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社会が見えなくなる(橋本治「たとえ世界が終っても〜」)

たとえ世界が終わっても ──その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)


 橋本治さんの新刊「たとえ世界が終っても〜」を読み終えたところです。
難病を抱えてるという橋本さんの体調もあるのでしょうか、最近の近刊には老いを感じてしまうところもあるのですが、それでもところどころに、鋭い指摘があります。
 書の後半を占める、異なる世代の編集者2人との鼎談形式の文章、1人はバブル期に成人を迎えた世代のかた、ほぼわたしと同世代。もう1人はゼロ年代に成人を迎えた年少の編集者です。橋本さんの繰り出す世相批判の言葉にたいして、年少の編集者は「ちょっとムカつくところがある」と述べます。橋本さんは「なんでムカつくの?あなた自身のことではない、世相批判だよ」と指摘します。そのような指摘をその年少の編集者は新鮮だという。彼の意識にとって、社会と自分が不可分のものとなっていて、だからこそ、世相批判をまるで自分が批判されたかのように感じてしまう。この編集者の思考経路には、わたし自身もおおいに当てはまるふしがあるのでギクッとします。個人としての自分と、自分を取り囲む家庭や仕事先、はては国家とか政府がカテゴライズする「国民」とが、一緒くたになってしまっているのですね。
 橋本さんは、バブル期のあとに日本人の心底から社会が消えてしまったと指摘しています。自分と自分以外の区別がつかなくなる。やれパヨクとか反日とかせっせとTweetする自称愛国者たちを、自分自身と国家を区別できない輩。と批判しても、それは彼らに限ったことではないことに、気を付けなければならないでしょう。それはバブル期以降の現代に生きる日本人にはある程度共通で持っている性格となってしまっているかもしれません。

「いや、わたしは違う」と思っても、毎日を仕事と家庭の往復に費やしている現代人にとっては、仕事と家庭のなかだけが社会のすべて。その社会とか公共に対する見方がとても貧しくなっている。だからこそ、決してネトウヨではない年少の編集者でさえも、橋本さんの述べる世相批判を自分が批判されたように受け取ってしまう。
 清水克行さんの「喧嘩両成敗の誕生」を読むと、中世 室町時代の都市が、個人個人がえんえんと争っている殺伐とした側面を持っていたことがわかります。結局は江戸幕府による管理社会になるまで、そのエスカレートした争いは終わらなかった。個人の心根から公共が失われた社会が行き着く先は、おそるべき管理社会だったり、上下つながりだけで横つながり欠落したような、軍隊社会になるのではないかと不安なりません。

少し怖くなる道(甲州街道を歩く8)

 1月に雪が積もる甲州街道をあるいた後、さすがに笹子峠越えは冬の間は無理だと思って、雪の解けるのを待っていました。4月になれば、たぶん雪も解けているでしょうか、甲州街道の歩きを再開です。この数日の天気予報では、ずっと雨の予報のまま。雨の中を歩くのも仕方ないか。と思いながらの道中です。
f:id:tochgin1029:20170409155343j:image 前回の終わり、JR初狩駅が今回の出発地です。近辺は雨が上がった直後で湿度がものすごい状態です。やっぱり誰も外を歩いている人はいません。このあたりの道中は、トラックがひんぱんに行きかう国道沿いを歩き、あまり落ち着かない道です。白野宿の手前でやっと国道と離れます。静かに歩くことができる旧道からは、バイパスとは違って、生活の匂いを受け取れるような気がします。途中で通り過ぎるのは、どれも小さな集落ばかりですが、集落にはお寺があって、鎮守の森があって、小さな公民館があって、なんていうのはどれも同じ光景。笹子駅の近くまで歩けば、大きな造り酒屋があって直売所も併設しています。帰り近くであれば立ち寄りところですが、先を急ぎます。
f:id:tochgin1029:20170409155302j:image 笹子駅すぎれば峠越えのだらだらとした上り坂がつづきます。バイパスと別れて旧道の山道に入ろうかというところですが、どうやら監視するセンサがあるようで、通り過ぎるたび警告音あ流れます。おそらく通行止めの意味なのでしょうが、特に通行止めを示す看板もなくて、意味がわかりません。しかたなく近くの県道を歩いて登ることにしました。こっちには通行止めのゲートもなっく、そのまま先に進めるようです。ただ、県道の山道は車で登ることが前提なのでしょう。勾配が緩やかなぶん路面は快適ですが、歩いて登るにはまわり道が多くて、余計に歩かされていると思われます。
f:id:tochgin1029:20170409155230j:image 道の途中で通れなかった山道と合流して再び分岐。ここからは山道に入れました。それほど通行止めになるような危険個所はないのですが、雨上がりの曇った天気では、とても眺望は望めません。路面もまわりの木もしっとり濡れています。このあたりで最も有名な観光スポットとされちえる「矢立の杉」はそんな杉林のなかにありました。広重の絵に描かれた杉らしいのですが、杉林の中ではあまり目立たないし、広重の絵の光景とはほど遠い印象です。そのとなりには「矢立の杉」という杉良太郎の歌碑が建てられています。たぶん、信州であれば、観光スポットの隣に杉良太郎の歌碑を建てるようなことはしないだろうなと思います。信州と甲州はともに似たような山がちば土地ですが気質はかなり違うと思います。アカデミックで教育熱心な信州に比べると、どこか甲州は信州に実利重視といった印象を受けます。
f:id:tochgin1029:20170409155203j:image 矢立の杉を越えると、その先は登るにつれ、あたりはどんどん白いもやのかかった視界ゼロの状態です。途中の尾根道では左右のどちらがわも真っ白いもやにかこまれて、そのなかをかき分けながら進みます。その山道が県道と合流すると、近くには旧笹子トンネルがあります。この旧笹子トンネルというのは国の重要文化財にも指定されている旧いものなのですが、このトンネルをネットで検索すると、上位に出てくるのは、やれ幽霊が出るとかいった心霊にまつわる言葉ばかりなのです。実際に白いもやにかこまれて視界ゼロのなかを、笹子トンネルに近づくと、もやのなかからに、なんとうっすらと白い影がみえるのです。観光地でもない山頂近くの旧道に、人などいるわけがないと思いますし、いくら心霊現象を信じない私でもさすがに怖くなりました。
f:id:tochgin1029:20170409155131j:image 至近距離に行けば、それは杞憂でした。どうやら説明書きを熱心に見ているただの人で、こちらは恥ずかしくなりながら挨拶をかわします。笹子トンネルを眺めると、その先は照明もない真っ暗闇が広がっています。反対側に明かりもみえません。トンネルを通れば歩く距離はかせげるでしょうが、恐ろしくてとても通る気にはなれません。トンネルわきの峠へ続く道を選びます。少し登れば峠にはつきましたが、峠といってもとくに見晴らしがよいわけでもありません。まだ先があるのでは?と疑いたくなるほど簡単な標識のわきを、そそくさと通り過ぎます。
 県道に合流すると、「峠道」というのがあるらしく看板をたよりに進みます。このあたり、砂防ダムが多数設置されています。笹子峠で気付いたことですが、このあたりの路面を靴で踏むと、ぐにゃりと足がめりこむように、このあたりの土壌は柔いようです。まわりの山肌を見てもところどころに、砂地がむきだしになった崖を見ることができます。
f:id:tochgin1029:20170409155056j:image ここで、どうやら道に迷ったらしく、どこをどう進んでも行き止まりになってしまいます。途中には「峠道」の看板が落ちたまま放置されている。ガイドブックとコンパスを照らしても一向にわからない(後で気が付きましたがガイドブックの方角が間違っていました)ここで峠道は断念し、県道との合流点までもどり、県道から山を下ることにしました。ここでも、歩道に比べると県道は相当に大回りしています。上り下りを加えるとそうとうに余分な距離を歩いたのではないかと思います。無事に山道を下りて、駒飼宿に付きました。人気のある場所に来たのはほんとうに久しぶりで、朝に比べれば天気も良くなってきて、道に迷った時の不安から解放されたせいもあって、明るい集落の光景には気分がほぐれます。
 山道を過ぎた後は、再び国道沿いを歩く落ち着かない道になります。ですが、山道を下りて視界が広がっていくと、その視界の先には甲府盆地が見えてきます。

 f:id:tochgin1029:20170409154942j:image勝沼の近くまでくると、道のわきには大善寺という寺がありました。この大善寺は、栽培しているぶどうから自家製のワインを作っているらしく、テレビで紹介されたのを見たことがあります。ワインの寺として有名なようです。この大善寺、単に珍しいお寺というだけではなく、そうとうに歴史のある寺のようです。旧い本堂は鎌倉時代に建てられた建物らしく、その中には、なんと奈良時代に制作された本尊がおさめられているそうです(製作者はなんと行基!)隣には、これも旧い鎌倉時代に制作された十二神将が配置されています。これほど中世の雰囲気が残る寺というのも、鎌倉のあたりをのぞけば関東近郊ではめずらしいと思います。お寺の解説では、日本に葡萄が持ち込まれたのも、すでに平安時代には文献に載っているらしく、相当に旧い出来事のようです。お寺でワインを作るのもそう、奇をてらったものではないようです。
f:id:tochgin1029:20170409155012j:image この大善寺から勝沼宿までブドウ園が軒を連ねます。わたしの故郷にもたくさんのブドウ園があるのですが、この勝沼ではブドウ園の看板に書かれているのは「ブドウ園と蔵出しワイン」という文言が多い。さらには通り沿いに「ワイン民宿」なる建物もあって、だんだんと通るだけでワインが飲みたくなってくるような道です。笹子峠を下りるときに、このあたりの土地が脆い砂地であること気が付いたのですが、この脆い土壌はぶどう造りやワイン造りには適していて、だからこそ勝沼でブドウ栽培とワインの製造が盛んになったのだと合点がいきました。
 ほどなく勝沼宿に付きました。本陣には立派な松の木があります。今回の行程はここまで。ですが、ここ勝沼宿のあたりからJRの勝沼ぶどう郷駅までは、意外に遠くてかなり歩かされます。駅には帰りの観光客がたくさん居ます。観光客が目指すのは、ぶどうの丘と呼ばれる観光施設です。この観光施設では、ワインの試飲がいくらでもできるのがいちばんの売りで、帰ってきた観光客の中には、呑みすぎて気持ちが悪くなっている観光客もいれば、千鳥足になっている観光客もいます。「ああワイン飲みたい」とばかり、わたしもワンカップのワインを買い込んで、電車を待つ間に飲んでました。

(気恥ずかしいけれど)愛の二重奏(カーラブレイとスティーブスワロー)

 「愛の二重奏」などといえば、なんとも気恥ずかしい言葉なのですが、
たまたま、YOUTUBEで眺めた、カーラブレイとスティーブスワローのデュエットの動画をみて、その気恥ずかしい言葉がとてもぴったりの演奏のように感じたのです。Carla Bley & Steve Swallow - Live In Concert 1988 - YouTube
ピアノを弾くカーラブレイは、自分自身の手元を見ることは少なくて、スティーブスワローを見ている。あからさまな恋をしている女性の顔ではないけれど、ずっとスティーブを見つめながら演奏している。スティーブスワローも同じくカーラを見つめている。
 カーラブレイが残した演奏やアルバムは少なくて、印象に残ったのは、いつかFMで流れていた、ディナーミュージックというアルバムにおさめされたダイニングアローンと いう曲が印象に残ったくらい。そこではカーラは歌っていて、歌詞の内容は、都会のまんなかの自宅で、ひとりでワインを開ける寂しいディナーの光景を描写したものです。わたしがカーラという音楽家から受けるのは、その歌のイメージが強くて、バンドでの演奏のほうが多い彼女ですが、そのなかでも、彼女はどこか孤独である印象を受けるのです。
 そんな彼女の1回目のパートナーはピアニストのポールブレイで、2回目のパートナーはトランペット奏者のマイケルマントラー。スティーブスワローは3回目のパートナーで、プライベートでも二人はパートナーの関係です。スティーブスワローは、ピックを使いながらエレキベースを弾く、ジャズでは珍しいタイプの奏者で、自身が前面にたつ演奏よりもプロデュースだったりひきたて役といった印象の強いミュージシャンです。
 眺めた画像は1988年のものですが、最近でもすっかり爺婆になった2人が、そろってインタビューを受けている動画を眺めることができ、いまでも良好な関係が続いているようです。

「銀座の恋の物語」のようにデュエットの曲なんていくらでもありますし「見つめ合いながら歌う二人」なんていう動画も、いくらでも見れますが、ここでの、カーラブレイとスティーブスワローのように、まるで「愛の二重奏」といった濃密なものは、ちょっと見たことがないように思うのです。

かんばん方式も回せない

 今週のニュースでは、ヤマト運輸が増大するネット通販の需要に運び手が追いつかず、運賃の値上げやサービスの縮小を行う。というニュースが流れていました。これを日本式のかんばん方式の終わりの始まりととらえている方もいて、なるほどなと思ったのでした。
おもいだせば、かんばん方式というのは限られたリソースを効率的に動かすための仕組みのはずでした。代表例はトヨタ自動車の生産方式で、日本を代表する企業としてトヨタの名が挙げられてくるようになったのは、ちょうどバブル経済が崩壊して、世間がやたらに世知辛くなってきた時代とマッチしていたからだともいえます。意地の悪い言い方をすれば、すくないヒトのリソースをいかに効率よく使い倒すか?という命題です。

団塊の世代がリタイヤした後に、現在の街場に起きはじめていることは、かんばん方式を回すことさえままならなくなるほどに、ヒトのリソースが減ってきていることなのだと思います。ヤマト運輸で起きたことは、その象徴的な出来事なのではないでしょうか?高度経済成長の経済モデルは、すでに50年もまえに終わったことですが、そんな企業社会の構造はそれぞれの企業の「仕事の動かしかた」の中にいまだに残っています。
 日本では、生活保護の申請は恥ずべきことで、失業率の低いことは良しとされる。失業率の高い欧米諸国と比べて失業率の低いことは、とかく誇らしく語られるけれど、本当にそうなのだろうか?とも思います。失業率の低さは、悪い意味で社会における労働力の「ゆとりのなさ」を表しているように思えてなりません。

壁を壊す。壁を作る(NHKBS「ヨーロッパ鉄道の旅」)

関口知宏さんが、世界中の鉄道に乗りながら紹介する番組「BSヨーロッパ鉄道の旅」が好きでよく眺めます。http://www.nhk.or.jp/bs/sekiguchi-tabi/

のですが、前回の放送は、イギリス各地をめぐっていました。いわゆる旅番組の範疇に入るこの番組が、ことさら政治性を語ることはしないけれども、番組に映される現在のイギリスの地方の状況、とりわけアイルランドにはBrexitの影響が表れているように感じました。
 番組でスコットランドから北アイルランドにわたるフェリーの船中では、ロンドンデリーに住んでいるという住民が、プロテスタント系の誇りを話している。そして北アイルランドの中心都市、ベルファストの街中には、大きくて高い壁がそびえます。そして夜になるとゲートが閉められます。プロテスタント系とカトリック系住民を別ける壁だそうです。

 この地でしばらくつづいたプロテスタントカトリックの住民対立は、1990年代になって、やっと和平が成立して収まりましたが、そこで得られた平和というものは、非常に繊細で壊れやすいものであると、対立を生き抜いたホテルマンが語っています。この地でたかい壁は地域を分断するというよりは、プロテスタント系住民の自尊とカトリック系住民の自尊感情が、直接にぶつかるのを防止する緩衝材のような役目を果たしています。
 一方で、イギリスとアイルランドの国境は、現在では両国ともにEUに加盟していることから、非常にゆるいもので、警備所に類する設備も見当たりません。ただし、これも今後のイギリスのEU離脱交渉次第では、ふたたび壁が作られることになるかもしれないのです。この現実を極東の島国の住民には少し呑み込みづらい感覚です。関口さんは付近の住民の家をおとづれ、村の少年たちによる音楽の歓待を受けるのですが、そこで大人の住民がもらした一言がとても気になります。
 そう広大とはいえない、アイルランド島のなかで、北アイルランドアイルランドに国がわかれ、では両者の間にそれほど文化的な違いがあるのか?と問われても、それはないということでした。この言葉にぎくりとしたのは、北アイルランドでの紛争が陰惨なものとなった原因はそこではなかったのかと。それは、一目では誰が味方で敵なのかわからないことを意味します。敵と味方の識別など不可能なのです。対立に囚われた目は、識別できないものを無理やり識別しようとした。そこから陰惨な内戦が始まったように思います。
 経済のグローバル化まで、近代の世界はもっぱら壁を取り払うこと、壁を超えることを是とする価値観でした。けれども、今起きようとしていることは、それとは反対の出来事です。いったん取り払われた壁を再び作ろうとしている。イギリス、特に北アイルランドは、その象徴的な場所です。

平治物語を読む(軍記物のおもしろさ2)

 軍記物の続き、前回に保元物語に続いて読んだのは平治物語平治の乱を取り上げてたはずが、源頼朝の賛美にトーンが変わってしまう摩訶不思議な展開となっています。

 その頼朝賛美をのぞけば、この物語の主題は源義朝の悲哀です。保元の乱では勝利したものの、義朝本人にとってまったく喜ばしい勝利ではなく、兄弟は失い、父親は自らの手できらねばならなかった。その苦々しさが平治の乱の伏線となっています。
 その義朝の動機は一方で、貴族の視点からは、法皇の寵臣の二人、藤原信頼信西の対立から起きたクーデターです。清盛が熊野詣で都を留守にする間に、信頼の企てにのった義朝の軍勢が、あっという間に宮中を占拠する。察知して逃げ生きたまま地中に隠れていた信西(本当か?と思いますが・・)を見つけては首をさらしものにする。首謀者の藤原信頼については、この物語のなかでは、徹底して愚かな人物として描かれています。宮中を占拠した彼らは、やがて、藤原信頼側の武将たち、義朝をはじめとして○○守など官位を乱発していきますが、そういった官位など認めないとする、内裏での藤原光頼の勇気のある行動や、上皇法皇が宮中からの脱出に成功したところから事態は一変し、藤原信頼源義朝は賊軍に変わります。
 源氏方すべてが、藤原信頼に属していたわけではありません。例えば源頼政は官側についています。物語のなかで、義朝と頼政六波羅の合戦で出会います。なぜに平家に味方するのだと、頼政を詰る義朝ですが、なぜ愚か者の企てに加担したのだと頼政に返されて、義朝は返す言葉がありません。敗れた藤原信頼源義朝は、京都を離れ東に逃げることとなりますが、怖気づく信頼のみっともなさを見て、なぜこんな愚か者に加担したのだと義朝は後悔をする。その義朝も家人だったはずの長田父子に裏切られ討たれる。義朝については、戦には慣れていても、どこか思慮の足りなさから身を滅ぼした人物のように描かれています。

 それと対比されるように、物語の後半部は、頼朝の思慮深い行動がつづられていきます。死罪となるはずだった頼朝が、池の禅師の助力を自ら勝ち取りを長らえていくまでの経過。父の義朝を切った長田父子を、なにくわぬ顔で味方に引き入れながら、合戦が終わった後になぶり殺しにする頼朝の思慮深さが称えられ、なぜ源頼朝が、新しい権力者の始祖となった理由づけになっています。
 平治物語が成立した鎌倉幕府のころは幕府の運営も安定したころで、平治物語の世界は保元物語もふくめて絵巻物にもなっています。京都にいる王朝とは異なる、鎌倉幕府という革命政権の世界観が伝わりますが、それがけっして源頼朝ひとりの神格化と繋がっていないところが、後年の徳川家康とは異なるように思うのです。

保元物語を読む(軍記物のおもしろさ1)

 あまり読まれることもなく、かたすみに鎮座しているのが、図書館の中での、古典文学の扱いではないでしょうか。そんななかにある「新日本古典文学大系」という全集ものを読んでは、古文の魅力にはまってしまう。たかだか100年そこらしかない言文一致体による口語文にくらべれば、それ以前の文語体やさらにさかのぼったいろいろな古文の世界は、洗練された表現の積み重ねは、口語文とはまるで比較にならない厚みがあります。うだうだと「自分語り」におちいりがちな口語文とは異なる世界が広がっている。以前の記事でもいくつか書きました。
 ただいま読んでいるのは、鎌倉期に成立したとされる軍記物のひとつ「保元物語」です。「平治物語」「平家物語」「承久記」と合わせて4大軍着ものとまとめられるのは、それが、新しい権力者となった武士階級にとっての、アイデンティティとか建国神話を意味するのだと想像しています。保元物語では、武士たちはまだ権力者に上り詰める前のこと。摂関家や王朝の従者であるばかりに、駆り出され戦わざるを得ない悲哀の世界が描かれています。物語で出色なのは、もちろんさまざまな由来をもつ武者たちの戦いのシーンです。たがいに名乗りながら矢を合わせ、矢が刺さり馬からが崩れ落ちた武者を狙って、鎧のすきまから刀を差しとどめをさす。一騎打ちの戦いはそんなふうに展開していきます。そのひとつの戦いのバリエーションが、武者を変えて繰り返し繰り返し変奏されていくのです。橋本治さんが言うところの、文章がそれ自身でドライブしていくというのはこのことで、繰り返し繰り返される戦いのなかに、戦いの激しさや武者たちの悲哀も、かすかに感じられます。けれど、この古典文学の文体には、自分の内面を語る「わたし」は、現代文のようにはでしゃばってこないのです。
 武者でもないのに鎧にそでを通し、戦によって命をおとすことになった藤原頼長についてもいえることです。いくら、宮廷の儀式に精通し博識であっても、戦に関しては全くの素人だった頼長が、流れ矢にあたる。武者であるならばさっさと自害して果てるところで、我を忘れ半死の状態のまま父の忠実に会いに行く。現代文であれば、その頼長の訪問を拒否する忠実と頼長の葛藤の場面は、饒舌な言葉で語られることでしょう。しかし、ここでは両者ともに「涙した」という言葉でおしまいです。逡巡するような内面はここでは過剰に語られません。
 過剰な「内面語り」のないことは、とても物語の外形上の描写を見通しよくしてくれます。保元物語を読み終えてわかることは、前例のない王朝内部での戦が、政治は知っていても戦をしらない貴族の悲哀と、戦は知っていても政治を知らない武者の悲哀を呼んで、そのあとの歴史を動かしていったということ。古典文学の描写は、そんなスケールの大きな物語を簡潔に描写してくれるように思えます。