ヘイトするくらいならみんなで踊ろう(サムルノリの音楽について)

 今年は、高麗郡が創られてから1300年の記念の年なのだそうです。700年代、平城京の都のころに、国が滅んだ高句麗から1700人もの人たちがこの地にやってきたとされています。その記念の年に、高麗神社ではサムルノリという韓国の音楽家たちのグループが、コンサートを開くとのこと。観に行ってきました。
 彼らは30年前にも、同じように高麗神社でコンサートを行ったそうで、彼らの音楽に初めて触れた著名人たちにも衝撃を与えたとのことです。サムルノリのリーダーである金徳洙さんは、その当時に近藤等則さんのIMAバンドのアルバムに、ゲスト参加していたのを覚えています。
 で、私にとっては、サムルノリの音楽は、もともとワールドミュージックのひとつのような感覚で捉えていたのですが、実際に訪れた会場はいわゆる在日と呼ばれる方々が多いのが印象に残りました。そして、開場を待つ人々の列の中には、あちらこちらで旧知の人々を見つけ、旧交をあたためる人々の姿がたくさん見られました。隣席のおじさんからは、半島から日本にやってきたてんまつ話などが聞こえてきます。彼らにとって、サムルノリは自分のアイデンティティとふるさとの文化を繋ぐひとつの糸のような存在なんだと思いました。
 実際に触れたサムルノリの音楽は、半島の土地に根付いた音楽が根底にありました。彼らの太鼓と鐘のアンサンブルは、たとえば和太鼓と比べると、よりリズミカルに感じます。そしてなにより驚くのが、どう見ても楽な演奏には見えない全力での演奏を、延々と休むことなく叩きつづける、その体力にびっくりします。もの凄いものだと思います。そして観客席から見ると、金徳洙さんの腕が、左右に早く動いて千手観音のよう。というのは言い過ぎでしょうか・・・2曲目は、鐘が加わります。大きな鐘はベースとタイムキーパーのような役割を果たしていて、その上を太鼓がそれぞれ自由に飛び跳ねるように踊っていて、全体は非常に複雑なリズムを表しています。この曲が一番長かったでしょうか。休憩をはさんでの3曲目は、リボンのついた帽子を回しながら、立っての演奏になります。まるで、この演目にあわせたかのように真っ暗やみになった会場の中を、ひらひらと帽子のリボンが舞っていて、とても綺麗に見えます。もちろん彼らの演奏は、踊りながらだといえ、ぞんざいになることはなく、座ったのと同じクオリティを保っています。いや、ほんとうにすばらしい!
 アンコールでは、彼らはステージからおりて演奏を始めました。彼らをとりかこむように観客が集まって踊り出します。彼らの演奏は、もともとは祝祭の音楽。みんなで踊る姿こそが、本来の姿なんだとも改めて思いました。もちろん私も一緒に踊りにならない踊りをしたのです。
 現在のコンサートは、舞台や構成の都合から、段取りもアンコールもあらかじめ決められ、その時々の盛り上がりでからハプニングも起きずらいのですが、この日このコンサートで起きた、盛り上がりはごく自然なものでした。
 そんな楽しんだ会場を後にして、帰りの電車でツイッターのタイムラインを眺めれば、この日も秋葉原では、拝外主義をスピーチするいわゆるヘイトデモが行われたそうで非常に残念なことです。金徳洙さんは、コンサートの始まりに「みなさまの幸せを祈るために演奏する」と言って演奏を始めました。デモというものも、ひとつの祝祭と捉えるなら、それは、みんなが幸せに暮らせるようにするためのお祭りでなくてはなりません。誰かを排除するための祭りなど起こしてほしくない。サムルノリのアンコールの祝祭を体験して「へイトするくらいなら、みんなで踊ろうぜ!」なんてことが頭をよぎるのです。

自己陶酔の言葉(過激な言葉の麻薬性)

 テレビを見ていると、女優の杉田かおるさんが出演していました。それは自分の失敗経験を取り上げるというつくりの番組でした。テレビをしかもバラエティー番組など見ることは珍しいのですが杉田さんのコーナーはたまたまみてしまったのです。彼女は失敗の多くを、自分の傍若無人ぶりに求めていましたが、一時期のテレビは、そのことがおもしろおかしく取り上げられていたのも事実。タレントたちの極端で過激な意見や行動は、テレビ上では目立つし面白がられますが、それは反面で自分自身をぼろぼろに浸食していく。これ、テレビ業界の恐ろしいところかもしれません。杉田かおるさんはこういう世界から脱出できたこと、良かったのだと思います。
 極端で過激な意見といえば、最近に問題化したのが、長谷川豊さんのブログ記事での、人工透析患者に健康保険など必要ない、生活の不摂生など自業自得なのだから、全部自腹を切れ。という意見が批判されました。人工透析の患者のなかには、先天的にそうせざるを得ない人もいるのですから、透析の患者が怒るのはごくあたりまえのことです。案の定、彼はかかえたレギュラー番組を降板することになりました。形ばかりのお詫びを述べつつも、彼はこのことを、本心では「世間の理不尽な仕打ち」とうけとっているようです。
 降板したテレビ番組で、彼と一緒に出演していたアナウンサーが、彼の人となりを「目出ちたがり」と称していました。毒舌ゆえにレギュラーのテレビ番組を持ち、それなりに面白がられた長谷川さんですが、その毒舌ゆえに身を滅ぼした。ということなのだと思います。他人への批判を吐き、過激な言葉を連ねてブログを装飾するのが、彼の目立ちたがりゆえだというのは想像ができることで、自身が吐いた言葉に自分自身が中毒になってしまったのだと思います。それは杉田かおるさんのケースと似ていると思います。
 よく、動画で見かけるヘイトデモへの参加者は、なぜかへらへら笑っています。たまたま乗り合わせた電車で遭遇したヘイターも、ヘラヘラと笑っています。何故なのだろうと不思議でしたが、「殺せ!」とかいう言葉を自分自身がはく。自分自身がその言葉に陶酔している。それは「言霊」のようなものかもしれませんが、それよりは言葉の麻薬としか称しようがないですね。もともと思慮も分別もある大人が、目立ちたい注目されたいがために、より過激な言葉、より過激な意見を吐く。言葉を発した本人は、その言葉をコントロールしているつもりなのかもしれませんがまるで逆です。むしろ悪意のある言葉が、自分自身が蝕まれていく。しかもやっかいなのは、たぶん快感と陶酔を伴っていること。アナウンサー出身だからこそ、長谷川豊さんは言葉をコントロールできるという自負があるのでしょうが、彼に起きたことは、自分が吐き出した言葉の魔力に自分自身がはまっていったのだと思います。
 私自身、ここで書いているブログは、よりたくさんのひとに読んでもらえたらよいなと思います。そのためには、タイトルはこんな感じにして・・・と思ったり言葉を選んだりします。内容をわかりやすくするためには、よりはっきりとした言葉を選択することもあります。
 その作為は、言葉の麻薬とうらはらなんだろうと思います。前回は内面を探索することの無意味さを記事にしましたが、それと似たことかもしれません。書くこと話すことで形作られる内面というのもある。自分で吐き出した言葉は、口先だけに済まなくて自分自身の内面を蝕んでいく。言葉の恐ろしさはそんなところにもあります。

知る由もない(内心の自由について)

もう半月もまえのことですが、民進党の党首選のときに、どこからともなく蓮舫さんの二重国籍疑惑が問題とされました。反リベラルというお題なら、なんにでも口を挟むおなじみの論者たちが、やかましく騒ぎ立てるのはもちろんですが、そのとき勇ましく騒いだ人々のなかには、特に反リベラルというわけでない人たちまで含まれていたのが、実は、世間に刻まれた差別構造の根深さを表しているように思います。
 たとえば、毎朝の起き抜けに聞くラジオの、パーソナリティの森本毅郎さんは、当時にこの問題を毎朝取り上げ、政治家の二重国籍を「問題だ」と述べていました。この騒ぎを「差別ではないか?」と疑問を呈する岡田党首の反論までも「差別とはちがう。差別とみなすのはおかしい。」とまで述べています。寺島実朗さんのような論者からも同じような意見が述べられ、夏野剛さんなども、二重国籍が問題なのがなぜなのかわからない。という職場の女性に説明して「ふーん、そういう考え方もあるのね」と言わせたエピソードを述べています。法律の条文にあいまいなところがあるのでしょう。あいまいさを嫌うなら二重国籍が問題となるのかもとなるのかもしれません。
 ただ、このことを問題と述べたてる、彼らの思考の枠組みが、排他的な心情から発せられていると思うのです。そして、そのことを彼ら自身が気がついていないようです。日本国籍を持とうとする行為は、たとえ二重国籍だろうが三重国籍だろうが日本とかかわりを持とうとする態度なわけで、そもそも日本を貶めようと日本国籍を取得する行為があるだろうか?と想像してみましょう。
 これは、前提条件がそもそもおかしいのです。国内で語られる粗雑な安全保障論が「すきあらば、隣国は海を渡って日本を占領しようとたくらんでいる」という、きっかいな大前提から始まるのと似ていると思いました。民進党の党首選がおわれば、世論調査の数字は、蓮ほうさんの二重国籍を問題ではないと述べた回答が過半数でした。あたりまえのことで、父親か母親のどちらかが外国人であるなんて子供がクラスメートにいる。なんてことは都市でも地方でも珍しくもなんともありません。マスコミ報道の騒ぎは、いまでは、時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安を代弁しています。
NHKアニメワールド おじゃる丸 | おじゃる丸となかまたち

かつて、NHKの子供番組に「おじゃる丸」というアニメがあって子供とよく見ていたものです。その個性的な登場人物のなかに「ほしの」という宇宙人の一家がいました。かれら一家が地球にやってきた目的は「地球を征服する」ことなのですが、とてもシャイな彼らは、けっしてそのことを言い出すことができません。おじゃる丸をはじめとした周囲の人々(登場人物がすべて善人!)は、そんな彼らの内心など知る由もない。そして、アニメ画面では平和な日常が続いています。相手の内心など詮索してもしようがないことなのです。思想信条の自由と結びつけるのは「内心の自由」の積極的な意味ですが、裏側では、しょせん他人の内心のことなどはわかりはしないし、むしろ詮索などするべきでない。という意味が含まれていると思うのです。
 日本のおじさんたちのきっかいな意識と言動は「おじゃる丸」の善人たちの行動とはまるで逆です。もしも彼らが「おじゃる丸」に登場すれば、彼らは「ほしの」一家に対して、きっと執拗な疑いをかける。やがて、それだけではすまなくなり、登場人物たちを片っ端から疑いにかかるでしょう。そこで「おじゃる丸」の善意の世界は崩壊し、とげとげしい世界に変わってしまう。いらぬ内心の詮索は、世間を世間として成り立たせている「社会への信頼」を滅ぼすのだと思っています。時代の変化に思考がついていけないおじさんたちの不安と、代弁するマスコミ報道の騒ぎに、そんな不安を感じるのです。

意外とおもしろい「さいたまトリエンナーレ」

f:id:tochgin1029:20160925223003j:image 昨日から「さいたまトリエンナーレ」という、現代美術のイベントが始まりました。議会では、これは単なる税金の無駄遣いではないか?なんて疑問のあるようですが、既存の施設を利用して行われるイベントに、それほど過剰さはなくて、一市民としてはとりあえずもイベントが成功することを祈ります。
 で、自宅近くでもそんな展示物をみることができるので、さっそく見学しました。別所沼公園では、大きな船のオブジェが沼のつり人と共存しています。海なし県の埼玉で船?と思うのですが、実はこのあたり、ほんの1000年くらいまえでは内海の端っこだったそうです。そんな土地の記憶をテーマにすれば、海というのはふしぎでもなんでもないテーマですね。
f:id:tochgin1029:20160925223018j:image つぎに、遊歩道をあるくと見えてくるのは、「さいたまサラリーマン」という巨大なオブジェです。これラトビアの美術家の作品だそうです。このあたり典型的な住宅街であって、平日の朝ともなれば、このサラリーマンのまえを無数のサラリーマンが駅に向かって急いで通り過ぎます。そんなサラリーマンにたいする批評のようでもあります。横に寝ころぶ姿は、のんきさや堕落のようにも受け取れます。けれどもその体中に、クモがはいつくばっているのが不気味ですね。これが、毒グモなのだとしたら、毒グモに囲まれているのにもかかわらず、身の危険を全く感じていないのんきなサラリーマンとでも形容するべきでしょうか?非常に毒気とか皮肉の効いた表現なのだろうと思います。
 近くの、部長公邸と呼ばれる家では、作成過程を見せる作品が展示されています。近くの係員に聞けば、白く塗られた壁に描かれた鉛筆画を、やがて会期の終盤に、みんなで消すそうです。美術の作成と崩壊までを題材とするのですね。そういえば、近代まで美術が相手とするのは、静止した世界のことですね。けれどもここでの作品は、生成されてから消去されるまでの時間軸をも作品として取り込もうとする試みのようです。
 そして、もうひとつの公舎では、家の備品をまるまるアートとして見せる試みを展示していました。この作品の主役は「家そのもの」なのです。中にはいると、ただの備品であるテレビやレコードが突然に鳴り響きだし、ベランダにイヤホンを差し込めば、いきなり住人家族の会話が流れてくる。そういえば、この家は職員のための住まいでした。職員は転勤すれば、この家の主たちは次々と変わっていきます。そうして通り過ぎていった家族たちの記憶を、この家は覚えているのです。
 こうやって、読み解きならが眺める現代美術はとても楽しいものです。となりでみていた家族は、こういった作品は、とかくちんぷんかんぷんな代物なのでしょう。係員に「そもそもこれはなんなのか?」と質問する家族がいましたが、それでいいのだと思います。そういえば、わたし自身が、今日眺めた作品の作者が誰なのかさえ全く記憶してません。このような現代美術の楽しみかたは、そんな日常の視点を、ほんの少しだけずらすことで現れた「非日常」や「ちんぷんかんぷんさ」を、そのまま楽しむことなのだと思います。

川の流れのような道(中山道を巡る3)

f:id:tochgin1029:20160903171528j:image 宿のご主人は、私が街道歩きをしていることがわかると、いろいろな話をしてくれました。とりわけ大津祭の話になると熱く語っていたのが印象的でした。山車の車輪を修理するのは、非常にお金がかかるということ、高齢化で自治会に14件しかないので、自治会費が高額になるとか。重要文化財に指定されれば役所から補助がでるらしく、やりくりは楽にはなるのだが、その分だけ監査が厳しくなるらしい、自由さはなくなると語っていました。大津に落ち着くまでいろいろい苦労もしたとかいう話は、実に戦前までさかのぼりますので、一見若くみえるご主人は、とうに70を越えているのですね。
 さて、大津の宿の近くにある三井寺に立ち寄りました。堂の中には仏像が納められています。江戸、室町、鎌倉、平安と、やっぱりそれぞれ時代ならではの特徴が見えます。平安時代の仏像はどこかエキゾチックな風貌です。それが、鎌倉時代になるとリアリズムが生まれてきます。そのリアリズムは、室町時代では劇画のようなデフォルメが入ってくる。そして、江戸時代では形式的になる。デフォルメがリアリズムを飲み込むのですね。
f:id:tochgin1029:20160903172021j:image道に戻り、大津から京都までの道に入ります。行程の最初は、となりに京阪電車を見ながらの行程です。JRが京津の間を長いトンネルで一直線に越えるのにくらべ、京阪電車はといえば、うねうねとした道路と一体になって登っていきます。たぶん相当な急勾配でしょう。
f:id:tochgin1029:20160903172035j:imageその途中に蝉丸神社があります。百人一首でおなじみの、蝉丸にちなんだ神社です。蝉丸は天皇の皇子であるにも関わらず、盲目だということで帝になる道は絶たれ僧形にされ、捨てられたも同じような状態で、この地にわびしく暮らしていたとのことです。いまでも、この神社の付近はわびしい雰囲気が漂っていますが、不思議とそこには怨恨の匂いは感じられません。わびしい場所で、蝉丸が吟じる唄はまるでブルースのようだったのでしょう。だからこそ呪いや祟りにはならない。NHKの紅白歌合戦で「うたの力」というキャッチフレーズが掲げられたことがありますが、いやいや本当の「うたの力」とはこういう事なんだろうと思うのです。なお、蝉丸は日本の芸能事の祖とされているとのこと。
f:id:tochgin1029:20160903172201j:image山を越えれば山科の街に入ります。大津と山科の山道には、かつて石がしかれていて、自然なのか人為的なのか?車輪が踏みつける場所が二本の溝状になっているさまを車石と呼んでいたそうです。途中の寺では模型が置かれています。そして、京都~大津の間は、年間15000台もの牛舎が通行していたそうです。大津からは琵琶湖の水運への積み替えもあったこともあり、たぶん相当に交通量が多かったのだろうと思います。いまだって隣を通る国道の交通量はものすごい。とうに時代が変わっても、道の重要性が全く変わっていないことも気づきます。
f:id:tochgin1029:20160903172225j:image 山科でいったん山を降りた道は、街をでて再びの登りに入ります。このへんの国道を、かつて中学生の修学旅行で訪れたときに、バスで通ったことを覚えています。その時、隣を走っていた京阪電車は、いつのまに地下鉄に変わっていて、なんのへんてつもないバイパス道路の風情に変わっています。九条山を越えるあたりは旧道に入りますが、家は新しいものであっても、集落の屋根の連なりの様子は、まるで広重が描いた街道風情のようです。山をおり蹴上までいけば京都の街に入ります。たくさんの観光客と遭遇します。東京ほどではなくても、最近は京都の人の多さも相当のものです。
f:id:tochgin1029:20160903172403j:image三条大橋に着きました。これまで通った道を思い出して、感慨にふけるのかといえばそうでもなくて、意外にも淡々とした心地なのですが、これから京都観光をするという気もなく、ずっと鴨川の流れを見ていました。鴨川というのはぼーと眺めるのにちょうどよいサイズの川で、右へ川が流れているのを見ながら想います。地を這って身体を使って歩いた東京と京都の行程は、たしかに自分の世界観を変えたように思います。車や新幹線の窓から眺めた景色が世間のすべてではないこと。コンピュータの画面から眺める景色が世間のすべてでないこと。地を這いながら、年も格好も性別も違ういろんな人たちが、同じ空の下でそれぞれ暮らしていること。あたりまえですが、そんな世間の広さを体感した旅だったのです。

生活の匂いのする道(中山道を巡る2)

f:id:tochgin1029:20160903171631j:image昨日は熱中症気味だったようで、倒れるように宿に駆け込みました。せっかくなので、泊まった近江八幡の街を出がけに歩きました。宿をでて駅とは反対方向にあるくと、その旧くからの町並みが残るエリアにたどり着きます。この近江八幡は、かって安土城の城下町にすんでいた町民が移り住んだまちらしく、旧くからの町屋が残っています。ところどころにヴォーリズ由来の洋風建築が残りますが、実際に町の風景をこしらえているのは、旧くからの町屋です。これまで、湖北湖東の建物は弁柄の赤い柱が特徴でしたが、ここではもう見かけません。そして、敷地が広い家が多いのに感心しています。近江八幡は「近江商人発祥の地」と自称していますが、さもありなん。街を歩いたときに、そこが豊かな街かどうかというのは、意外と街の風景に現れると思うのです。
 さて、近江八幡から守山までの東海道線は、エスカレーターの片側あけがこのあたりではまちまち。近江八幡では右空けだったのが、守山駅では左空け。東京の右空けと関西の左空けの境界はこのへんだったり。などと思いました。
f:id:tochgin1029:20160903171543j:image 守山から草津までの道も平坦な道がつづきますが、旧道を歩く今日の道のりは、それほど殺風景ではありません。途中では大宝神社という場所で休憩をしました。緑のあふれる居心地のよい場所だったのですが、その神社がたつ地名が「綣」と呼ぶ、ふりがななしではとても読めない地名でした。また、その次に現れた橋は、百百橋と書いてある、ちょっと読み方もわからない不思議な地名が続きます。
f:id:tochgin1029:20160903171858j:image草津宿につきます。ここが東海道中山道の合流地だというのはよく知られていますが、いまでも街道沿いは、街の中心部です。屋根付きのアーケードがかぶせられた街道には、商店が並び近所の人々が歩いて買い物をしている。ほんとうににぎやかです。そして、東海道中山道の追分もその真ん中にあるのです。休憩がてら資料館になった本陣を眺めます。この宿には「貫目改め」という設備があったそうで、公儀に関する荷物について、中身を空け検閲することのできる施設です。帝の住む京都は、江戸時代でも政治的に重要な場所です。
 草津の町を過ぎると、上がり下がりの多い坂道が続きます。なんの変哲のない住宅地が続くあたりは、今日の行程では、一番に道中のきつさを感じるところです。食堂もないので、JR瀬田駅のあたりまで行き、昼食を食べます。ここでは都内のせかせかした昼飯と違い、サラリーマンはのんびりと昼食をとっているのが羨ましくなります。もう一方では、関西という土地柄か、つきることなくタイガースの話題を話しているおじさんたち。聞き耳をたてると、「おれはマニアではない」と自称していますが、いやいや十分マニアだと思います。
f:id:tochgin1029:20160903171802j:image上がり下がりの多い道はさらにつづき、おまけに折れまがる道はわかりづらい行程です。その途中に近江の国庁跡がありました。考えてみれば、県庁所在地の大津は、滋賀県の西端なのですね。これはやっぱり京都との距離感といのが関係するのでしょう。奈良平安の近江の役所も、こうした国の西端にあって、隣の建部神社ともども、京都のほうを向いています。
f:id:tochgin1029:20160903171541j:image 住宅地のアップダウンが終わり平地に降りると、突然風景が一変します。それまでの住宅地が、京都の延長のような町並みが現れて、じきに瀬田の唐橋に到着します。看板やガイドブックには、「瀬田の唐橋を制するものは、天下を制す」といった言葉がかかれています。たしかにこのあたり、山が近くにまで迫っていて、京都の街からすれば喉仏のような位置関係です。京都を攻めようとする者は、ここを通らなければたどり着けない。京都の街を守ろうとする者は、この瀬田の川を越えられたら、京都の街まであっという間。このあたりは、今でもそんな風情が残っています。
 ここから大津の宿までは市街地を歩きます。琵琶湖は間近なはずなのですが、道中の景色に飛び込んでくることはあまりありません。そして、新幹線を眺めながらの道中も、いつしか京阪電車にかわります。サラリーマンたちの出張の乗り物である新幹線と、日常生活のゲタ代わりに乗る京阪電車の違いはここにも現れていて、道ばたのあちこちで、おばちゃんたちが世間話をしている光景に遭遇する、とても生活感のあふれる道です。
f:id:tochgin1029:20160903171715j:image実はこのあたり、木曽義仲が敗死した場所でもあって、義仲にちなんだ義仲寺というお寺があります。知らずに入ったとたん、おばちゃんの「入館料300円」の言葉が飛んできます。あまりに見事なおばちゃんの口上に有無も言えずに、入館料を払ってはいるはめに。寺の中は、義仲というよりは、芭蕉の句と天井の伊藤若沖の絵が印象的なお寺でした。
 平日の夕方という事もあって、市街地はしだいに通勤帰りの人々が行き交うようになりました。京阪の浜大津をお過ぎて、少し京都よりに進んだところに大津宿の本陣跡があります。今日の行程はここまでです。周りには近江牛の飲食店があるのですが5000円くらいかかり、「高いなあ」という印象。ちょっと節約したい向きには手がでないなあ。というところです。

きれいな水を眺める道(中山道を巡る1)

f:id:tochgin1029:20160903120740j:image 中山道を歩くのも今回で終わり。武佐から京都までの歩きです。山の中なら日差しがきつくても木陰にあたれば涼しく感じますし、水の流れが近くにあればたとえ暑くても心理的に涼しく感じることができますが、遮るものがない平野部での道のりは、けっこうきついです。前回の旅の終着点であり今回の旅の始まりである武佐の宿は、そんな平坦な場所です。日本橋からえんえんと歩いて、ゴールを前にして、このあたりは心理的にいちばんつらく感じるエリアかもしれません。
 武佐の集落からの道、平坦で単調な道のりです。近くには実業家の邸宅があります。田んぼが続く道のりは、前回歩いたときは田植えがおわったばかりの5月でした。今度8月もおわりのころ。稲も実っています。
f:id:tochgin1029:20160903120820j:image そんな単調な道の途中に、小野川という川にあたります。江戸時代の当時に、2台の船をつないだ舟橋で渡っていたそうです。その舟橋のあったあたりは、今では、何の変哲もない草むらで、橋まで土手を通ります。どこか殺風景な印象です。
 しばらくいくと、鏡の宿という集落があって、このあたり道の駅もあって休憩にちょうどよいところです。武佐から守山までの道は13キロの長さがあるので、距離が長いぶん、このような途中に間の宿を設けているのでしょう。道の駅の反対側には、ここで義経元服したという神社があります。中山道というのは、たしかに江戸時代になって整備された道ですが、かといって江戸時代に人工的に作られたルートではなくて、それ以前から生活路として使われていた道が、あらためて整備されたのだと思うのです。中山道を歩くと、その土地土地の歴史的な記憶を感じながらの旅となるのです。そして、総じて東よりも西のほうが江戸時代よりも前の「土地の記憶」といったものを濃厚に感じることができます。
f:id:tochgin1029:20160903120900j:image このあたりはため池が点在します。そしてそのひとつには蓮の花が。ほとんどは枯れていましたがポツポツと花が残っています。そして、近江を歩くと、ただの道路脇の用水路であってもだいたいは水がきれいで、水の中に魚影が見えます。単調なつらい道のなかでは、わずかだけれど涼しさを感じます。新幹線の高架をくぐれば野洲の町に入ります。街道沿いは、現在の中心地とは違い、なんの変哲のない住宅街です。
f:id:tochgin1029:20160903121018j:image美濃の歩きでは、木曽川、ながら川、揖斐川といった大河を近くに視ながらの旅でしたが、近江の歩きではそういった大河が存在しないのが、風景の特徴です。それでも、野洲川は近江ではわりと大きい川のようです。隣には東海道本線や新幹線、高速道路が並びます。そういえば、途中にも大企業の事業所が点在していました。交通の便がよいことも関係があるのでしょう。
f:id:tochgin1029:20160903121039j:image 守山の宿には、意外なほどに古い建物が残っていました。立派な門のある寺を見るのも久しぶりです。宿の先にある土橋という橋までで今日の道のりはおわりです。川の水はやっぱりきれいで魚影も見えます。そういえば、中性洗剤を禁止する条例が、全国でいち早く定められたには滋賀県だったのを思い出しました。いまでも、きれいな水への感度が高い土地なんだと感心します。
 古くからの宿場町から駅までの道は「銀座」と名のつく中心商店街で、予想外にも、マンションが建ち並んだり、モダンな小学校が建っていたりあか抜けた場所でした。今日の宿は守山ではなく近江八幡にとっています。古い町並みや洋風建築の楽しみな場所です。