「湘南」に実体はあった【大磯限定】(東海道を歩く5)


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 平塚宿まで到達した東海道ですが、「湘南」というこの地域を称する漠然とした名称がこの地域の現実の生活を見えにくくしていると感じました。けれども先入観ぬきなら平塚の街は、旧めかしい金物屋の看板建築が残り、これまた1時代前のアーケードの作りなどを眺めるのも面白いものです。ただ旧いだけなら甲州街道の八王子などと変わらないのですが、養蚕や織物といった地場産業の名残が平塚にはないことが違うようです。ただ、この街はどのようにして成り立ったのか?というのはよくわからないです。
 平塚の駅をおりて市街地を歩き始めると、前回の終わり古めかしい公共施設と公民館にたどり着きます。市街地を歩いている間、目の前にはずっとひとつの山が見えます。

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川を渡り、化粧坂という坂のあたりで国道から離れます。坂と呼びながらあまり傾斜がないように沿道はは、松林が点々としています。東海道の線路をくぐれば大磯宿に到着します。なんだかあっという間です。
 大磯という街には、吉田茂やら伊藤博文とかかつての著名人の別荘が立っていました。島崎藤村の旧家もこの地にあります。この地になぜ別荘を建てるのか?と考えたら、街中には「湘南発祥の地」という碑がありました。
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この地のあたり、西行法師が中国の風光明媚な地に似ていることから名付けたそうです。もちろん西行法師自身に中国への渡航歴はなく「似ている」という彼の気持ちは、旧い文献や絵画から得た教養から来るものだったはずで、ではそれが本当に中国の湘南と似ているのか?はわかりまません。ただし、明治以降の著名人がこの地に別荘を作ったことの選択の理由には、風光明媚な風景だけではなくて、この西行法師が名付けた「湘南」という地名に関係があったのだと思います。大磯では「湘南」いう地名はそれなりに現実の地域の伝統となっていました。

 ただし平塚や茅ヶ崎、藤沢まで「湘南」と称するのは違うようです。形容するならマンションや建て売り住宅のチラシのようなものかもしれません。駅から数十分もバスに乗ってたどり着く建物なのに、建物には遠い最寄り駅の名が冠せられているみたいな感じ…ここまで歩いて「湘南」についての疑問がやっと瓦解しました。
 大磯の街を過ぎると、ここでも山が迫ってきます。城山公園という県立公園となっているあたりを過ぎると沿道にはまたまた松林が点々と広がっています。松林を過ぎれば再び国道1号と合流します。その沿道には六所神社があります。休憩がてら立ち寄ります。
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 まだまだ初もうで参拝の客が訪れていますが、三が日の賑わいも過ぎてほどほどの賑わいです。神社のなかには、最近になって、参拝の作法やら○○奉祝やら、とかく仰々しい様子の神社も多くて、そういった窮屈さは正直なところわたしは嫌いです。けれどもこの神社では、そういった仰々しさは境内になくて親しみやすい境内です。簡単な参拝をしたり甘酒を飲んだりしのんびりとしました。
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 二宮までそのまま国道1号沿いの道を進みます。一度だけ二宮の海水浴場に海水浴に行ったことがありました。そこは海の家もないこじんまりした海水浴場でした。このあたりの傾斜の多い地形から来るものか?水が冷たくて、引き波が強く海に引き込まれる感じがして、二宮の海が少し怖かったことを覚えています。市街地を過ぎて国道から旧道に離れれば、醤油店などが建つようなふるめかしい通りを過ぎればアップダウンの急な坂道を降りて国道と再び合流、左手に海が見えます。
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 海がよく見えるのは東海道では日本橋から歩き続けここが始めてです。「東海道」名付けられるくらいですから、かつては街道沿いから海がよく見えたことでしょう。けれども、現代の東海道はここまで歩かないと海が見えないくらい、都市化がすすんだということなのでしょう。途中にはJR国府津駅があります。名の通りかつての相模国の中心に近い場所で、車両基地が隣接して規模の大きい駅のはずですが、駅前には商店街もなく、驚くほど静かです。さらに国道沿いをあるくと、ここでも松林が点在します。
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 酒匂川を渡るあたり、今回も富士山はよく見えませんが、だんだんと箱根の山が迫ってくるのが相模川の景色と違うようです。渡った先はすでに小田原の市街地に入っていて、すこしばかり歩けば小田原宿に到着します。
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国道から離れた道はかまぼこ通りと名付けられ、通り沿いには、立派な店先をのかまぼこ店が立ち並んでいます。ただし、正月明けのお腹にかまぼこはちょっと食傷ぎみで、立ち寄らずそのまま通り過ぎます。明治天皇の在所跡がある本陣跡で、今回の歩きはここまでで終わり。薄暗くなった小田原城を横に眺めながら駅に向かいます。次はいよいよ箱根越えです。きつい山道でしょうが、たぶん東海道歩きのだいご味が感じられるでしょう。

「湘南」には実体がない(東海道を歩く(その4)

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 戸塚宿までの東海道は、思ったよりも平らな地形のところが少なく、細かな上り下りの道の多いことが印象に残っています。けれども、あまりにも都市化が進みすぎていて、その土地その土地の個性が掴みとりづらいなと感じています。今回の歩きは戸塚宿から始めます。歩道橋だらけの戸塚駅から地上に降りて、再び歩き始めます。  

 前回は暗くてわからなかった本陣跡も、今度は見つけることができました。戸塚の街の光景は、今度は、はっきりと眺めることができます。このあたりの東海道は、立派なバイパス道と化していて、ともかく通行する自動車の音がけたたましい場所です。かつての宿場を外れるころには、大坂とよばれる坂の上りが始まります。途中には庚申塚があります。

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登り切った先の場所は、ほんとうならとても眺めの良い場所のはずなのですが、マンションが建っていて、残念ながら視界はさえぎられています。遠くに富士山も見えるのですが、こんどは建設現場の仕切りがさえぎっていてこちらも写真にはうまく収まりません。となりのバイパス道はいっそう道幅も広くなり、自動車の通行量もさらに増えています。そんな中で、いくつかのランニンググループと遭遇しました。この日は年末で、新春の箱根駅伝もまもなく始まろうかという頃です。そんなことも相まって、東海道を走ろうとする人々も多いのではないでしょうか。


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 そんな殺風景なバイパス道と離れ、道は下り坂に変わります。下り坂を下りきったところで遊行寺に到着します。鎌倉時代の僧、一遍が開いたとされるこの寺は国宝の「一遍上人聖絵」を見るため、何回かおとづれたことがある場所です。この「一遍上人聖絵」では、高貴な姿の人もみすぼらしい姿の人が描かれていて、ライブハウスさながらのように人々が踊る姿も印象的な絵です。この絵で描かれたように、この寺の境内にはどこか、多彩な人を受け入れるような親しみやすい雰囲気があって、とても好きな場所です。その遊行寺の近くが藤沢宿の始まりです。


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 他の宿場の例にもれず、藤沢宿も旧い建物があまり残っていない静かな商店街です。けれど、ほどほど狭い通りと、通りに面した建物の連なりが、かつての旧宿場町の風情を残していて、駅前の繁華街の賑わいからは想像できない旧宿場町の風情です。
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しばらく歩くと、街道のわきに、義経の首洗井戸とよばれる史跡が残っています。なんの変哲もない住宅地がつづくなかで、とりわけ源氏にまつわる史跡が多く残っているのが、この地域の特徴化もしれません。小田急線と比べて東海道は高い位置に面しています。線路とは踏切ではなく陸橋で交差します。このあたりで昼飯とします。はいった中華食堂は、ごく近所の人がおとづれるようなアットホームな食堂で、なじみの客と店員が世間話をしています。右手には小高い丘が点々としていて、左手には住宅地が連なっています。どこかとりとめのない景色ですが、それなりにぽつぽつと史跡は残っています。
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道路沿いには、おしゃれ地蔵という名の小さな地蔵がありました。女性の願いをかなえるというこの地蔵は、顔の口のあたりが赤い紅で赤く塗られています。そして、さらに進んだ先の交差点ちかくには、大山道との追分がありました。そして東海道は藤沢から茅ヶ崎の街に入ります。

 茅ケ崎といえば湘南というイメージが強いせいか、世間的には茅ケ崎は海の街というイメージがあるかもしれません。しかし、東海道を歩いた限りでは、茅ケ崎の街にはあまり「海」の匂いはありませんでした。このあたり起伏の多い地形で、旧道が通るあたりも海抜は10mを超えています。ところが夏に歩いた日光街道の杉戸や幸手といった場所では海抜はせいぜい3m程度です。東海道を歩いている限り、茅ケ崎という街は、あまりはっきりとした特徴がないぼんやりとした街だなと思いました。


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 ぼんやりとした住宅地は、ずっと相模川を渡るところまで続いています。川をわたる橋からの眺めでは、富士山の姿もおおきく見えるようになってきます。けれども、この場所では、どちらかといえば主役は大山のほうでした。上野の国なら上毛三山利根川という組み合わせ、下野の国なら日光連山や那須岳と鬼怒川といった組み合わせのように、それぞれの国には特徴のある山と川の組み合わせが必ずあるように思います。その組み合わせは、相模の国だと大山と相模川の組み合わせになるようです。川を渡ったところの河原には、渡し場跡の碑があるらしいとガイドブックに書かれていましたが、さっぱり見つかりませんでした。石碑を探しているうちに道がなくなり焦ります。あわてて河原の草むらの中をかき分け道路に戻ります。


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 橋を渡った時点で、すでに平塚の市街地に入っています。茅ケ崎とはことなり、平塚の市街地は、まっ平らな場所に面しています。年末ともあって街は静かで、あまり活気はありませんでした。東海道駅前通りと交差するように街を縦断しています。藤沢や茅ケ崎と比べ、平塚の商店街には旧い建物が多く残っていました。まだ現役で商いを営んでいる金物屋がぽつぽつと残っています。復元された江戸見付の近くには、市民センターとよばれる公共施設があり、これも相当に旧い建物です。

 今回の歩きは平塚までです。これまで歩いた中山道甲州道、日光道、奥州道では、宿場町や街道周辺の地形や景色といった情報がまとまって、街それぞれの特徴というものを掴みとっていたのですが、今回の東海道歩きでは、まだそういった独特の雰囲気というものが薄いようにも思います。とりわけこの湘南とよばれるこの地域はつるんとしていて、とらえどころのない場所のように感じています。あまりにも「湘南」というイメージ先行の地域名には実体がなくて、むしろ藤沢茅ヶ崎平塚といったそれぞれの地域の歴史や由来とかいったものを切断してしまったように思います。

 東海道といいながら、まだ視界の中に海が飛び込んでくることがありません。次の小田原までの行程で、こんどこそ出会えるのではないかと期待することにします。

おためごかし(「キメラー満州国の肖像」山室信一)

キメラ―満洲国の肖像 (中公新書)


 韓国の民主化運動についての、二つの韓国映画「タクシー運転手が」「1987ある闘いの真実」を見たときに、そこで描かれている独裁政権ありさまが、とても日帝に似ているなと思ったのです。独裁政権といいながらも、たとえば全斗換はヒトラーのようなシンボルではないし、政権側の人間が、どれも権力者の威光を梃子にしつつ、実は自分の権力欲を満たしていくありさまが、恐ろしいなと思ったのです。それは、かつての大日本帝国の官僚たちが、権力者の威光を梃子にした「システム」によって国内の統制を進めていったことに似ているな?とも連想したのです。

いつも何気に眺めている Tweet のやり取りを見て、日韓ふたつの政権をつなぐ共通の橋があったことに気づかされました。それは満州国です。若い日の朴正煕は、満州の軍隊学校にて過ごし、帝国軍のもとで軍人としてのキャリアを始めています。また、岸信介だけでなく、戦後政治家のおおくは満州での赴任経験をもちます。

 ざっくりと、満州国の概要をつかみたいなと思いつかんだ本は山室信一さんの「キメラー満州国の肖像」という新書です。読後に思ったことは、大げさに言って、いまの日本社会で繰り広げられている欺瞞的なやり取りが、あらかた満州国での日本人たちのふるまいに源流があるとさえ思ってしまうほど、そっくりという印象をもったのです。

 満州国のあった場所は、もともと女真族清王朝を建国した場所です。彼らはこの地を神聖な地として他民族には触れさせないし、他民族の移住を認めていませんでした。けれど、そうしているうちこの地はすっかり荒廃してしまいました。そこから漢民族の移住が始まります。日本は、日露戦争に勝利し朝鮮を併合し、第一次世界大戦に参戦し、ドイツでの中国大陸の利権を奪うところからこの地にかかわるようになります。満鉄が設立され、次第に国策会社の色彩を帯びてくる。関東軍はその満鉄の運行を守るための組織でした。

 満州国ができるまでのこの地は、ロシア、清、そして朝鮮を併合した日本が、それぞれ権益を持つ地でした。清〜中華民国へと変わっても、実際にこの地を治めているのは、この地を拠点にする軍閥です。日本は満鉄を通じて軍閥とかかわり、利益を得ていました。

それが、傀儡国を創るという行動に変わったのは、第一次世界大戦が契機になっています。国家同士がヒトカネモノを注ぎ込んで戦争を行う「総力戦」という概念が軍隊の上層部に持ち込まれます。その代表は、石原莞爾の「最終戦争論」です、アジアの盟主である日本とアメリとの最終戦争は避けられない。だからこそアジアが結集すべきで、アジアの盟主である日本が満州の血を支配するのは当然と考えていました。

 3000万の国民のうち日本人はわずか3%しかいません。当初は直接の占領を考えていた石原も、独立国を通じた支配という考えに傾きます。やりたいことは支配であるのが明らかなくせに、この満州国では、五族協和という建国の理念が語られ、日本人と他の民族は平等であるとされていました。

けれど、現実は全く違うものでした。満州を取り仕切っていたのは、日本から派遣されてきた官僚たちでした。かれらは日本の省庁から出向のような形でやってくる。中国人官僚たちはいるけれど決定権はない。日本人はあからさまに中国人を蔑視します。賃金も日本人と比べ他民族の賃金は低いままでした。五族の扱いを平等にと考える石原莞爾のような人間は良心的であっても、そもそも日本人が多民族を支配するのは「日本人が優秀だから」という理由にて当然視されています。彼だけではなくて五族協和を語る同じ人間の口から、日本人が他民族よりも優遇されて当然との言葉が語られます。

満州国では、傀儡国の疑惑隠しのためか、清王朝最後の皇帝溥儀が迎え入れられました、彼には清の再興という夢がありましたが、なにも実権がないことに気がつきます。せめて自分を天皇と同じような立場に擬そうとしたけれど、それすらなれないことに気が付いて、処世のためでしょうか、天皇制の構造を受け入れていきます。日本人と中国人との間には差別的な構造が横たわっています。地方では父親が徴用され、あとに残された子供たちが極寒の満州で裸同然で暮らしていたそうです。その一方で特権階級の日本人たちは都会的な暮らしを満喫しています。

 戦後、往時を懐かしむ当時の官僚たちは「満州はフロンティア精神の場」であったと語っています。かつて満州国のあった地域は、現代の中国の重工業地帯ととなり、そのことで日本がさも善政をしいたのだと評価する向きもありますが、とんでもないことです。その当時の中国人官僚たちは、ただロボットのように仕事をしていたことが述べられています。

このように甘言を繰り出しつつ、現実にやっていることは甘言とは真逆の差別的な扱いで、こういった振る舞いがいかに住民を傷つけ罪深いかは、末尾に岩室さんが付記という形式で、質問に答えています。

 「あなたと私は対等であり、わたしこそあなたのために犠牲となって尽くしているのだと公言し、自ら信じて疑わない人が、実は相手の意思や希望を踏みにじっているにもかかわらず、それに気づこうとさえしないことほど、相手に苦痛を与える配信的行為はないのではないでしょうか。」
と。このことを「自意識過剰」という言葉とともに、山室さんは「他人に対する無意識過剰」と称してもいます。

 ここまで読んだ人の中には、現代の日本社会でよくあるこんな振る舞いを連想してしまう人も多いでしょう。

例えば、子供のためと塾に通わせ有名校を受験させるけれど、それは結局は親のメンツのためであったとか、愛のムチと称して生徒に体罰を振るう教師、指導と称して部下や新入社員を罵倒する上司。究極は「沖縄に寄り添う」と言いながら、現地が望まない基地の建設と海岸の埋め立てを強行する政府。

甘言を言いつつ「支配したい」欲望を隠すこと。こういった欺瞞の態度がこの社会には溢れています。往々にしてその欺瞞には当事者も気づいていないことが多い。

 日産自動車のゴーン会長の逮捕劇がニュースとなる現在です。創業者の鮎川義介は、かつて満州で事業を行なっていたし、官僚たちともごく近い場所で事業を進めています。いっときはゴーン会長という人間を持ち上げ讃えながら、用済みとなれば足でけるように排除しようとしています。

外国人労働者を受け入れるように入管法が改正され、外国人労働者の受け入れが拡大することになります。実質的には移民でありながら政府は移民とは言わない政府。すでに技能実習生の名目で、多くの外国人が働いているけれど、その賃金が差別的なまでに安価なこと。外国人だけでありません。障がい者の賃金も実習の名の下に不当に低いこと。男女の賃金格差というのもあります。このように甘言を隠れ蓑にした差別的な振る舞いが、いまではは社会のどこでも横行して、庶民にまで浸透してしまっています。

その源流は何か?と考えると、やっぱりかつての官僚たちが満州国で行った統治のやり方が基盤となっているのはないでしょうか?

街はずれの坂道(東海道を歩く(その3))

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東海道を歩いてみる景色は、あたりまえなのですが、やはり中山道とも違うし、甲州街道とも違います。いまでこそ海岸線は遠いけれども、往時の東海道がとても海の近くを通っていることがよくわかります。神奈川宿があった場所も、いまでは海岸線は遠いけれど、かっては海のすぐ近くに面していたことがよくわかります。
 横浜駅から急な階段を上り、前回に歩き終わった場所を目指します。横浜駅近くでは歩く人たちも多いけれど、階段を上ると別世界、静かな住宅地に変わります。
 横浜駅の近くとはいえ、まったくの住宅街には、コンビニらしき建物も少ない。埋め立てによって作られた平らな場所に市街地や繁華街が形成され、後背地の丘陵地や台地に住宅地が広がっているのが、基本的な横浜の街の構造です。東海道が通るのはその狭間。左手に市街地(昔は海岸)を眺め、右手には台地の上のたつ住宅街を眺め、という行程。途中の浅間下の交差点では道に迷いますが、道が細くなり台地を上り始めてしまったところで間違いに気が付きます。なにしろ開国と文明開化が横浜の発展の源ですから、横浜では、東海道と旧街道の存在感はあまりにも薄い。
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 しばらく歩くと、にぎやかな商店街が現れます。ちょうど時間を区切って歩行者天国にしているようで、路上にも平台を並べて店が連なっています。多くの客でにぎわっています。昼飯を食べていないので食事にします。一軒の食堂に入ります。店に入ると、近所の老人たちが話し込んでいます。店内にはご当地の演歌歌手の写真がびっしりと。ラーメンしかないはずの食堂のメニュー。ラーメンを注文し食べている私のわきで、店主が「オムライス」とか「とんかつ定食」とかメニューに存在しない料理をほいほい受けている、不思議な?お店でした。すこし歩けば、目の前に相鉄線の高架が現れます。天王町の駅です。高架下をくぐると、保土ヶ谷の宿場に近づいてきます。

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 保土ヶ谷の宿場は、一見では単なる駅前商店街という風情ですなのですが、かっての宿場町はそれよりも大きく長く伸びています。そこそこにぎわう駅前の通りを進むと、東海道線の踏切に当たります。この踏切のわきに焼き鳥屋があって、常に白い煙が漂っています。その突き当たり、今の国道1号とぶつかった場所に本陣やら問屋場跡といった案内板が現れます。
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このあたりの景色は、もこっとした丘陵がそこかしこにあって、その丘陵の上を住宅がびっしりと立っているののを仰ぎ見るような景色です。国道沿いを進むと、左手に川が流れ、その先に神社があって、山裾には地蔵がぽつんと鎮座しています。鎌倉にも程近いこのあたりは、どこか中世の雰囲気を残しているように想像してしまいます。国道と別れて
権太坂に差し掛かります。
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この権太坂は、日本橋を出てはじめてあらわれる坂だということです。箱根駅伝でとりわけ有名な坂の名前ですが、駅伝が通過する権太坂とは、この権太坂とは異なる場所で、この道を駅伝選手が走るわけではありません。もちろん、坂のきつさはあちらの権太坂とまったくかわりません。権太坂をのぼり切った先もいまでは変哲ない住宅街ですが、遠くに町並みが見えたり山が見えたりと、さすがに眺めはとても良い場所です。この道中の坂はここだけではなくて、焼餅坂、品濃坂と続きます
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ただ、このように名付けられた坂は、たとえば都内の○○坂といった地名のようには、親しまれているようではないみたいです。案内板こそあれど、旧道はひたすら街はずれをこっそりと通っています。右手には、東戸塚の駅前の高層マンションや、ショッピングビルがそびえていて、近隣住民の生活空間はむしろそっちのほう。旧東海道はそういった住民の日常からは弾き飛ばされています。
 坂をおりるとその先は、わりかし平らな通り沿いを歩きます。住宅と工場や商店、奥には雑木林も少し残るっています。そんな殺風景な通りを延々と。そして、やっと吉田大橋とぶつかり、川を渡り戸塚の街に入っていきます。
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 戸塚の街は、再開発ビルが並び巨大な建築物が並んでいます。やがて道は東海道線とぶつかり、道路は途切れています。歩行者は、その上を歩道橋をわたって反対側に渡れるようになっています。歩道橋のたもとには、記念の案内板があります。かつてここには「戸塚の大踏切」とよばれた開かずの踏切がありました。大磯に自宅を持つ吉田茂が都内に向かう際に、この踏切が開かないので、待たされた吉田がイライラしたという曰くのある踏切です。
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 戸塚駅につながるこの歩道橋群は、かなり規模の大きなもので、あちらこちらに連なっています。どうやら駅前に本陣跡があるはずなのですが、けっきょくわからずじまい。今日の歩きはここまでにします。
 神奈川県の県民性は、どちらというと個人主義的でドライな印象があって、知人の神奈川県民にも同じような印象を持っています。過去を振り返るよりは現在なのか?あまり旧跡に出会うことの少ない道中でした。

周縁と境界の道(東海道を歩く(その2))

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 歩き始めた東海道は、品川宿のあたりも旧跡がたくさん残る場所でした。江戸という町はそれぞれが木戸で仕切られた管理社会です。その江戸から外れた地だからこそ、町内では憚れるとされたことも、おおっぴらに行えたことでしょう。

 鈴ヶ森の刑場跡から本日の歩きを始めます。最初は第一京浜沿いを歩き、途中でわき道にそれると、美原通りという通りに出ます。かつての海苔養殖のなごりでしょうか、商店街のなかにぽつぽつと海苔問屋が数件残っています。平和島大森町、梅屋敷と、京急の高架線を休みなく電車が通り過ぎていきます。そして駅前には、どこにもほどほどにぎわっている商店街があります。そのうちのひとつ梅屋敷駅の商店街にある食堂で食事をとります。
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 このあたりは自分にとって、かつて暮らしたことがあるなじみの場所です。インターネットといった、ひまつぶしの道具もない時代に、ひとり暮らしの気楽さと淋しさを存分に味わった場所です。こういった商店街の賑やかさと人の温度によって時々、寂しさから幾度か救われていたことを思い出します。

 その先、京急蒲田のあたりもなじみの場所だったはずですが、往時とはすっかり違う景色に変わってしまいました。かつての京急蒲田駅は、空港線を3両の電車がいったりきたりするだけで、その都度、第一京浜の踏切では、遮断機が手動で上げ下ろしされていました。どこかのどかだった光景は、いまでは巨大な高架橋とともに電車が空中を抜けていきます。駅と高架橋はまるで要塞のようで、人工的な空間が広がる場所に変わってしまいました。

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蒲田を過ぎたあたりから高い建物はなくなり低層の住宅が延々と立ち並ぶ景色に変わります。高層の建てもので視界が切り取られることもなく、広い空を眺めることができます。蒲田付近よりも、こちらの景色の方が昔からかわっていない。のんびりとしています。ちょうど六郷神社では、幼稚園の帰宅時間とぶつかって、たくさんの園児たちが境内をはしりまわっています。生活感のあふれる光景は、今回の歩きで初めて遭遇しました。


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 六郷橋を渡ると、多摩川の河原にはところどころテントの家屋が建っています。なかには、まるで豪邸のような小屋もあります。その多摩川を渡りきると川崎宿に到着です。川崎にはいろんな旧跡があって、地元でも親切な案内が掲げられていますが、いかんせんそこは街のなか、探しても探しても半分の旧跡は見つかりませんでした。川崎の街中は、さすがに人々がたくさん行きかっています。本陣跡がのこるあたりを過ぎれば、その先は商店街、さらにそれを過ぎると庶民的な食堂や歓楽街に変わります。そのほとんどは雑居ビルに変わっているので、旧い建物はまったく残っていないし、宿場町の風情を求めるのはそもそも無理なようです。


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 川崎の街外れでは、地上に降りた京急線とぶつかります。その場所に八丁畷駅があり、駅のわきには無縁仏を供養した石碑があります。この場所はちょうど川崎宿の外れの位置に当たります。この付近からは、江戸時代のものと思われる人骨がたくさん発掘されたそうです。低地であるこの地では水害も多発したでしょうし、犠牲も多かったことでしょう。行き倒れた人々もいたでしょう。泉岳寺、鈴ヶ森刑場、そしてこの八丁畷。徳川の260年の秩序の矛盾は、こういった境界地域で目立たぬように処理されていて、多くの人は気がつかない。

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住宅街を進むと、この先に鶴見市場駅があります。このあたりがかつて市場村とよばれていたからであって、鶴見市場という名前の市場があるわけではないようです。鶴見川を渡れば、鶴見の街へ入ります。

 鶴見の街は、旧跡に見るべきものは少なくて、それよりは、庶民的な街の雰囲気を楽しみながら進むほうが良いようです。鶴見の街を抜けたあたりに国道駅があります。この薄暗い高架下は、薄暗い闇が魅力的な不思議な空間です。形容するなら、谷崎潤一郎の「陰影礼讚」で述べられているような陰影の魅力でしょう。駅を過ぎれば、住所はすでに生麦となっています。


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 生麦は、幕末の薩摩藩士が英国人を殺傷した生麦事件で有名な場所で、開国のあと、排外的な雰囲気も漂う時代の頃でした、当時、欧米と結んだ条約は、歴史の授業では不平等条約とされ、明治政府が克服すべき目標とされていましたが、欧米人の目線になれば、往時の日本国内で彼らの安全が保証されていたわけでもなく、彼らの身を守るには必要な条約だったかも知れません。もっともこのあたり、隣は首都高の高架と巨大なキリンビールの工場が鎮座してとても殺風景な場所ですが・・・。


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 第一京浜に合流した先は、広い道路のわきを歩くばかりとなります。新子安や神奈川新町のあたりに、街道風情はみじんもありません。神奈川宿の位置もわかりずらく、高札場跡を眺めても本陣跡を眺めても、ほんとにそこが宿の中心なのか?というくらい、宿場町の気配がありません。第一京浜を離れれば、やっと宿場風情がかすかに残る道中に変わります。洲崎大神を過ぎ、京急神奈川駅やJR線を超えた坂道のあたりがかっての神奈川宿の中心なのでしょう。途中には、数年前まで地上を走っていた東急東横線の線路跡が遊歩道として残っています。すぐ先はトンネルになっていて、この暗闇も、それは魅力的に見えるのですが、ともかく先に進みます。


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関門跡までで今日の歩きはおしまい。

横浜が開港して、東海道は東京と横浜を結ぶ重要な道ともなりました。だから、このあたりの旧跡は多くが幕末に由来するものです。このあたり、崖の下はかっては海だった場所で、さぞかし見晴らしが良かったと想像するのですが、いまはビルばかりなにもみえません。恐ろしく急な階段で崖を降りると、横浜駅はあっという間です。

楽しい街道歩き(東海道を歩く(その1))


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 久しく、歩いていませんでした。関東あたりの道歩きがつづいたせいか、道歩き当初の新鮮な楽しさが薄れたかもしれません。

 ただしその間、体重計の数値は上がっぱなしで、定期的に通院している医院では、運動をと言われる始末。そういえばおなか周りもなんとなく・・・なんていうわけで、街道歩きを再開です。

 関東近郊もいいけれど、ただ見知らぬ土地、ただ見知らぬ景色の中を歩きたいと思いました。5街道だとまだ歩いていないのは東海道ですから、今度あるくのは東海道で決定。もちろん行き先は日本橋


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 この日、東京駅で降りて日本橋に向かう道は、すでに観光客だらけでした。昔なら百貨店のいくつもの紙袋を抱えた買い物客がいきかうのが日本橋の光景だったでしょうが、いまの日本橋なら主役は訪日観光客と、仕事はリタイアしたような高齢者カップルで、買い物よりは美味しいものを食べたり、そぞろ歩きをしたりして過ごすのが目的です。いつも仕事で訪れる界隈も、つぎつぎと新しいビルが建ち風景が一変したことに、いまさらながら気が付きます。ビルに老舗がテナントとして入居して、かろうじて日本橋らしさを演出しています。


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 銀座の交差点も同じように様変わりしています。有名ブランドのビルが軒を連ねていて、そのせいか日本橋界わいにくらべ意匠を強く打ち出した建物が多いようです。クライアント好みの意匠が壁面すべてに展開された建築物は、眺めるとどこか気持ち悪さを感じるのが正直な印象です。技術の進化によって、建築家やデザイナーが頭に描くイメージを、忠実に建物に再現できるようになったのかもしれませんが、それゆえに、他人の脳内を無理やり見せられている感じ、気持ち悪さの正体はそんなところかもしれません。


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 さらに進むと、汐留あたりで途中の道端には再現された旧新橋停車場がありました。後ろには電通本社ほか汐留のビル群がそびえています。猛烈な勢いでオフィスビルが建ち都心の風景が一変したことの象徴の光景に思いました。

 新橋へ田町へと進みます。都心のようなビルの建築ラッシュはありませんが、どの駅前も、なにかしら新しいビルが建っています。


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 田町駅の近くでは、道脇に西郷隆盛勝海舟江戸開城の談義をしたという場所の石碑が残っていました。このあたりはかって、大木戸とよばれる江戸の町内と外を隔てる門があり石垣も残っています。江戸城を目指す薩長軍が、東海道をつたって江戸の町に入るなら、たしかに、江戸と周囲を隔てる境界のような場所にあたるようで、その先には四十七士が葬られた泉岳寺があります。47士の墓地としてあまりにも有名なお寺ですが、ふと気が付けば見たこともありませんでした。どんなものかと見に行くことにします。


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 こぎれいに整えられた境内の中は、多くもなく少なくもなくといったほどほどの参拝客ですが、ここでは、こぎれいな本堂より義士の墓のほうが目立っています。墓地に入り、線香を購入してから47義士の墓参りをします。主君浅野内匠頭の墓も加わって、ここでの墓碑の総数は50を越える数です。そのすべての墓前に線香を揃えていくのは、実はけっこうしんどくて、体力を使うものだと思いました。途中には「首洗いの井戸」という、吉良上野介の首をあらったとされている井戸があります。元禄時代では、仇討という行為は、そもそもありえない行為になっていました。身に降りかかった損害を、自力で取りかえすという行為は、まだ「徳川の平和」が実現された管理社会になっていない中世的な紛争解決の方法で、47士が行った自力救済という手段は、その意味で天下を揺るがす大事件だったというわけです。

 泉岳寺からは、すこし歩けば、品川駅付近に到達します。学生の頃は、このあたりでアルバイトをした場所でした。そのころは、品川駅はただの乗換駅に過ぎず、巨大なホテル群のほか、これという繁華街でもない町でした。その当時に比べれば、いまや駅前の交通量は、何倍にも膨らんでいます。反面で、アルバイトをしていたころのあか抜けない、のんびりとした雰囲気は、この界隈からはなくなってしまいました。そのころ働いていた店はもうすでに無くなってしまい、そのころ一緒に働いていた人たちもこの場所にはいません。彼らは今ごろどうしているのか?当時が懐かしくなる場所です。


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 さらに進むと、新八ツ山橋へと進みます。京浜急行の踏切があり、とぎれなく電車が通過していきます。朝ラッシュでもないのに、ここは開かずの踏切で、まったく渡ることができません。その踏切を通過したあたりから、かつての品川宿が始まります。かつての東海道は、ここではそのまま地域の生活道路に変わっていて、かつての宿場町もそのまま生活に密着した商店街に変わっています。このあたり、左手をながめると土地が一段低くなっています。広重の版画では、この品川宿は海岸沿いに延びて描かれているので、その一段低くなった先は、かつては海がひろがっていたのだと想像できます。反対に右手を眺めると、一段高い段丘になっています。いわゆる高級住宅街が広がっています。かつてはこの段丘の上は大名屋敷だったそうです。休憩所の方が教えてくれました。このあたりは、韓国料理店が点在しています。昼飯はそのうちの1件に入りました。韓国料理にしては、あっさりとした味なのは、たしかに家庭料理風です。となりの客は、参鶏湯を食べたところ、効能で一週間元気で過ごしたと話しています。思わず参鶏湯が食べたくなります。
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旧宿場をさらに進むと「品川寺」という寺がありました。ここには、巨大な地蔵菩薩が鎮座しています。お寺そのものも由緒のあるお寺のようで、建物の中では一般の人たちが写経?をしていました。立合川のあたりは、どうやら坂本竜馬にゆかりのある土地のようです。駅の近くには立派な竜馬の銅像がありました。
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西郷勝海舟の談話といい、江戸の大木戸や、47士の泉岳寺、この場所は江戸の町と外を隔てる境界の場所だからこそ、竜馬のような素性の定まらない浪人がうろうろ活動できた、うってつけの場所だったのかもしれません。反対に、江戸末期の当時に来日した欧米人にとっては、品川は危険な場所であまり通りたくない場所だったと、訪日の記録には書かれています。立会川を過ぎればにぎわっていた旧道沿いも、次第に殺風景になっていきます。そして、第一京浜と合流します。その旧東海道がぶつかるあたりに、かつての鈴ヶ森の刑場跡が残っています。このような刑場という施設は、境界に置かれる施設の代表で、このあたりが当時に江戸と外を隔てる境界のような場所として意識されていたことを示しています。


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 今日の歩きはここまでです。もう少し先まで歩くつもりでしたが、思いのほかこの品川宿かいわいは旧跡が多く、街道歩きの楽しみをたくさん感じられる場所で、この先の川崎宿、さらに神奈川宿保土ヶ谷宿も期待が膨らみます。

内面は譲り渡さない(映画「1987ある闘いの真実」)

『1987、ある闘いの真実』2018年9月8日(土)シネマート新宿他、全国順次ロードショー!

「1987ある闘いの真実」という韓国映画を見ました。この前に光州事件をとりあげた「タクシー運転手」は、ふだん映画を見ないわたしにとって、とても衝撃をうけた映画でした。

軍隊が自国民にたいして銃口を向け発射すること。しかもそれがたかだか30-40年ほど前まで隣国で行われていた出来事だということに衝撃をうけました。最近でも、朴政権を弾劾し、あらためて文大統領を選びなおした、韓国民衆のデモクラシーの根っこはなんだろうとも思ったのです。
 「タクシー運転手」では、義に目覚めていくタクシー運転手の心理が中心でしたが、こちらの映画では、むしろ映画での悪役である独裁政権側のありかたが、詳しく描かれていました。主人公は、「アカ」とみなした共産主義者を取り締まる組織の局長で、独裁政権の権力者にとりわけ近い場所に居ます。恩義があるためでしょう、脱北者の彼はふるまいも思想も独裁政権に忠誠心をもっているし、だから共産主義者とみなし取り締まる対象には際限がない。だからこそ、彼らは身に覚えのない容疑で拘束された被疑者を、拷問にかけ殺してしまいます。
 また、この映画では、独裁政権の側近たちと、公務員たちのせめぎあいの場面も多く描かれています。被疑者の若者の死が拷問であったことを隠したい局長側と、あくまで法にのっとり事実を明らかにしたい検事、あるいは、刑務所に収容された部下と面会し暴力により脅しをかける局長たちに、刑務所の規則にのっとった行動をとるよう暴力をうけつつ抗議する刑務所の長。それは、正義感というよりは公務員としての職務に、忠実であろうとするからの行動です。権力者の後ろ盾をかさに、刑務所であろうが教会であろうが寺社であろうが新聞社であろうが、暴力をもって入り込んでいく局長たちの姿がたくさん映画では描かれています。市民を監視し、疑わしいとみれば日常にずかずかと入りこみ暴力をふるっていきます。もうひとりの主人公でもある大学生の女性も、たまたま居合わせたデモの現場でで、デモ隊の仲間とみなされ執拗に追いかけまわされます。なにが恐ろしいかって、権力側が、日常に踏み込んでいくその恐ろしさでした。
 一方で、権力者が持っている強大な暴力とはうらはらに、かれらは猜疑心の塊であり、だからこそその組織は以下のような原理で繋がっています。
・構成者の信頼関係でなく、組織の上下関係を梃子にした支配と服従によって集団は結びついている。
・構成者の外形的な服従だけでは不安である。内面までの権力側への無限の忠誠が求められる。
・権力と「一体化」した自意識こそが行動原理。権力者との近さこそが、法や組織の規律よりも優先される。
・上位からの命令は、下位の構成者にとって公私の区別がない。上位からの理不尽な要求が下位の構成者に押し付けられやすい。
・上位からの命令が、ほんとうに権力者本人からのものか?いわゆる忖度によるものかわからないこと。
想起したのは、丸山真男の「超国家主義の論理と心理」丸山がここで述べている、日本での陸軍の行動原理ににているのです。映画でも、権力者の全斗煥は現れず、局長たちは、指示(とされる)命令を上位から伝え聞くばかり。中心が空虚なのです。
 戦後の韓国史と日本の戦後史のかかわりは、せいぜい朝鮮戦争の勃発で日本が特需に沸いて、戦後の復興を支えたくらいしか教科書では教わりませんでしたが、日帝の植民地支配が巡り巡って、韓国の独裁政権の行動原理にまで影響を与えていることを知り、戦慄しています。
 しかし、ひたかくしにしてきた拷問死は、検事や、刑務所、それぞれの良心がリレーされて、権力の監視の網を潜り抜け公になります。それは、やがて独裁政権を倒し、民主化宣言を勝ち取る動きの種になるのです。外形では服従しても内面までは独裁政権に譲り渡さないという意思が映画でも描かれています。時の権力や社会、時流によってころころ善悪が変わるのではなく、もっと深い普遍的な善悪の価値観を韓国社会が持っているように見えます。その価値観は、残念ですが日本の社会には存在しないものです。

 それにしても、「タクシー運転手」にせよ「1987ある闘いの真実」にせよ、独裁政権の暴力を受けるのは大学生が多くて、息子とちょうど同世代なのです。自分にとっては、なかなか見るのがキツい場面の連続で、映画館でずっと泣いていました。