知る由もない(内心の自由について)

もう半月もまえのことですが、民進党の党首選のときに、どこからともなく蓮舫さんの二重国籍疑惑が問題とされました。反リベラルというお題なら、なんにでも口を挟むおなじみの論者たちが、やかましく騒ぎ立てるのはもちろんですが、そのとき勇ましく騒いだ人々のなかには、特に反リベラルというわけでない人たちまで含まれていたのが、実は、世間に刻まれた差別構造の根深さを表しているように思います。
 たとえば、毎朝の起き抜けに聞くラジオの、パーソナリティの森本毅郎さんは、当時にこの問題を毎朝取り上げ、政治家の二重国籍を「問題だ」と述べていました。この騒ぎを「差別ではないか?」と疑問を呈する岡田党首の反論までも「差別とはちがう。差別とみなすのはおかしい。」とまで述べています。寺島実朗さんのような論者からも同じような意見が述べられ、夏野剛さんなども、二重国籍が問題なのがなぜなのかわからない。という職場の女性に説明して「ふーん、そういう考え方もあるのね」と言わせたエピソードを述べています。法律の条文にあいまいなところがあるのでしょう。あいまいさを嫌うなら二重国籍が問題となるのかもとなるのかもしれません。
 ただ、このことを問題と述べたてる、彼らの思考の枠組みが、排他的な心情から発せられていると思うのです。そして、そのことを彼ら自身が気がついていないようです。日本国籍を持とうとする行為は、たとえ二重国籍だろうが三重国籍だろうが日本とかかわりを持とうとする態度なわけで、そもそも日本を貶めようと日本国籍を取得する行為があるだろうか?と想像してみましょう。
 これは、前提条件がそもそもおかしいのです。国内で語られる粗雑な安全保障論が「すきあらば、隣国は海を渡って日本を占領しようとたくらんでいる」という、きっかいな大前提から始まるのと似ていると思いました。民進党の党首選がおわれば、世論調査の数字は、蓮ほうさんの二重国籍を問題ではないと述べた回答が過半数でした。あたりまえのことで、父親か母親のどちらかが外国人であるなんて子供がクラスメートにいる。なんてことは都市でも地方でも珍しくもなんともありません。マスコミ報道の騒ぎは、いまでは、時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安を代弁しています。
NHKアニメワールド おじゃる丸 | おじゃる丸となかまたち

かつて、NHKの子供番組に「おじゃる丸」というアニメがあって子供とよく見ていたものです。その個性的な登場人物のなかに「ほしの」という宇宙人の一家がいました。かれら一家が地球にやってきた目的は「地球を征服する」ことなのですが、とてもシャイな彼らは、けっしてそのことを言い出すことができません。おじゃる丸をはじめとした周囲の人々(登場人物がすべて善人!)は、そんな彼らの内心など知る由もない。そして、アニメ画面では平和な日常が続いています。相手の内心など詮索してもしようがないことなのです。思想信条の自由と結びつけるのは「内心の自由」の積極的な意味ですが、裏側では、しょせん他人の内心のことなどはわかりはしないし、むしろ詮索などするべきでない。という意味が含まれていると思うのです。
 日本のおじさんたちのきっかいな意識と言動は「おじゃる丸」の善人たちの行動とはまるで逆です。もしも彼らが「おじゃる丸」に登場すれば、彼らは「ほしの」一家に対して、きっと執拗な疑いをかける。やがて、それだけではすまなくなり、登場人物たちを片っ端から疑いにかかるでしょう。そこで「おじゃる丸」の善意の世界は崩壊し、とげとげしい世界に変わってしまう。いらぬ内心の詮索は、世間を世間として成り立たせている「社会への信頼」を滅ぼすのだと思っています。時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安と、代弁するマスコミ報道の騒ぎに、そんな不安を感じるのです。

意外とおもしろい「さいたまトリエンナーレ」

f:id:tochgin1029:20160925223003j:image 昨日から「さいたまトリエンナーレ」という、現代美術のイベントが始まりました。議会では、これは単なる税金の無駄遣いではないか?なんて疑問のあるようですが、既存の施設を利用して行われるイベントに、それほど過剰さはなくて、一市民としてはとりあえずもイベントが成功することを祈ります。
 で、自宅近くでもそんな展示物をみることができるので、さっそく見学しました。別所沼公園では、大きな船のオブジェが沼のつり人と共存しています。海なし県の埼玉で船?と思うのですが、実はこのあたり、ほんの1000年くらいまえでは内海の端っこだったそうです。そんな土地の記憶をテーマにすれば、海というのはふしぎでもなんでもないテーマですね。
f:id:tochgin1029:20160925223018j:image つぎに、遊歩道をあるくと見えてくるのは、「さいたまサラリーマン」という巨大なオブジェです。これラトビアの美術家の作品だそうです。このあたり典型的な住宅街であって、平日の朝ともなれば、このサラリーマンのまえを無数のサラリーマンが駅に向かって急いで通り過ぎます。そんなサラリーマンにたいする批評のようでもあります。横に寝ころぶ姿は、のんきさや堕落のようにも受け取れます。けれどもその体中に、クモがはいつくばっているのが不気味ですね。これが、毒グモなのだとしたら、毒グモに囲まれているのにもかかわらず、身の危険を全く感じていないのんきなサラリーマンとでも形容するべきでしょうか?非常に毒気とか皮肉の効いた表現なのだろうと思います。
 近くの、部長公邸と呼ばれる家では、作成過程を見せる作品が展示されています。近くの係員に聞けば、白く塗られた壁に描かれた鉛筆画を、やがて会期の終盤に、みんなで消すそうです。美術の作成と崩壊までを題材とするのですね。そういえば、近代まで美術が相手とするのは、静止した世界のことですね。けれどもここでの作品は、生成されてから消去されるまでの時間軸をも作品として取り込もうとする試みのようです。
 そして、もうひとつの公舎では、家の備品をまるまるアートとして見せる試みを展示していました。この作品の主役は「家そのもの」なのです。中にはいると、ただの備品であるテレビやレコードが突然に鳴り響きだし、ベランダにイヤホンを差し込めば、いきなり住人家族の会話が流れてくる。そういえば、この家は職員のための住まいでした。職員は転勤すれば、この家の主たちは次々と変わっていきます。そうして通り過ぎていった家族たちの記憶を、この家は覚えているのです。
 こうやって、読み解きならが眺める現代美術はとても楽しいものです。となりでみていた家族は、こういった作品は、とかくちんぷんかんぷんな代物なのでしょう。係員に「そもそもこれはなんなのか?」と質問する家族がいましたが、それでいいのだと思います。そういえば、わたし自身が、今日眺めた作品の作者が誰なのかさえ全く記憶してません。このような現代美術の楽しみかたは、そんな日常の視点を、ほんの少しだけずらすことで現れた「非日常」や「ちんぷんかんぷんさ」を、そのまま楽しむことなのだと思います。

川の流れのような道(中山道を巡る3)

f:id:tochgin1029:20160903171528j:image 宿のご主人は、私が街道歩きをしていることがわかると、いろいろな話をしてくれました。とりわけ大津祭の話になると熱く語っていたのが印象的でした。山車の車輪を修理するのは、非常にお金がかかるということ、高齢化で自治会に14件しかないので、自治会費が高額になるとか。重要文化財に指定されれば役所から補助がでるらしく、やりくりは楽にはなるのだが、その分だけ監査が厳しくなるらしい、自由さはなくなると語っていました。大津に落ち着くまでいろいろい苦労もしたとかいう話は、実に戦前までさかのぼりますので、一見若くみえるご主人は、とうに70を越えているのですね。
 さて、大津の宿の近くにある三井寺に立ち寄りました。堂の中には仏像が納められています。江戸、室町、鎌倉、平安と、やっぱりそれぞれ時代ならではの特徴が見えます。平安時代の仏像はどこかエキゾチックな風貌です。それが、鎌倉時代になるとリアリズムが生まれてきます。そのリアリズムは、室町時代では劇画のようなデフォルメが入ってくる。そして、江戸時代では形式的になる。デフォルメがリアリズムを飲み込むのですね。
f:id:tochgin1029:20160903172021j:image道に戻り、大津から京都までの道に入ります。行程の最初は、となりに京阪電車を見ながらの行程です。JRが京津の間を長いトンネルで一直線に越えるのにくらべ、京阪電車はといえば、うねうねとした道路と一体になって登っていきます。たぶん相当な急勾配でしょう。
f:id:tochgin1029:20160903172035j:imageその途中に蝉丸神社があります。百人一首でおなじみの、蝉丸にちなんだ神社です。蝉丸は天皇の皇子であるにも関わらず、盲目だということで帝になる道は絶たれ僧形にされ、捨てられたも同じような状態で、この地にわびしく暮らしていたとのことです。いまでも、この神社の付近はわびしい雰囲気が漂っていますが、不思議とそこには怨恨の匂いは感じられません。わびしい場所で、蝉丸が吟じる唄はまるでブルースのようだったのでしょう。だからこそ呪いや祟りにはならない。NHKの紅白歌合戦で「うたの力」というキャッチフレーズが掲げられたことがありますが、いやいや本当の「うたの力」とはこういう事なんだろうと思うのです。なお、蝉丸は日本の芸能事の祖とされているとのこと。
f:id:tochgin1029:20160903172201j:image山を越えれば山科の街に入ります。大津と山科の山道には、かつて石がしかれていて、自然なのか人為的なのか?車輪が踏みつける場所が二本の溝状になっているさまを車石と呼んでいたそうです。途中の寺では模型が置かれています。そして、京都~大津の間は、年間15000台もの牛舎が通行していたそうです。大津からは琵琶湖の水運への積み替えもあったこともあり、たぶん相当に交通量が多かったのだろうと思います。いまだって隣を通る国道の交通量はものすごい。とうに時代が変わっても、道の重要性が全く変わっていないことも気づきます。
f:id:tochgin1029:20160903172225j:image 山科でいったん山を降りた道は、街をでて再びの登りに入ります。このへんの国道を、かつて中学生の修学旅行で訪れたときに、バスで通ったことを覚えています。その時、隣を走っていた京阪電車は、いつのまに地下鉄に変わっていて、なんのへんてつもないバイパス道路の風情に変わっています。九条山を越えるあたりは旧道に入りますが、家は新しいものであっても、集落の屋根の連なりの様子は、まるで広重が描いた街道風情のようです。山をおり蹴上までいけば京都の街に入ります。たくさんの観光客と遭遇します。東京ほどではなくても、最近は京都の人の多さも相当のものです。
f:id:tochgin1029:20160903172403j:image三条大橋に着きました。これまで通った道を思い出して、感慨にふけるのかといえばそうでもなくて、意外にも淡々とした心地なのですが、これから京都観光をするという気もなく、ずっと鴨川の流れを見ていました。鴨川というのはぼーと眺めるのにちょうどよいサイズの川で、右へ川が流れているのを見ながら想います。地を這って身体を使って歩いた東京と京都の行程は、たしかに自分の世界観を変えたように思います。車や新幹線の窓から眺めた景色が世間のすべてではないこと。コンピュータの画面から眺める景色が世間のすべてでないこと。地を這いながら、年も格好も性別も違ういろんな人たちが、同じ空の下でそれぞれ暮らしていること。あたりまえですが、そんな世間の広さを体感した旅だったのです。

生活の匂いのする道(中山道を巡る2)

f:id:tochgin1029:20160903171631j:image昨日は熱中症気味だったようで、倒れるように宿に駆け込みました。せっかくなので、泊まった近江八幡の街を出がけに歩きました。宿をでて駅とは反対方向にあるくと、その旧くからの町並みが残るエリアにたどり着きます。この近江八幡は、かって安土城の城下町にすんでいた町民が移り住んだまちらしく、旧くからの町屋が残っています。ところどころにヴォーリズ由来の洋風建築が残りますが、実際に町の風景をこしらえているのは、旧くからの町屋です。これまで、湖北湖東の建物は弁柄の赤い柱が特徴でしたが、ここではもう見かけません。そして、敷地が広い家が多いのに感心しています。近江八幡は「近江商人発祥の地」と自称していますが、さもありなん。街を歩いたときに、そこが豊かな街かどうかというのは、意外と街の風景に現れると思うのです。
 さて、近江八幡から守山までの東海道線は、エスカレーターの片側あけがこのあたりではまちまち。近江八幡では右空けだったのが、守山駅では左空け。東京の右空けと関西の左空けの境界はこのへんだったり。などと思いました。
f:id:tochgin1029:20160903171543j:image 守山から草津までの道も平坦な道がつづきますが、旧道を歩く今日の道のりは、それほど殺風景ではありません。途中では大宝神社という場所で休憩をしました。緑のあふれる居心地のよい場所だったのですが、その神社がたつ地名が「綣」と呼ぶ、ふりがななしではとても読めない地名でした。また、その次に現れた橋は、百百橋と書いてある、ちょっと読み方もわからない不思議な地名が続きます。
f:id:tochgin1029:20160903171858j:image草津宿につきます。ここが東海道中山道の合流地だというのはよく知られていますが、いまでも街道沿いは、街の中心部です。屋根付きのアーケードがかぶせられた街道には、商店が並び近所の人々が歩いて買い物をしている。ほんとうににぎやかです。そして、東海道中山道の追分もその真ん中にあるのです。休憩がてら資料館になった本陣を眺めます。この宿には「貫目改め」という設備があったそうで、公儀に関する荷物について、中身を空け検閲することのできる施設です。帝の住む京都は、江戸時代でも政治的に重要な場所です。
 草津の町を過ぎると、上がり下がりの多い坂道が続きます。なんの変哲のない住宅地が続くあたりは、今日の行程では、一番に道中のきつさを感じるところです。食堂もないので、JR瀬田駅のあたりまで行き、昼食を食べます。ここでは都内のせかせかした昼飯と違い、サラリーマンはのんびりと昼食をとっているのが羨ましくなります。もう一方では、関西という土地柄か、つきることなくタイガースの話題を話しているおじさんたち。聞き耳をたてると、「おれはマニアではない」と自称していますが、いやいや十分マニアだと思います。
f:id:tochgin1029:20160903171802j:image上がり下がりの多い道はさらにつづき、おまけに折れまがる道はわかりづらい行程です。その途中に近江の国庁跡がありました。考えてみれば、県庁所在地の大津は、滋賀県の西端なのですね。これはやっぱり京都との距離感といのが関係するのでしょう。奈良平安の近江の役所も、こうした国の西端にあって、隣の建部神社ともども、京都のほうを向いています。
f:id:tochgin1029:20160903171541j:image 住宅地のアップダウンが終わり平地に降りると、突然風景が一変します。それまでの住宅地が、京都の延長のような町並みが現れて、じきに瀬田の唐橋に到着します。看板やガイドブックには、「瀬田の唐橋を制するものは、天下を制す」といった言葉がかかれています。たしかにこのあたり、山が近くにまで迫っていて、京都の街からすれば喉仏のような位置関係です。京都を攻めようとする者は、ここを通らなければたどり着けない。京都の街を守ろうとする者は、この瀬田の川を越えられたら、京都の街まであっという間。このあたりは、今でもそんな風情が残っています。
 ここから大津の宿までは市街地を歩きます。琵琶湖は間近なはずなのですが、道中の景色に飛び込んでくることはあまりありません。そして、新幹線を眺めながらの道中も、いつしか京阪電車にかわります。サラリーマンたちの出張の乗り物である新幹線と、日常生活のゲタ代わりに乗る京阪電車の違いはここにも現れていて、道ばたのあちこちで、おばちゃんたちが世間話をしている光景に遭遇する、とても生活感のあふれる道です。
f:id:tochgin1029:20160903171715j:image実はこのあたり、木曽義仲が敗死した場所でもあって、義仲にちなんだ義仲寺というお寺があります。知らずに入ったとたん、おばちゃんの「入館料300円」の言葉が飛んできます。あまりに見事なおばちゃんの口上に有無も言えずに、入館料を払ってはいるはめに。寺の中は、義仲というよりは、芭蕉の句と天井の伊藤若沖の絵が印象的なお寺でした。
 平日の夕方という事もあって、市街地はしだいに通勤帰りの人々が行き交うようになりました。京阪の浜大津をお過ぎて、少し京都よりに進んだところに大津宿の本陣跡があります。今日の行程はここまでです。周りには近江牛の飲食店があるのですが5000円くらいかかり、「高いなあ」という印象。ちょっと節約したい向きには手がでないなあ。というところです。

きれいな水を眺める道(中山道を巡る1)

f:id:tochgin1029:20160903120740j:image 中山道を歩くのも今回で終わり。武佐から京都までの歩きです。山の中なら日差しがきつくても木陰にあたれば涼しく感じますし、水の流れが近くにあればたとえ暑くても心理的に涼しく感じることができますが、遮るものがない平野部での道のりは、けっこうきついです。前回の旅の終着点であり今回の旅の始まりである武佐の宿は、そんな平坦な場所です。日本橋からえんえんと歩いて、ゴールを前にして、このあたりは心理的にいちばんつらく感じるエリアかもしれません。
 武佐の集落からの道、平坦で単調な道のりです。近くには実業家の邸宅があります。田んぼが続く道のりは、前回歩いたときは田植えがおわったばかりの5月でした。今度8月もおわりのころ。稲も実っています。
f:id:tochgin1029:20160903120820j:image そんな単調な道の途中に、小野川という川にあたります。江戸時代の当時に、2台の船をつないだ舟橋で渡っていたそうです。その舟橋のあったあたりは、今では、何の変哲もない草むらで、橋まで土手を通ります。どこか殺風景な印象です。
 しばらくいくと、鏡の宿という集落があって、このあたり道の駅もあって休憩にちょうどよいところです。武佐から守山までの道は13キロの長さがあるので、距離が長いぶん、このような途中に間の宿を設けているのでしょう。道の駅の反対側には、ここで義経元服したという神社があります。中山道というのは、たしかに江戸時代になって整備された道ですが、かといって江戸時代に人工的に作られたルートではなくて、それ以前から生活路として使われていた道が、あらためて整備されたのだと思うのです。中山道を歩くと、その土地土地の歴史的な記憶を感じながらの旅となるのです。そして、総じて東よりも西のほうが江戸時代よりも前の「土地の記憶」といったものを濃厚に感じることができます。
f:id:tochgin1029:20160903120900j:image このあたりはため池が点在します。そしてそのひとつには蓮の花が。ほとんどは枯れていましたがポツポツと花が残っています。そして、近江を歩くと、ただの道路脇の用水路であってもだいたいは水がきれいで、水の中に魚影が見えます。単調なつらい道のなかでは、わずかだけれど涼しさを感じます。新幹線の高架をくぐれば野洲の町に入ります。街道沿いは、現在の中心地とは違い、なんの変哲のない住宅街です。
f:id:tochgin1029:20160903121018j:image美濃の歩きでは、木曽川、ながら川、揖斐川といった大河を近くに視ながらの旅でしたが、近江の歩きではそういった大河が存在しないのが、風景の特徴です。それでも、野洲川は近江ではわりと大きい川のようです。隣には東海道本線や新幹線、高速道路が並びます。そういえば、途中にも大企業の事業所が点在していました。交通の便がよいことも関係があるのでしょう。
f:id:tochgin1029:20160903121039j:image 守山の宿には、意外なほどに古い建物が残っていました。立派な門のある寺を見るのも久しぶりです。宿の先にある土橋という橋までで今日の道のりはおわりです。川の水はやっぱりきれいで魚影も見えます。そういえば、中性洗剤を禁止する条例が、全国でいち早く定められたには滋賀県だったのを思い出しました。いまでも、きれいな水への感度が高い土地なんだと感心します。
 古くからの宿場町から駅までの道は「銀座」と名のつく中心商店街で、予想外にも、マンションが建ち並んだり、モダンな小学校が建っていたりあか抜けた場所でした。今日の宿は守山ではなく近江八幡にとっています。古い町並みや洋風建築の楽しみな場所です。

デジタルディバイド(情報格差)の新たな形態

 かつて、デジタルディバイド情報格差)という言葉が存在しました。それは、インターネットやパソコンを持つ人々と持たざる人々の間で、得られる情報に格差が起きる状況のことを意味していたと思います。パソコンを持つ人は、インターネットを利用できる環境を持てば、新聞やテレビやチラシにない様々な情報を、世界中から得ることができるのに比べて、持たない人々は、依然として新聞やテレビからしか情報を得ることができません。10年前はだいたいそんな状況でした。

 ひとびとが情報を得る方法は、いまはパソコンからスマートフォンへと移行していて、電車に乗れば、老若男女関係なく乗客がスマートフォンを操作する光景は当たり前ですね。けれども情報格差とがなくなったわけでなく、新たな形の格差が生まれつつあるように思うのです。
 だいたいの人は、いまではネットを利用できるようになりましたし、受け取る情報量に格差はありません。現在の格差は、それよりも人間同士のコミュニケーションのありかたに地殻変動が起きつつあって、そのことについていける人々と、ついていけない人々との隔たりが大きくなっていると思うのです。そのことは、SNSが一般に普及してはっきりしました。

 SNSの特徴は、単に双方向の伝達が可能だというだけでなく、どんな有名人だろうが無名人だろうが、メッセージを送り受け取ることに違いはない。いわゆるネット社会のありかたは、本質的にフラットなので、上下関係とか序列が生まれづらいのです。ニュース記事だって新聞なら芸能人のゴシップ記事と海外のテロの事件は異なる頁に掲載され、記事の扱いにも差が付くものですが、ネットニュースでは、前者と後者の記事はフラットに並べられ扱いに違いはありません。最近では、東京都の舛添知事が辞めさせられたのも、最初は政治面での公私混同の問題だったのが、辞める直前では、各マスコミの取材は政治記事ではなく芸能ゴシップと違いのない状態になる。ニュースジャンルのさかい目もなくなってしまいました。
 ただネットニュースを眺め情報を受け取るだけでは、人間の知覚には、そう影響はしません。有名無名に関わらず、誰でも発信者になれる、インターネットの双方向性の特徴が、人と人とのコミュニケーションのあり方を変えつつあり、移行期の混乱が、今の状況を表していると思います。
 いまでも、世間の道徳というのは、だいたいは儒教道徳の影響下にあって、ビジネスマンであれば上司と部下は対等ではないし、なんらかのヒエラルキーがあります。年長者と若者なら、若者が年長者を敬うのが当然とされているし、医者や教師、弁護士は、知的労働の代表で、敬意をもって「先生」と呼ばれています。
 でも、ネット社会のフラットさは、そういった名士や先生の存在をあたりまえにはしませんし、年長者だからといって敬われるのがあたりまえでもありません。専門家とよばれる人々が、SNS上で素人から集中放火を浴びるのは、あたりまえの光景です。議論に慣れている専門家ならともかく、年長ということ=敬意をもたれて当然、という日常を生きるおじさんたちが、ネット上のフラットなコミュニケーションに戸惑っているのがよくわかるのです。高度経済成長のなか、日の丸株式会社のもとで、懸命に働いたおじさんたちの社会人生活は、理不尽さを我慢しながらヒエラルキーをかけ上がっていくというものでした。おじさんたちは、そのヒエラルキーの序列の中に自分の位置を見つけて安心した。
 企業社会にどっぷりとつかっていたおじさんほど、リタイヤした後の生活には苦労しているし、尊大な態度から説教をしたがるおじさんたちは、とかく現実世界でもネット社会でもいやがられるものです。著名人の○○さんが若者を一喝する。といった記事に、おじさんたちが溜飲を下げるのは、実は現実社会やネット社会で、フラットなコミュニケーションをうまくとれないおじさんたちの淋しさの現れです。
 その淋しさを、うまくすくい上げているのが、産経新聞や正論といった、右派の雑誌媒体です。ヒエラルキーの価値観にどっぷりと浸ったおじさんたちにとっては、じぶんよりも下等に扱うことのできるかたまりがあれば安心するのであって、中身はなんでもよいのかもしれません。右派論客の「サヨク」「中国」「朝鮮」の語り口から、いっこうにリアルな像が浮かばないのは、その実体が、コミュニケートできない相手への不安と恐怖心が生み出した幻想だからです。
 現在の情報格差というのは、もはや、情報をやりとりする量の問題ではなくなっています。ネット社会が変えつつある現実社会のフラットなコミュニケーションについていけるか?ついていけないか?という問題に移行しつつあるように思うのです。
 

文明化の一過程としての神仏習合(義江彰夫「神仏習合」岩波新書)

神仏習合 (岩波新書)


 以前に安丸良夫さんの「神々の明治維新」を取り上げましたが、そこでの論点は、明治維新というより王政復古の号令にあわせて発生した、廃仏希釈と神仏の分離運動が非常に政治的な運動であったことを述べました。では、それ以前は神仏習合と呼ばれた神仏の境目のない世界であったわけで、その世界のありようはどうだったのか探りたくなり「神仏習合」という岩波新書を手に取ってみました。

 仏教が日本に輸入されたのは、欽明天皇の頃です。仏教を肯定した蘇我馬子と否定した物部守屋の対立は日本書紀にも描かれているし、聖徳太子仏教の伝播にとっては決定的な存在です。けれども、奈良時代までの仏教は、あくまで支配層の為でしかなかったし、どこまで理解したかといえば、単に、海外で広まった風習でしかない。という理解だったと。それが、支配層の内面にまで影響を与えるようになったのは、聖武天皇のころですね。平城京を捨てて、紫香楽宮恭仁京など転々とした聖武天皇の奇っ怪な行動は、たとえば橋本治さんの「窯変平家物語」では藤原広嗣の反逆の報に怯えたからと語っているし、別の本では長屋王の祟りに怯えたのだとも。諸説ありますが帝の不振な行動の裏に怯えがあったなら「怯え」という心の動きそのものが、伝播した仏教の内面化に他ならないというわけです。
 平城京で、帝を中心とした支配層のための仏教が盛んでも、地方では、いままで通り氏族由来の神を信仰しているし、まだ縦穴式住居にすんでいる人たちも多い。そんな場所で、じっさいに王権の権威など理解されるはずもありません。実際には、その土地土地の古来の習俗と妥協しています。たとえば、各地で毎年作付けする籾は、当時、土地土地の神々から支給されるという習わしでしたが、その籾に王家から支給される籾が混ぜてもらって、ようやく王家の権威が成立する。籾を支給する/されるという関係が権威を支えています。

 やがて、土地の私有が進み、技術の進歩から稲の収量も増えれば、籾を王家に求める実益はなくなっていきます。それまで、王家から支給される籾を各地が取りに行くものでしたが、遠隔地では辞退するのが相次ぎます。籾をテコにした支配体系が崩れるし、なにより王家に富が集まらないのです。

 そんな中で、地方で起きたのは、土地土地の神々が仏教に下る。という行動です。現在も残る「神宮寺」と呼ばれる寺の多くは、そのようにして成立するのです。王権はその動きに抗えなくなってきます。当時に残る神のお告げというものは、苦悩する神々が仏門に下るというものです。神のお告げと言いつつ、これは当事者自身の悩みと読み替えることができるし、仏教を借りて個人に自我が宿る瞬間のように見えます。
 そのあと神仏習合は、神が仏の化身であるという本地垂迹説にまで進行していきますが本質は変わっていないように思うのです。神仏習合の意義というのは、まじないとか呪術によって成り立っていた社会が、ともあれ仏教の力によって脱出する文明化の現れのように思います。しかもこれは権力者の強制ではなくて、社会から自力で編み出された進歩なのだということは、実は衝撃的です。
 その意義からすれば後世の「神仏分離」と「廃仏棄釈」という運動は、非常に政治的な運動です。江戸時代に発見されて、国家神道という形で広められた「古代」は、事実とは違う物語であって、中世の神仏習合の世に生きた中世の人々だけが、神仏が分離された現代を正しく評価出来るかもしれません。普遍的にこの世界を眺める原理として仏教が広まり、古来の神々と混じり合って、日本の社会は世界を普遍的に見る目を獲得していった。その原理を排除した神仏分離は、歴史の進歩でなく歴史の退化のように見えるのではないでしょうか?