国体教と排除の論理

 東西のいろいろな文化を取り込みつつ自分たちのものにつくりかえてきたことが日本文化の特質だと、よく言われますが、ではそういう社会が敷居の低いオープンな社会ではなく、なぜに閉鎖的な社会なのはどういうことなのかと思います。無宗教とされてきた列島社会は、実はそうではないと位置づけると、いろいろなことが見えてきます。
 反日、在日・・・ネット社会から放たれる日本語の数々には、どちらかといえば包容を意味する言葉より排除を意味する言葉にあふれています。でもそれはネットに限ったことではなかった。私の子供のときだって「おまえはうちの子供じゃない」とか「出てけ」とかいうのが、親に叱られたときの捨てぜりふだった。暴力をふるう親ではなかったし、当時ではそれは珍しいことではなかったでしょう。表面化されなかっただけで、庶民の側にも排除の言葉が横行していたし、今だって横行してることに、まず気がつかなければならないのでしょうね。歴史的に、排除の論理はたぶん昔から続いているのだけれど、なぜかはよくわかりません。古代も中世も江戸時代も、当時の世間のありようにあわせて、排除の論理も形を変えているのでしょう。だから、現代になってからの排除の論理は、現代のありようにあわせたものなのだと思います。

村の家・おじさんの話・歌のわかれ (講談社文芸文庫)


 戦前の排除の論理は、国教となった国家神道に従うかどうかによって定まりました。たとえば、中野重治の「村の家」では、捕まったマルクス主義者の息子に対して、親兄弟、故郷との親愛の感情から、天皇陛下への親愛へとつながっていく論理を父が述べています。捕まったマルクス主義者が転向するのも、そういった身近な親兄弟との親愛感情をてこにして説得される。
 ただ、戦前の排除の論理は、あからさまに宗教の衣をまとっていたので可視できたという側面もありました。けれども現代ではその宗教性が見えづらいのです。311の後で、新聞やテレビから延々と「絆」「がんばろう」というメッセージが流れました。そこには「同じ日本人同士、仲間になろうよ」という表のメッセージが流れる反面で「このメッセージに賛同しないものは日本人でない」という裏のメッセージが隠されています。メッセージを受け入れない個人が排除されるのは、まるで背教者であるかのようです。とかく宗教の衣が隠されているがゆえに、現代では、排除の論理は、芸能人のスキャンダルにまで、世間での様々な出来事に拡散している。ただ拡散しているだけでなく、排除される対象は、子供、女性、いじめられっ子、在日外国人、職場のだれか・・・とさまざまに形を変える。 そこでは、この国における、人と人との向き合い方のゆがみが浮かんできますね。