戦後社会の魔物(橋本治「草薙の剣」)

草薙の剣 戦後の日本に進駐した米軍に対して、支配層の願いはただひとつ「國體護持」が条件でした。だから戦後社会にも國體というものは存在するはずです。無実の市民が警察に捕まるようなわかりやすい抑圧ではなくて、お茶の間のテレビから親兄弟や友人の口から、個人が自分らしく生きることを否定するメッセージがさまざまに発せられて、そんな刷り込みが個人をしばりつけているよう。そんな恐ろしさを戦後の國體に感じるのです。橋本治さんの「草薙の剣」という小説は、10代から60代までのそれぞれの男性と親兄弟の人生がそんな刷り込みによって翻弄される物語です.
 もっとも年長の主人公は62歳の昭生です。彼の生家は水道工事店。従軍世代の彼の父は、復員して故郷で水道工事店を営みます。都会にあこがれ田舎を出ていった兄を追いかけるように、昭生も都会を目指します。都会に出て自由な生活を送れるとばかりに。しかし、彼の都会での暮らしが充実したものだったかはわからなくて、やがて親の介護で田舎に戻った昭生は、なんで都会に出ていったのだろう?意味がなかったのではないかと自問します。
 2番目は52歳の豊生。都会に養子に出され育った彼の父は、空襲で家を焼かれ養父を失います。養母と戦後の焼け野原に放り出され、生きるため必死にならざるを得ない彼の父は、よりよい生活やよりよい仕事を得るため簿記を覚え、生計をたてていきます。そんな辛苦や努力を父は豊生に伝えたいが伝わらない。豊生にとってそれは疎ましいものでした。時代はバブル経済のころで、就職せずに生活はできるとばかり、豊生は就職活動せずフリーターの道を選びます。フリーターに自由があればフリーターの雇用者にも自由は存在します。やがて年を取り、思うような仕事にありつけなくなった豊生は、次第に働くことをやめてしまいます。
 3番目は42 才の常生。戦後世代となる彼の母親はそれまでの年長世代のような戦争体験を持たないし、公務員の実家は豊かではないけれど貧しいわけではない。そんな彼女が、大学を卒業して就職しようとしたとき壁に直面します。均等法がない頃に女性の就職口は少なく、うんざりしながら、早々に父と結婚する道を選びます。流されるような母の生き方は常生にも伝染しています。なんとなく就職し結婚し離婚する彼は、経済的には破綻していないが、自分自身のものとして人生を生きていないようです。
 32歳の夢生と親の場合だと、もはや生業をもって生計をたてていくような生活の枠組みというものが破綻しています。美容師になるつもりだった母とガソリンスタンドで働く父。百恵さんの生き方に焦がれ美容師になるのもやめて、さっさと結婚します。しかし父は浮気性で、母が妊娠している時から浮気をしています。やがて父は家を出ていき母と離婚します。夢生がは学校ではいじめにあい、働きもできず引きこもりの生活を送るばかりです。
 22歳の凪生の母は、働いて数年もたったころに雇用機会均等法が施行されます。女性も仕事を通じて自己実現をするような人生を送れるようになります。勤め先でそれなりの肩書きも得た彼女は、凪生に良い学校よい教育を受けさせたいとお受験をさせようとしますが、凪生はその選択を拒否します。
 12歳の凡生の母では、雇用機会均等法は根付き、女性も就職し仕事を持つのが当たりまえとなります。結婚し子供が生まれ、仕事の忙しさから子供の育児は父親が中心になります。息子がより父親になつくようになったとき、母親には父親に対する嫉妬が生まれます。離婚の原因は「母性神話」とか「良妻賢母」といった刷り込みに左右された母の嫉妬に他なりません。
 この小説では、戦後社会を生きる登場人物たちそれぞれの人生は、以下のような刷り込みが束縛していて、どれも日本に生きる大人なら身に覚えのあることばかりです。
・ダサい田舎なんか捨て都会に出よう(昭生、昭生の兄)
・勉強してよい学校を出てよい会社に就職すれば、社会でよりよい地位を得られる(豊生の父、凪生の母、凡夫の母)
・就活はやめて、フリーターで自由に生きる(豊生)
・手に職などつけない。結婚で永久就職(常生の母、夢生の母)
・働くお母さんは良き母でもなければならない(凪生の母、凡夫の母)
 新聞雑誌といった媒体や親兄弟友達の口を通じていろんな刷り込みが連鎖していきます。このなかには「みんなと同じが一番」というメッセージが隠れていて、個人の選択を束縛しています。それは言い換えれば、個人の自由意思の簒奪です。豊生はフリーターという形で、夢生は引きこもりという形で年長世代の刷り込みに反発していますが、その反発の根拠さえ別の刷り込みへの乗り換えでしかないのです。
 この小説で、22歳の凪生や12歳の凡生の存在は、そんな全体主義的な戦後社会に対しての批評者としてです。東日本大震災のボランティアに行った凪生は、震災の廃墟を見て、親たちが過ごした繁栄の時代が終わったことを予感します。12歳の凡生もエゴを振り回す離婚した親たちに否と叫びます。
 経済大国をもたらした戦後の繁栄の時代が終わりつつある2018年の現在です。繁栄から衰退に向かわせたものはなんだろうか?とぼんやりと考えると、ひとつの原因として、このような個人の自由な生き方を縛り付け、個人の自由意思を簒奪する文化の問題でもあるのです。そう考えると、橋本治さんと親しい間柄の糸井重里さんが80年代の頃から広めてきたコピーライターの文化は、なんて悪質なものだろうと思うのです。