保元物語を読む(軍記物のおもしろさ1)

 あまり読まれることもなく、かたすみに鎮座しているのが、図書館の中での、古典文学の扱いではないでしょうか。そんななかにある「新日本古典文学大系」という全集ものを読んでは、古文の魅力にはまってしまう。たかだか100年そこらしかない言文一致体による口語文にくらべれば、それ以前の文語体やさらにさかのぼったいろいろな古文の世界は、洗練された表現の積み重ねは、口語文とはまるで比較にならない厚みがあります。うだうだと「自分語り」におちいりがちな口語文とは異なる世界が広がっている。以前の記事でもいくつか書きました。
 ただいま読んでいるのは、鎌倉期に成立したとされる軍記物のひとつ「保元物語」です。「平治物語」「平家物語」「承久記」と合わせて4大軍着ものとまとめられるのは、それが、新しい権力者となった武士階級にとっての、アイデンティティとか建国神話を意味するのだと想像しています。保元物語では、武士たちはまだ権力者に上り詰める前のこと。摂関家や王朝の従者であるばかりに、駆り出され戦わざるを得ない悲哀の世界が描かれています。物語で出色なのは、もちろんさまざまな由来をもつ武者たちの戦いのシーンです。たがいに名乗りながら矢を合わせ、矢が刺さり馬からが崩れ落ちた武者を狙って、鎧のすきまから刀を差しとどめをさす。一騎打ちの戦いはそんなふうに展開していきます。そのひとつの戦いのバリエーションが、武者を変えて繰り返し繰り返し変奏されていくのです。橋本治さんが言うところの、文章がそれ自身でドライブしていくというのはこのことで、繰り返し繰り返される戦いのなかに、戦いの激しさや武者たちの悲哀も、かすかに感じられます。けれど、この古典文学の文体には、自分の内面を語る「わたし」は、現代文のようにはでしゃばってこないのです。
 武者でもないのに鎧にそでを通し、戦によって命をおとすことになった藤原頼長についてもいえることです。いくら、宮廷の儀式に精通し博識であっても、戦に関しては全くの素人だった頼長が、流れ矢にあたる。武者であるならばさっさと自害して果てるところで、我を忘れ半死の状態のまま父の忠実に会いに行く。現代文であれば、その頼長の訪問を拒否する忠実と頼長の葛藤の場面は、饒舌な言葉で語られることでしょう。しかし、ここでは両者ともに「涙した」という言葉でおしまいです。逡巡するような内面はここでは過剰に語られません。
 過剰な「内面語り」のないことは、とても物語の外形上の描写を見通しよくしてくれます。保元物語を読み終えてわかることは、前例のない王朝内部での戦が、政治は知っていても戦をしらない貴族の悲哀と、戦は知っていても政治を知らない武者の悲哀を呼んで、そのあとの歴史を動かしていったということ。古典文学の描写は、そんなスケールの大きな物語を簡潔に描写してくれるように思えます。