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8月30日 国会前へ

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 わたしが、国会前をたびたび訪れるようになったのは、原発反対への抗議行動以来です。特にめずらしいことではないでしょう。反原発の盛り上がりは、2012当時に比べておとなしくはなりましたが今も続いています。国会前にいくときは、国会議事堂前駅の混雑をさけ、いつも隣の霞が関駅から降りるのですが、行き交う公務員たちの目線は、いつも冷たいなと感じます。ずいぶん前に、友達の友達のキャリア官僚とたまたま飲み会に出かけたときの彼の意識から感じたのは、国家公務員の世界にとって庶民の普通の暮らしとか生業の世界が、いかに分け隔てられていて、遠い世界のことと感じていることを痛感します。そんな人たちと似たような意識の政治家たちが、いいかげんな論議のまま安保法案を通そうとしています。8月30日はそんなことへの抗議のため、久しぶりに国会前を目指しました。
 いつもなら、霞ヶ関駅を降りるところですが、今回は東京駅から国会前を目指します。東京駅を降りて国会に向かうには、皇居前広場の脇を通ります。広場には外国人の方々が観光に訪れています。道すがら眺める皇居の様子は、残った石垣を緑の草が覆うように延びている。あいかわらずすっきりしないムシムシした天気の中で、広場は、ほおっておけばすぐに、緑の蔓草に覆われしまうのだろうなという妄想を感じるほどです。皇居は、日本のかつての権力者の屋敷ですが、いまの皇居前にそういった強大な権力の風情はみじんもないなと思います。中国では天安門、韓国にもそれに類する権力者の広場があったはずですが、日本でのこの緑に覆われた広場のたたずまいは、中国とも韓国とも欧州の広場とも異なる、日本の風土からくるオリジナルな景色だと思います。
 さて、国会と皇居前の広場は、意外なほど近いのです。広場の端からは、すでにコールの声がいつもとは異なる尋常でない様で聞こえてきます。いつもなら至近距離まで来て、やっと同じような参加者をみつけるものですが、その日の参加者たちの流れは、すでに皇居前広場を抜ける時点で始まっていました。明らかに、この人の多さは反原発の時でもありえなかったものです。すでに歩道の上は人でいっぱいで身動きがとれなくなっています。ほどなく、参加者が車道にあふれたのはもちろんのことで、そうでなければ、明らかに危険な状態だったのです。
f:id:tochgin1029:20150903084954j:image 参加者たちの熱気は今までにないものでした。2年前の反原発運動では、ほとんどの参加者が政府の政策に、表だってもの申すことなど、多くのひとはまったくなれていない。そんな参加者を、どうやって盛り上げるかに主催者が苦心しているようにを感じました。なので、「仕掛け人」を見つけ、分かりやすい構図を作りたい従来型のマスコミは、とかく主催者を追っかけるだけの取材。普通の人たちのコールも、おっかなびっくりだったですね。私自身がそのひとりでした。
 けれど、8月30日の抗議行動はそれとことなっていました。主催者がどんな団体かというのは、すでに、それほど重要でなくなっているんですね。スピーチのコーナーでは、政治家の方々が交代ではなしているようですが、全く聞こえません。それでも気にはなりません。主役はかれら有名人や政治家ではありません。こちらなのですから。若者がリードするコールとこちらがかえすレスポンスのなかに、「民主主義ってなんだ?→これだ!」という応答があります。この繰り返しで、「主権在民」というこの国の根幹が、いままで、教科書をひと読みして頭で理解した気になっているだけ。このことの本当の意味を、ほんとうはどういうことなのかということを、このコール&レスポンスを通じて体感したのだと思います。単に選挙で投票すれば終わりというのでなく、代表でないから関係ないというのでなく、有名無名にかかわらず声を出していかないと、権力は腐敗するということです。
 案の定、翌日になり、いくつかの識者たちからこの抗議行動に否定的な言葉が述べられていました。けれど、その語り口の能弁さこそが、あきらかにこの現象におびえているのを示しているのだと気が付きました。これは、高度成長から世論をリードして、自分たちはなにも知らない庶民を啓蒙していると自負している識者たちが、自分の優位さが失われるのではないかうおびえなんだと思います。
 このことは、もちろんよい面だけではありませんし、悪い面もあるでしょう。けれど、そのようなことの総体を含めて、あきらかに日本の世論が変わりつつあることを感じました。