北関東民のさえないソウル(絲山秋子「薄情」)

薄情


 群馬、栃木、茨城、いわゆる北関東とよばれる3県は、テレビ番組のうえでは魅力のない県とされています。都道府県の魅力ランキングでは常に下位をさまよっているし、そんなありさまに自虐的ですらある。そんな場所でくらす男女は快活さからは程遠い。わたしは、群馬在住の絲山秋子さんの小説「薄情」を、そんな北関東目線でから読んだのでした。
 主人公である宇田川さんは、夏は嬬恋のキャベツ農家で働き、冬は実家にもどる生活を繰り返しています。実家は神主らしいのですが、彼自身は土地の生活からは自分は浮いているようだし違和感を抱えながら生活しています。そんな彼は、鹿谷さんという人の工房に通うようになります。そこは主人公と似たような人々が集う場所になっていて、自分の行動がいちいちつつぬけになるようなきゅうくつな田舎で、その工房だけが、自分がなにものかを問われない、居心地のよさを感じるのだと。
 そして、この話には蜂須賀さんという同級生が登場します。この地をいちどは離れた彼女は、遠方の生活が破綻して戻ってくる。2人が恋愛感情を募らせるわけではないけれど、土地に違和感を持ちながら暮らすところは似たもの同士です。が、やがて工房は焼けてなくなってしまう。工房に集まっていた主人公は、それまで、工房に委ねて任せっきりにしてた自分のなかの一部分を、これから自分自身でこしらえなければと知る。そんなふうにこの小説を読みました。

 工房が焼けた原因は、付き合っていた蜂須賀さんと鹿谷さんのいさかいから。この土地から再び出て行こうとする蜂須賀さんに、でていくのは逃げるようなものだというような意のことを言います。  土地に縛り付けるということではなく、土地に向き合うこと=自分と向き合うことと言っているのだと思います。

 私が生まれたのは栃木県の南部で、実家はいまもその地にあります。典型的な農村集落のなかに、越してきたサラリーマン家庭です。何十年とその地にすんでいても、どこか「よそもの」感は消えません。実家に帰れば、同級生のだれだれがうんぬん。という話ばかりですが、なかには同級生の刹那的なくらしなんてのも聞くのです。素性がばればれの田舎はきゅうくつで、刹那的になるのも理解できなくもない。私自身そのきゅうくつさがいやで故郷をあとにしたくらいですから。
 群馬が舞台となったこの小説に、栃木出身のわたしはどこか親近感を持っていて、小説に登場する人たちのさえない感じが「すばらしい大自然に囲まれた、人情味あふれる仲間たち」なんて、すくすくとした自己肯定感など生まれようがない北関東という土地柄を表しているように、勝手に想像しています。「自分自身であること」という命題に、なやみつつも前向きに生きていく、さえなくて快活でない人たちの物語。そう読めたのでした。

台地の上を通る(甲州街道を歩く2)

f:id:tochgin1029:20161113113329j:image 今回の行程は、京王線芦花公園駅からの歩きです。私鉄の駅につづく商店街と生活道路のコンビは、生活するには気楽そうですが、よそものにはあまり変哲のない街で、面白味のないところです。
 ところどころに通り過ぎる川はコンクリートだし、あたりはケヤキ並木のつづくバイパス道。通り沿いに起伏はあまりないのですが、道のわきをみれば起伏のある地形のなかを通っている。台地状になった土地の中を通っていることがわかります。その台地から坂を降りるところだけバイパス道から分かれているます。その瀧坂と呼ばれるあたりだけが、わずかばかり旧道の面影が残っていて、薬師如来があります。
f:id:tochgin1029:20161113113423j:image 調布市にはいると、すこし沿道の建物の高さが低くなってきて、空が広くなってきます。国領のあたりがかつての宿場町のようです。あいかわらず、マンションなどが立ち並ぶ無味乾燥な町に、それでも古い寺や神社が残るあたりは、宿場のなごりを感じます。調布駅は数年前に地下駅となっていて、かつての駅前はぽっかりと空洞のような空間がひろがっています。いずれ、駅前広場はバス停として整備されるのでしょうし、再開発ビルが空間を塗りつぶすように建つのでしょう。でも、空っぽの空間を空っぽのまま残しておけばいいのにと思ったりもします。
 調布駅を過ぎて、台地上の道はえんえんと続いていますが、しだいにまわりはゆったりとした敷地の家がめだつようになります。そんな途中に、寺があって門のまえには新撰組で有名な近藤勇銅像がたっています。f:id:tochgin1029:20161113113501j:image彼はこの地の出身なのだそうです。この寺には立派な山門もあります。江戸時代の末期ともなれば、そうとうに農業の技術も発展した時代です。江戸の大消費地を控えたこのあたりは、かなりの豪農を排出したのではないかと思います。そして、豪農たちの知的欲求はかなりのもので、そんな知的欲求にあふれた環境が、近藤勇という政治的な人物を生んだのではないのでしょうか?この土地を歩きながらそんな想像がでいるのです。
 あいかわらず、台地の上はのっぺりとした住宅街がえんえんと続いています。地蔵やら石碑をのぞけば家も道路もどこか均一なところが、のっぺりとした印象を受けるのです。台地の上は強い風がよく通る場所です。そして、その場所は、昔の面影などのこらない住宅街。台地の上って家も田畑も風景も非常に移ろいやすい土地のように感じるのでした。
f:id:tochgin1029:20161113113523j:image 府中の町は、名前のとおりかつての武蔵の国の政治の中心です。今の大国魂神社のあたりが国府のあったあたり。ほかにも八幡神社もあります。ただ、台地の上にたつこの神社からは、ふしぎと霊的な印象を受けません。近畿の都の目線から見れば、この場所に国府が建つことの意味は、武蔵の国は「台地の広がる国」として都からは捉えられていて、その台地を征する存在として国府がこの場所に建っている。
 今日の歩きはここまでです。まだまだ単調な住宅街はつづきます。

なんの変哲のない道(甲州街道を歩く1)

f:id:tochgin1029:20161113112632j:image 中山道をゴールしてしばらくたつと、田舎の道が恋しくなって、街道歩きを再開することにしました。今度は甲州街道で、甲府まわりで下諏訪までの道を歩きます。日本橋から新宿までの道は、散歩のようにして歩いてしまったので省略。実質の歩き始めは新宿からです。
 新宿に昔の甲州街道の風情を残すところなど存在しないのはあたりまえというえばあたりまえ。ひたすら、雑踏の中をあるき始めます。すっかり雑踏は苦手になりました。早足で歩けば前を歩くひとにぶつかるのがうっとおしくもあります。
f:id:tochgin1029:20161113112657j:image 初台をすぎて、首都高の高架と合流します。わきには緑道が並びます。玉川上水の跡のようです。どちらかといえば、歩くにはあちらのほうが趣があって、静かでうらやましい道です。建物と高架のわずかなすき間にけやきの街路樹が続きます。ほんのわずかな風情です。やがて明大前のあたりでは京王線をわたります。都内の甲州街道は、しばらく京王線と併走します。
f:id:tochgin1029:20161113112726j:image 一里塚の跡には案内板だけが残るばかり。中山道では、旧道がそのまま、現在の幹線道路である場合は少なくて、まったく当時の面影が失われた場所は少なかったように覚えているのですが、都内の甲州街道はいまでも幹線道路として機能しています。高井戸の宿がどのあたりかはガイドブックではわかっても、かつての面影がないので違いがよくわかりません。
f:id:tochgin1029:20161113112744j:image それでも、桜上水をすぎれば、やっと高架道路との併走が終わって、見える空が広くなりました。なんてことのない生活道路と住宅街はえんえんとつづきます。今日の行程は、芦花公園駅のあたりで終わりです。街なかの道ははやく通り抜けたいところです。

タレント政治あるいは政治タレントたち

 目立ちたいがための強い言葉は、たんに相手を傷つけるだけでなく、自分自身が言葉の虜となり自分を蝕むのだと、長谷川豊さんのブログ騒ぎを、前々回の記事で取り上げました。その後、長谷川さんに対する謝罪署名を集めた女性が、実際に長谷川さんに会ったと、ハフィントンポストに記事が掲載されていました。

「長谷川豊さんになぜ強く反論しなかったのか」対談した腎臓病の女性患者が疑問の声に答える | Huffington Post
 このような面談では、両者が罵り合うばかりで、なんの解決にならないことも多いのですが、その女性は非常に聡明でした。「この人とはそもそも議論ができない」と判断し、長谷川さんの話を聞きながら、彼の人となりを観察していました。
 彼女によれば、少し会話した時点で、長谷川さんは私と議論をしたいのではなく、ただただ自分の意見表明をしたい。という態度でこの場にやってきたのだと見ぬいています。たとえば、彼女が話している途中であっても、言葉を遮って自説を通そうとする。ジャーナリストを自称する長谷川さんですが、人の話を聞かない人が、そもそもジャーナリストを名乗るのも変なことだと思います。そうではなく、やっぱりテレビタレントなのでしょう。

 テレビやラジオの番組には、数限りないコメンテーターたちが出演しています。政治も芸能ネタも同じようにコメントする仕事ゆえ、評論家やジャーナリストなどタレントと名乗らなくとも、本質は悪い意味で「テレビタレント」と形容したいひとがたくさんいます。長谷川さんだけではない。
 悪い意味での「テレビタレント」とは、だいたい以下のような条件でしょう。
・対話は必要ない。
・話の真偽には頓着しない。
・自分の言いたいことだけを話す。
・その場で自分が目立つことを優先する。
ひな壇をしつらえた、テレビのバラエティー番組や朝まで生テレビ。一見では彼らは会話をしているかのように見えますが、そこには出演者の自己アピールだけがある。だいたい、朝まで生テレビの議論が、のちに政治を動かしたり政策を動かした事例があったでしょうか?私の知る限りありません。
 タレントが政治家になるケースは、ほんとうに多い。特に大阪では、横山ノックさんも西川きよしさんといった芸人が議員になっています。橋下さんも、本質は政治家というよりもタレントです。有権者の声をすくい上げ、市民の代表者(議員たち)と話し合い、よりよい政策をおこなうというよりは、自分がどれだけ目立つか。政治の場をすべて自己アピールの場に変えてしまう。政治を借りたタレント活動というものでしょう。民主主義とは異なる価値観です。
 東京都でも、小池知事のタレント政治が始まりました。連日のように報道される豊洲市場やオリンピック会場の話題は、よくよく聞いてみると、さして中身がある内容でないのがわかります。先日は小池さんの「政治塾」に、3000人もの応募があったとのこと。なかにはエドはるみさんのようなタレントも含まれています。政治塾ではどんなことを教えるのでしょう。自己アピールの方法だけを教えるのだろうか?と勘ぐりたくもなります。

 事実、小池さんが新人議員のときのインタビュー記事を雑誌「SPA」で読んだことがあります。その価値観は自己実現のために政治をやる。という価値観でした。自己実現であるならなにも政治家を選ぶ必要はありません。そのころと今も、小池さんが政治家をやるスタンスは変わっていないし、そういうスタンスで政治をする彼女を、私はけっして支持はしないでしょう。
 いまや、テレビで報道されない選挙の投票率は、おおむね20%。都市部や都市圏ほど低くなります。政治というものがタレント活動のように理解され、報道されるだけなら、低い投票率は、今後もけっして向上することはないでしょう。

ヘイトするくらいならみんなで踊ろう(サムルノリの音楽について)

 今年は、高麗郡が創られてから1300年の記念の年なのだそうです。700年代、平城京の都のころに、国が滅んだ高句麗から1700人もの人たちがこの地にやってきたとされています。その記念の年に、高麗神社ではサムルノリという韓国の音楽家たちのグループが、コンサートを開くとのこと。観に行ってきました。
 彼らは30年前にも、同じように高麗神社でコンサートを行ったそうで、彼らの音楽に初めて触れた著名人たちにも衝撃を与えたとのことです。サムルノリのリーダーである金徳洙さんは、その当時に近藤等則さんのIMAバンドのアルバムに、ゲスト参加していたのを覚えています。
 で、私にとっては、サムルノリの音楽は、もともとワールドミュージックのひとつのような感覚で捉えていたのですが、実際に訪れた会場はいわゆる在日と呼ばれる方々が多いのが印象に残りました。そして、開場を待つ人々の列の中には、あちらこちらで旧知の人々を見つけ、旧交をあたためる人々の姿がたくさん見られました。隣席のおじさんからは、半島から日本にやってきたてんまつ話などが聞こえてきます。彼らにとって、サムルノリは自分のアイデンティティとふるさとの文化を繋ぐひとつの糸のような存在なんだと思いました。
 実際に触れたサムルノリの音楽は、半島の土地に根付いた音楽が根底にありました。彼らの太鼓と鐘のアンサンブルは、たとえば和太鼓と比べると、よりリズミカルに感じます。そしてなにより驚くのが、どう見ても楽な演奏には見えない全力での演奏を、延々と休むことなく叩きつづける、その体力にびっくりします。もの凄いものだと思います。そして観客席から見ると、金徳洙さんの腕が、左右に早く動いて千手観音のよう。というのは言い過ぎでしょうか・・・2曲目は、鐘が加わります。大きな鐘はベースとタイムキーパーのような役割を果たしていて、その上を太鼓がそれぞれ自由に飛び跳ねるように踊っていて、全体は非常に複雑なリズムを表しています。この曲が一番長かったでしょうか。休憩をはさんでの3曲目は、リボンのついた帽子を回しながら、立っての演奏になります。まるで、この演目にあわせたかのように真っ暗やみになった会場の中を、ひらひらと帽子のリボンが舞っていて、とても綺麗に見えます。もちろん彼らの演奏は、踊りながらだといえ、ぞんざいになることはなく、座ったのと同じクオリティを保っています。いや、ほんとうにすばらしい!
 アンコールでは、彼らはステージからおりて演奏を始めました。彼らをとりかこむように観客が集まって踊り出します。彼らの演奏は、もともとは祝祭の音楽。みんなで踊る姿こそが、本来の姿なんだとも改めて思いました。もちろん私も一緒に踊りにならない踊りをしたのです。
 現在のコンサートは、舞台や構成の都合から、段取りもアンコールもあらかじめ決められ、その時々の盛り上がりでからハプニングも起きずらいのですが、この日このコンサートで起きた、盛り上がりはごく自然なものでした。
 そんな楽しんだ会場を後にして、帰りの電車でツイッターのタイムラインを眺めれば、この日も秋葉原では、拝外主義をスピーチするいわゆるヘイトデモが行われたそうで非常に残念なことです。金徳洙さんは、コンサートの始まりに「みなさまの幸せを祈るために演奏する」と言って演奏を始めました。デモというものも、ひとつの祝祭と捉えるなら、それは、みんなが幸せに暮らせるようにするためのお祭りでなくてはなりません。誰かを排除するための祭りなど起こしてほしくない。サムルノリのアンコールの祝祭を体験して「へイトするくらいなら、みんなで踊ろうぜ!」なんてことが頭をよぎるのです。

自己陶酔の言葉(過激な言葉の麻薬性)

 テレビを見ていると、女優の杉田かおるさんが出演していました。それは自分の失敗経験を取り上げるというつくりの番組でした。テレビをしかもバラエティー番組など見ることは珍しいのですが杉田さんのコーナーはたまたまみてしまったのです。彼女は失敗の多くを、自分の傍若無人ぶりに求めていましたが、一時期のテレビは、そのことがおもしろおかしく取り上げられていたのも事実。タレントたちの極端で過激な意見や行動は、テレビ上では目立つし面白がられますが、それは反面で自分自身をぼろぼろに浸食していく。これ、テレビ業界の恐ろしいところかもしれません。杉田かおるさんはこういう世界から脱出できたこと、良かったのだと思います。
 極端で過激な意見といえば、最近に問題化したのが、長谷川豊さんのブログ記事での、人工透析患者に健康保険など必要ない、生活の不摂生など自業自得なのだから、全部自腹を切れ。という意見が批判されました。人工透析の患者のなかには、先天的にそうせざるを得ない人もいるのですから、透析の患者が怒るのはごくあたりまえのことです。案の定、彼はかかえたレギュラー番組を降板することになりました。形ばかりのお詫びを述べつつも、彼はこのことを、本心では「世間の理不尽な仕打ち」とうけとっているようです。
 降板したテレビ番組で、彼と一緒に出演していたアナウンサーが、彼の人となりを「目出ちたがり」と称していました。毒舌ゆえにレギュラーのテレビ番組を持ち、それなりに面白がられた長谷川さんですが、その毒舌ゆえに身を滅ぼした。ということなのだと思います。他人への批判を吐き、過激な言葉を連ねてブログを装飾するのが、彼の目立ちたがりゆえだというのは想像ができることで、自身が吐いた言葉に自分自身が中毒になってしまったのだと思います。それは杉田かおるさんのケースと似ていると思います。
 よく、動画で見かけるヘイトデモへの参加者は、なぜかへらへら笑っています。たまたま乗り合わせた電車で遭遇したヘイターも、ヘラヘラと笑っています。何故なのだろうと不思議でしたが、「殺せ!」とかいう言葉を自分自身がはく。自分自身がその言葉に陶酔している。それは「言霊」のようなものかもしれませんが、それよりは言葉の麻薬としか称しようがないですね。もともと思慮も分別もある大人が、目立ちたい注目されたいがために、より過激な言葉、より過激な意見を吐く。言葉を発した本人は、その言葉をコントロールしているつもりなのかもしれませんがまるで逆です。むしろ悪意のある言葉が、自分自身が蝕まれていく。しかもやっかいなのは、たぶん快感と陶酔を伴っていること。アナウンサー出身だからこそ、長谷川豊さんは言葉をコントロールできるという自負があるのでしょうが、彼に起きたことは、自分が吐き出した言葉の魔力に自分自身がはまっていったのだと思います。
 私自身、ここで書いているブログは、よりたくさんのひとに読んでもらえたらよいなと思います。そのためには、タイトルはこんな感じにして・・・と思ったり言葉を選んだりします。内容をわかりやすくするためには、よりはっきりとした言葉を選択することもあります。
 その作為は、言葉の麻薬とうらはらなんだろうと思います。前回は内面を探索することの無意味さを記事にしましたが、それと似たことかもしれません。書くこと話すことで形作られる内面というのもある。自分で吐き出した言葉は、口先だけに済まなくて自分自身の内面を蝕んでいく。言葉の恐ろしさはそんなところにもあります。

知る由もない(内心の自由について)

もう半月もまえのことですが、民進党の党首選のときに、どこからともなく蓮舫さんの二重国籍疑惑が問題とされました。反リベラルというお題なら、なんにでも口を挟むおなじみの論者たちが、やかましく騒ぎ立てるのはもちろんですが、そのとき勇ましく騒いだ人々のなかには、特に反リベラルというわけでない人たちまで含まれていたのが、実は、世間に刻まれた差別構造の根深さを表しているように思います。
 たとえば、毎朝の起き抜けに聞くラジオの、パーソナリティの森本毅郎さんは、当時にこの問題を毎朝取り上げ、政治家の二重国籍を「問題だ」と述べていました。この騒ぎを「差別ではないか?」と疑問を呈する岡田党首の反論までも「差別とはちがう。差別とみなすのはおかしい。」とまで述べています。寺島実朗さんのような論者からも同じような意見が述べられ、夏野剛さんなども、二重国籍が問題なのがなぜなのかわからない。という職場の女性に説明して「ふーん、そういう考え方もあるのね」と言わせたエピソードを述べています。法律の条文にあいまいなところがあるのでしょう。あいまいさを嫌うなら二重国籍が問題となるのかもとなるのかもしれません。
 ただ、このことを問題と述べたてる、彼らの思考の枠組みが、排他的な心情から発せられていると思うのです。そして、そのことを彼ら自身が気がついていないようです。日本国籍を持とうとする行為は、たとえ二重国籍だろうが三重国籍だろうが日本とかかわりを持とうとする態度なわけで、そもそも日本を貶めようと日本国籍を取得する行為があるだろうか?と想像してみましょう。
 これは、前提条件がそもそもおかしいのです。国内で語られる粗雑な安全保障論が「すきあらば、隣国は海を渡って日本を占領しようとたくらんでいる」という、きっかいな大前提から始まるのと似ていると思いました。民進党の党首選がおわれば、世論調査の数字は、蓮ほうさんの二重国籍を問題ではないと述べた回答が過半数でした。あたりまえのことで、父親か母親のどちらかが外国人であるなんて子供がクラスメートにいる。なんてことは都市でも地方でも珍しくもなんともありません。マスコミ報道の騒ぎは、いまでは、時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安を代弁しています。
NHKアニメワールド おじゃる丸 | おじゃる丸となかまたち

かつて、NHKの子供番組に「おじゃる丸」というアニメがあって子供とよく見ていたものです。その個性的な登場人物のなかに「ほしの」という宇宙人の一家がいました。かれら一家が地球にやってきた目的は「地球を征服する」ことなのですが、とてもシャイな彼らは、けっしてそのことを言い出すことができません。おじゃる丸をはじめとした周囲の人々(登場人物がすべて善人!)は、そんな彼らの内心など知る由もない。そして、アニメ画面では平和な日常が続いています。相手の内心など詮索してもしようがないことなのです。思想信条の自由と結びつけるのは「内心の自由」の積極的な意味ですが、裏側では、しょせん他人の内心のことなどはわかりはしないし、むしろ詮索などするべきでない。という意味が含まれていると思うのです。
 日本のおじさんたちのきっかいな意識と言動は「おじゃる丸」の善人たちの行動とはまるで逆です。もしも彼らが「おじゃる丸」に登場すれば、彼らは「ほしの」一家に対して、きっと執拗な疑いをかける。やがて、それだけではすまなくなり、登場人物たちを片っ端から疑いにかかるでしょう。そこで「おじゃる丸」の善意の世界は崩壊し、とげとげしい世界に変わってしまう。いらぬ内心の詮索は、世間を世間として成り立たせている「社会への信頼」を滅ぼすのだと思っています。時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安と、代弁するマスコミ報道の騒ぎに、そんな不安を感じるのです。