すべて大和朝廷から放射状に伝播していったのだという誤解にいたってしまう。とも金達寿さんは述べています。例えば、群馬県内には古墳がたくさんあって、その数は近畿地方にも匹敵する。識者によっては、このことを大和朝廷からの影響として強調するけれど、ほんとうにそうなのか?ということです。

 古事記日本書紀が編纂されたとされる年代は、わずか10年ほどの違いしかありません。蘇我氏を滅ぼして、日本列島の範囲を国家として宣言したとき、その当時の日本列島には、縄文式の生活を営んでいた人々も、竪穴式住居に住んでいた人々も多かったはず。そんな時に古代の権力者はこの国の範疇の土地はすべて自分のものだと宣言しました。そもそも文字という方法で記録を残すのは、古代ではごく限られた人、ほとんどは権力者の独占物です。これら古代国家の行っていることはとても政治的だし、どこまで支配に実効性があったかというのは鵜呑みにはできないものと思います。オリジナルな日本文化は、あくまで日本列島の内部で育まれてきたのだという谷川さんは、ここでは守勢に立っていました。

 日本人のルーツは何だったのか?という議論では、戦前の国家神道の反省から、ルーツは様々で多様だったという意見が戦後では主流でした。騎馬民族起源による征服だという説もあったけれど、それでも、日本文化は日本列島で育まれたのだという意見は、いまでも大勢だと思います。ただし、文化の発展の源流をことさら日本列島内に求めすぎると、さまざまな地方の古代文化や遺跡は、すべて大和朝廷から放射状に伝播していったのだという誤解にいたってしまう。この誤解はどこか一種のイデオロギーとなってしまっているかもしれあません。現代が中央集権の国だからといって、古代から同じだったと思い込んでしまうこと。

 古代の日本列島の文化が朝鮮からの強い影響下にあったこと、そこから世代が変わり変容し南洋からの文化の影響もうけながら、オリジナルの文化に成熟した。だからといって、文化の由来が中か外かということや、外来文化だからといって借り物だと卑屈になる必要は全くないのだと思います。金さんの本には、他に国内の地名を通して朝鮮文化の日本への影響について述べた書がほかにもいくつかあります。面白そうなので読んでみようと思います。

心の中は異邦人(「湾生回家」を見て)

 毎年、2月から3月は故人たちの事を思い出すことが多くなる季節です。つい先日は、長い闘病を続けた叔父がなくなりましたし、父の命日がまもなくやって来ます。
 ある時に流れてきたtweetに「湾生回家」という映画について述べられていました。日本統治下の台湾に生まれて、戦後になり内地に引き揚げた人たちのことを湾生と呼ぶらしく、この映画はそういった湾生たちが故郷の台湾を訪れるドキュメンタリーで、舞台は東岸にある花蓮という街です。

 大阪で生まれたわたしの父も、幼いころに親兄弟と一緒に台湾にわたって、敗戦で引き揚げるまで台湾に暮らしていました。住んでいたのは、この映画の舞台花蓮の街です。父親や叔父叔母が台湾に住んで、戦後に引き揚げてからの父や叔父叔母たちの苦労した話は、どんな家族にもあっただろう敗戦直後の貧しさで、たいして特別なこととは思っていませんでした。

 けれども実際に「湾生回家」の映画を見た後で、それはまったく自分の無知だったことを痛感しました。生前の父は、台湾の思い出を話すことなどまったくなくて、わたしはその事を、父にとって「つらくて思い出したくない」いやな過去なのだと思っていました。けれども、台湾での生活は快適なパラダイスで、もし戦争がなければ台湾で一生をすごすつもりだったという事を、叔母が話していたと知りました。

その叔母と同じような湾生たちの証言が映画では流れていきます。かつての湾生であった出演者の富永さんは、花蓮を訪れてかつての友人たちの家を訪ねたり探したりします。生きていた友人と再会すれば涙を流す。すでに物故者となったことを知れば涙を流す。決して台湾での暮らしは楽だったわけでなく、最初に台湾を訪れた時、あたりは荒地だったそうです。その荒地を開墾して農地をつくり街を作っていった。パラダイスというのは生活にまつわるもろもろが合わさった感慨の言葉だったのです。
 やがて、台湾も空襲に襲われるようになり敗戦となり、日本に引き揚げることになります。良いところだと聞いていた日本での暮らしは、引き揚げてみれば実際には正反対で、引き受け先もない台湾からの引き揚げ家族はお寺に仮住まい。南国育ちの湾生はのんびりしていると教師に言われたという出演者の証言がありました。なかには差別的な言動や行為を受けていたこともあるのではないかと推測されます。
 映画では、病床の母に変わり、生き別れになった祖母の墓を日本で探す家族が描かれます。日本には引き揚げずに台湾に残った湾生たちもいて、家族や兄弟が離ればなれになったことも多いそうです。祖母の墓を探し当て、祖母の戸籍を見つけ、戸籍のなかに病床の母の名が記されていたことを知ります。祖母に捨てられたと、わだかまった気持ちを抱えていた母は誤解が解け涙を流します。反対に、日本に引き揚げた湾生は、台湾で戸籍が残っていたことを知り、自分が台湾に生きた証を知り涙を流します。
 湾生の一人が、自分たちは異邦人だ。と述べていました。この言葉にはっとしたのです。父にも叔父にも引き揚げ後に、職を転々としていた時期があったそうです。引き揚げた内地には自分の居場所がないと感じたからの行動だったのか?といまでは思います。もの言わず実家の茶の間で無口で座っていた生前の父でした。物故者となった今では知る由もないですが、父にとって心の故郷は台湾で、たぶん深い郷愁を感じていたのだろうと思いました。
 それにしても、戦争は多くの人々の人生を狂わせます。もし父が内地に引き揚げず台湾にいたら自分がこの世に生を受けることは無かったでしょう。戦争による災難の最たるものは、人々の人生の可能性を奪って行くことで、そのことは許せないことです。

 

「湘南」に実体はあった【大磯限定】(東海道を歩く5)


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 平塚宿まで到達した東海道ですが、「湘南」というこの地域を称する漠然とした名称がこの地域の現実の生活を見えにくくしていると感じました。けれども先入観ぬきなら平塚の街は、旧めかしい金物屋の看板建築が残り、これまた1時代前のアーケードの作りなどを眺めるのも面白いものです。ただ旧いだけなら甲州街道の八王子などと変わらないのですが、養蚕や織物といった地場産業の名残が平塚にはないことが違うようです。ただ、この街はどのようにして成り立ったのか?というのはよくわからないです。
 平塚の駅をおりて市街地を歩き始めると、前回の終わり古めかしい公共施設と公民館にたどり着きます。市街地を歩いている間、目の前にはずっとひとつの山が見えます。

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川を渡り、化粧坂という坂のあたりで国道から離れます。坂と呼びながらあまり傾斜がないように沿道はは、松林が点々としています。東海道の線路をくぐれば大磯宿に到着します。なんだかあっという間です。
 大磯という街には、吉田茂やら伊藤博文とかかつての著名人の別荘が立っていました。島崎藤村の旧家もこの地にあります。この地になぜ別荘を建てるのか?と考えたら、街中には「湘南発祥の地」という碑がありました。
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この地のあたり、西行法師が中国の風光明媚な地に似ていることから名付けたそうです。もちろん西行法師自身に中国への渡航歴はなく「似ている」という彼の気持ちは、旧い文献や絵画から得た教養から来るものだったはずで、ではそれが本当に中国の湘南と似ているのか?はわかりまません。ただし、明治以降の著名人がこの地に別荘を作ったことの選択の理由には、風光明媚な風景だけではなくて、この西行法師が名付けた「湘南」という地名に関係があったのだと思います。大磯では「湘南」いう地名はそれなりに現実の地域の伝統となっていました。

 ただし平塚や茅ヶ崎、藤沢まで「湘南」と称するのは違うようです。形容するならマンションや建て売り住宅のチラシのようなものかもしれません。駅から数十分もバスに乗ってたどり着く建物なのに、建物には遠い最寄り駅の名が冠せられているみたいな感じ…ここまで歩いて「湘南」についての疑問がやっと瓦解しました。
 大磯の街を過ぎると、ここでも山が迫ってきます。城山公園という県立公園となっているあたりを過ぎると沿道にはまたまた松林が点々と広がっています。松林を過ぎれば再び国道1号と合流します。その沿道には六所神社があります。休憩がてら立ち寄ります。
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 まだまだ初もうで参拝の客が訪れていますが、三が日の賑わいも過ぎてほどほどの賑わいです。神社のなかには、最近になって、参拝の作法やら○○奉祝やら、とかく仰々しい様子の神社も多くて、そういった窮屈さは正直なところわたしは嫌いです。けれどもこの神社では、そういった仰々しさは境内になくて親しみやすい境内です。簡単な参拝をしたり甘酒を飲んだりしのんびりとしました。
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 二宮までそのまま国道1号沿いの道を進みます。一度だけ二宮の海水浴場に海水浴に行ったことがありました。そこは海の家もないこじんまりした海水浴場でした。このあたりの傾斜の多い地形から来るものか?水が冷たくて、引き波が強く海に引き込まれる感じがして、二宮の海が少し怖かったことを覚えています。市街地を過ぎて国道から旧道に離れれば、醤油店などが建つようなふるめかしい通りを過ぎればアップダウンの急な坂道を降りて国道と再び合流、左手に海が見えます。
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 海がよく見えるのは東海道では日本橋から歩き続けここが始めてです。「東海道」名付けられるくらいですから、かつては街道沿いから海がよく見えたことでしょう。けれども、現代の東海道はここまで歩かないと海が見えないくらい、都市化がすすんだということなのでしょう。途中にはJR国府津駅があります。名の通りかつての相模国の中心に近い場所で、車両基地が隣接して規模の大きい駅のはずですが、駅前には商店街もなく、驚くほど静かです。さらに国道沿いをあるくと、ここでも松林が点在します。
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 酒匂川を渡るあたり、今回も富士山はよく見えませんが、だんだんと箱根の山が迫ってくるのが相模川の景色と違うようです。渡った先はすでに小田原の市街地に入っていて、すこしばかり歩けば小田原宿に到着します。
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国道から離れた道はかまぼこ通りと名付けられ、通り沿いには、立派な店先をのかまぼこ店が立ち並んでいます。ただし、正月明けのお腹にかまぼこはちょっと食傷ぎみで、立ち寄らずそのまま通り過ぎます。明治天皇の在所跡がある本陣跡で、今回の歩きはここまでで終わり。薄暗くなった小田原城を横に眺めながら駅に向かいます。次はいよいよ箱根越えです。きつい山道でしょうが、たぶん東海道歩きのだいご味が感じられるでしょう。

「湘南」には実体がない(東海道を歩く(その4)

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 戸塚宿までの東海道は、思ったよりも平らな地形のところが少なく、細かな上り下りの道の多いことが印象に残っています。けれども、あまりにも都市化が進みすぎていて、その土地その土地の個性が掴みとりづらいなと感じています。今回の歩きは戸塚宿から始めます。歩道橋だらけの戸塚駅から地上に降りて、再び歩き始めます。  

 前回は暗くてわからなかった本陣跡も、今度は見つけることができました。戸塚の街の光景は、今度は、はっきりと眺めることができます。このあたりの東海道は、立派なバイパス道と化していて、ともかく通行する自動車の音がけたたましい場所です。かつての宿場を外れるころには、大坂とよばれる坂の上りが始まります。途中には庚申塚があります。

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登り切った先の場所は、ほんとうならとても眺めの良い場所のはずなのですが、マンションが建っていて、残念ながら視界はさえぎられています。遠くに富士山も見えるのですが、こんどは建設現場の仕切りがさえぎっていてこちらも写真にはうまく収まりません。となりのバイパス道はいっそう道幅も広くなり、自動車の通行量もさらに増えています。そんな中で、いくつかのランニンググループと遭遇しました。この日は年末で、新春の箱根駅伝もまもなく始まろうかという頃です。そんなことも相まって、東海道を走ろうとする人々も多いのではないでしょうか。


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 そんな殺風景なバイパス道と離れ、道は下り坂に変わります。下り坂を下りきったところで遊行寺に到着します。鎌倉時代の僧、一遍が開いたとされるこの寺は国宝の「一遍上人聖絵」を見るため、何回かおとづれたことがある場所です。この「一遍上人聖絵」では、高貴な姿の人もみすぼらしい姿の人が描かれていて、ライブハウスさながらのように人々が踊る姿も印象的な絵です。この絵で描かれたように、この寺の境内にはどこか、多彩な人を受け入れるような親しみやすい雰囲気があって、とても好きな場所です。その遊行寺の近くが藤沢宿の始まりです。


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 他の宿場の例にもれず、藤沢宿も旧い建物があまり残っていない静かな商店街です。けれど、ほどほど狭い通りと、通りに面した建物の連なりが、かつての旧宿場町の風情を残していて、駅前の繁華街の賑わいからは想像できない旧宿場町の風情です。
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しばらく歩くと、街道のわきに、義経の首洗井戸とよばれる史跡が残っています。なんの変哲もない住宅地がつづくなかで、とりわけ源氏にまつわる史跡が多く残っているのが、この地域の特徴化もしれません。小田急線と比べて東海道は高い位置に面しています。線路とは踏切ではなく陸橋で交差します。このあたりで昼飯とします。はいった中華食堂は、ごく近所の人がおとづれるようなアットホームな食堂で、なじみの客と店員が世間話をしています。右手には小高い丘が点々としていて、左手には住宅地が連なっています。どこかとりとめのない景色ですが、それなりにぽつぽつと史跡は残っています。
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道路沿いには、おしゃれ地蔵という名の小さな地蔵がありました。女性の願いをかなえるというこの地蔵は、顔の口のあたりが赤い紅で赤く塗られています。そして、さらに進んだ先の交差点ちかくには、大山道との追分がありました。そして東海道は藤沢から茅ヶ崎の街に入ります。

 茅ケ崎といえば湘南というイメージが強いせいか、世間的には茅ケ崎は海の街というイメージがあるかもしれません。しかし、東海道を歩いた限りでは、茅ケ崎の街にはあまり「海」の匂いはありませんでした。このあたり起伏の多い地形で、旧道が通るあたりも海抜は10mを超えています。ところが夏に歩いた日光街道の杉戸や幸手といった場所では海抜はせいぜい3m程度です。東海道を歩いている限り、茅ケ崎という街は、あまりはっきりとした特徴がないぼんやりとした街だなと思いました。


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 ぼんやりとした住宅地は、ずっと相模川を渡るところまで続いています。川をわたる橋からの眺めでは、富士山の姿もおおきく見えるようになってきます。けれども、この場所では、どちらかといえば主役は大山のほうでした。上野の国なら上毛三山利根川という組み合わせ、下野の国なら日光連山や那須岳と鬼怒川といった組み合わせのように、それぞれの国には特徴のある山と川の組み合わせが必ずあるように思います。その組み合わせは、相模の国だと大山と相模川の組み合わせになるようです。川を渡ったところの河原には、渡し場跡の碑があるらしいとガイドブックに書かれていましたが、さっぱり見つかりませんでした。石碑を探しているうちに道がなくなり焦ります。あわてて河原の草むらの中をかき分け道路に戻ります。


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 橋を渡った時点で、すでに平塚の市街地に入っています。茅ケ崎とはことなり、平塚の市街地は、まっ平らな場所に面しています。年末ともあって街は静かで、あまり活気はありませんでした。東海道駅前通りと交差するように街を縦断しています。藤沢や茅ケ崎と比べ、平塚の商店街には旧い建物が多く残っていました。まだ現役で商いを営んでいる金物屋がぽつぽつと残っています。復元された江戸見付の近くには、市民センターとよばれる公共施設があり、これも相当に旧い建物です。

 今回の歩きは平塚までです。これまで歩いた中山道甲州道、日光道、奥州道では、宿場町や街道周辺の地形や景色といった情報がまとまって、街それぞれの特徴というものを掴みとっていたのですが、今回の東海道歩きでは、まだそういった独特の雰囲気というものが薄いようにも思います。とりわけこの湘南とよばれるこの地域はつるんとしていて、とらえどころのない場所のように感じています。あまりにも「湘南」というイメージ先行の地域名には実体がなくて、むしろ藤沢茅ヶ崎平塚といったそれぞれの地域の歴史や由来とかいったものを切断してしまったように思います。

 東海道といいながら、まだ視界の中に海が飛び込んでくることがありません。次の小田原までの行程で、こんどこそ出会えるのではないかと期待することにします。

おためごかし(「キメラー満州国の肖像」山室信一)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)


 韓国の民主化運動についての、二つの韓国映画「タクシー運転手が」「1987ある闘いの真実」を見たときに、そこで描かれている独裁政権ありさまが、とても日帝に似ているなと思ったのです。独裁政権といいながらも、たとえば全斗換はヒトラーのようなシンボルではないし、政権側の人間が、どれも権力者の威光を梃子にしつつ、実は自分の権力欲を満たしていくありさまが、恐ろしいなと思ったのです。それは、かつての大日本帝国の官僚たちが、権力者の威光を梃子にした「システム」によって国内の統制を進めていったことに似ているな?とも連想したのです。

いつも何気に眺めている Tweet のやり取りを見て、日韓ふたつの政権をつなぐ共通の橋があったことに気づかされました。それは満州国です。若い日の朴正煕は、満州の軍隊学校にて過ごし、帝国軍のもとで軍人としてのキャリアを始めています。また、岸信介だけでなく、戦後政治家のおおくは満州での赴任経験をもちます。

 ざっくりと、満州国の概要をつかみたいなと思いつかんだ本は山室信一さんの「キメラー満州国の肖像」という新書です。読後に思ったことは、大げさに言って、いまの日本社会で繰り広げられている欺瞞的なやり取りが、あらかた満州国での日本人たちのふるまいに源流があるとさえ思ってしまうほど、そっくりという印象をもったのです。

 満州国のあった場所は、もともと女真族清王朝を建国した場所です。彼らはこの地を神聖な地として他民族には触れさせないし、他民族の移住を認めていませんでした。けれど、そうしているうちこの地はすっかり荒廃してしまいました。そこから漢民族の移住が始まります。日本は、日露戦争に勝利し朝鮮を併合し、第一次世界大戦に参戦し、ドイツでの中国大陸の利権を奪うところからこの地にかかわるようになります。満鉄が設立され、次第に国策会社の色彩を帯びてくる。関東軍はその満鉄の運行を守るための組織でした。

 満州国ができるまでのこの地は、ロシア、清、そして朝鮮を併合した日本が、それぞれ権益を持つ地でした。清〜中華民国へと変わっても、実際にこの地を治めているのは、この地を拠点にする軍閥です。日本は満鉄を通じて軍閥とかかわり、利益を得ていました。

それが、傀儡国を創るという行動に変わったのは、第一次世界大戦が契機になっています。国家同士がヒトカネモノを注ぎ込んで戦争を行う「総力戦」という概念が軍隊の上層部に持ち込まれます。その代表は、石原莞爾の「最終戦争論」です、アジアの盟主である日本とアメリとの最終戦争は避けられない。だからこそアジアが結集すべきで、アジアの盟主である日本が満州の血を支配するのは当然と考えていました。

 3000万の国民のうち日本人はわずか3%しかいません。当初は直接の占領を考えていた石原も、独立国を通じた支配という考えに傾きます。やりたいことは支配であるのが明らかなくせに、この満州国では、五族協和という建国の理念が語られ、日本人と他の民族は平等であるとされていました。

けれど、現実は全く違うものでした。満州を取り仕切っていたのは、日本から派遣されてきた官僚たちでした。かれらは日本の省庁から出向のような形でやってくる。中国人官僚たちはいるけれど決定権はない。日本人はあからさまに中国人を蔑視します。賃金も日本人と比べ他民族の賃金は低いままでした。五族の扱いを平等にと考える石原莞爾のような人間は良心的であっても、そもそも日本人が多民族を支配するのは「日本人が優秀だから」という理由にて当然視されています。彼だけではなくて五族協和を語る同じ人間の口から、日本人が他民族よりも優遇されて当然との言葉が語られます。

満州国では、傀儡国の疑惑隠しのためか、清王朝最後の皇帝溥儀が迎え入れられました、彼には清の再興という夢がありましたが、なにも実権がないことに気がつきます。せめて自分を天皇と同じような立場に擬そうとしたけれど、それすらなれないことに気が付いて、処世のためでしょうか、天皇制の構造を受け入れていきます。日本人と中国人との間には差別的な構造が横たわっています。地方では父親が徴用され、あとに残された子供たちが極寒の満州で裸同然で暮らしていたそうです。その一方で特権階級の日本人たちは都会的な暮らしを満喫しています。

 戦後、往時を懐かしむ当時の官僚たちは「満州はフロンティア精神の場」であったと語っています。かつて満州国のあった地域は、現代の中国の重工業地帯ととなり、そのことで日本がさも善政をしいたのだと評価する向きもありますが、とんでもないことです。その当時の中国人官僚たちは、ただロボットのように仕事をしていたことが述べられています。

このように甘言を繰り出しつつ、現実にやっていることは甘言とは真逆の差別的な扱いで、こういった振る舞いがいかに住民を傷つけ罪深いかは、末尾に岩室さんが付記という形式で、質問に答えています。

 「あなたと私は対等であり、わたしこそあなたのために犠牲となって尽くしているのだと公言し、自ら信じて疑わない人が、実は相手の意思や希望を踏みにじっているにもかかわらず、それに気づこうとさえしないことほど、相手に苦痛を与える配信的行為はないのではないでしょうか。」
と。このことを「自意識過剰」という言葉とともに、山室さんは「他人に対する無意識過剰」と称してもいます。

 ここまで読んだ人の中には、現代の日本社会でよくあるこんな振る舞いを連想してしまう人も多いでしょう。

例えば、子供のためと塾に通わせ有名校を受験させるけれど、それは結局は親のメンツのためであったとか、愛のムチと称して生徒に体罰を振るう教師、指導と称して部下や新入社員を罵倒する上司。究極は「沖縄に寄り添う」と言いながら、現地が望まない基地の建設と海岸の埋め立てを強行する政府。

甘言を言いつつ「支配したい」欲望を隠すこと。こういった欺瞞の態度がこの社会には溢れています。往々にしてその欺瞞には当事者も気づいていないことが多い。

 日産自動車のゴーン会長の逮捕劇がニュースとなる現在です。創業者の鮎川義介は、かつて満州で事業を行なっていたし、官僚たちともごく近い場所で事業を進めています。いっときはゴーン会長という人間を持ち上げ讃えながら、用済みとなれば足でけるように排除しようとしています。

外国人労働者を受け入れるように入管法が改正され、外国人労働者の受け入れが拡大することになります。実質的には移民でありながら政府は移民とは言わない政府。すでに技能実習生の名目で、多くの外国人が働いているけれど、その賃金が差別的なまでに安価なこと。外国人だけでありません。障がい者の賃金も実習の名の下に不当に低いこと。男女の賃金格差というのもあります。このように甘言を隠れ蓑にした差別的な振る舞いが、いまではは社会のどこでも横行して、庶民にまで浸透してしまっています。

その源流は何か?と考えると、やっぱりかつての官僚たちが満州国で行った統治のやり方が基盤となっているのはないでしょうか?