故郷での同窓会から…

お盆で里帰りをして、故郷では中学校の同窓会がありました。中学生の時に暮らした町ではただひとつの中学校。いまから思い出すと、懐かしさのあまりにはしゃぎ過ぎたかなと、少し恥ずかしくなります。
中学校のころにおとなしかった自分は、話した友達もそんなに多くはないけれど、不思議なもので、顔を見れば中学生の時にさして仲良くもなかった同窓生なのに、意外と話ははずむものです。35年も前のことなので、既に他界した同級生もいれば、仕事が忙しくて出席できなかった人、来ることもできないくらい遠くで暮らしている人、もちろん中学生の当時の悪い思い出がわだかまっていて、はっきりと「行きたくない」という意思だった人もいるでしょう。出席率にしたら3割くらいだったと思います。
 それでも、100人をすこし超えたくらいの同窓生の現在の人となりを眺めたり、ひとことふたことの近況を話しただけでも、卒業してから35年という月日の重みを感じさせます。地元で会社を経営している同窓生はまったく社長さん然としたたたずまいだし、35年のあいだに辛酸をなめていた人、まったく往時とはたたずまいも変わっていない人さまざまです。私自身のように地元を離れて暮らす同窓生が、総じて郷愁のように昔を懐かしむ姿と比べれば、地元で暮らしている同窓生は、意外にも淡々としていたことを思い出しました。地元で暮らす彼らにとっては、この場所は懐かしむというよりも生業を持って生活している場所なのであって、ノスタルジーにばかり浸れる場所ではないのだと思いました。ただ、安穏と生きていようが生きていまいが、どの人も過ごした年月や体験は身体に刻まれているのがよくわかります。そしてただひとつとしてそれぞれでまったく同じものはないのだな。という感想を持ちました。
 そのお盆という季節は、テレビでは、毎年のように戦争を振り返る行事やテレビ番組が放送されます。それらの番組をながめてわかるのは、何十万という現地の人たち、日本から移民した民間人も、両軍の兵士たちも、従軍などしないでいれば過ごした人生のあれやこれやの可能性が、兵士として従軍することや戦争に出会ってしまったことで途切れてしまったのだ。ということ。ひとりの人間が過ごす人生はそれぞれ別なものであって、2つとして同じものはないはずなのに、兵士として従軍するということは、そのべつべつの人生が、○千人とかいう数値に換算されてしまう。ひとりひとりの個人個人の人生の可能性をぶち壊しにしてしまうこと。その愚かな行為に手を染めさせる。全体主義こそ憎まれるべきものだと思います。

 

台地に住む人たち盆地に住む人たち(甲州街道を歩く11)

f:id:tochgin1029:20170726185133j:image前日の晩はつよい雨が降ったようで路面は濡れていました。わたしはといえばそれに気が付かないほどぐっすり寝ていたようです。泊まったさきの甲府のビジネスホテルには、小学生の団体が大勢でとまっています。そういえば夏休みが始まったことにいまさら気が付きます。前日に比べて気温が低いのはいいですが、いつ雨が降り出すかわからないような雲行きです。雨具を着けるのはあまり好きではありません。降らずに済むことを願いながら出発します。穴山駅までの列車からも雨にぬれた路面が見えます。
f:id:tochgin1029:20170726185159j:image下におりて昨日の歩きを続けます。あいかわらず殺風景なバイパスの国道沿いですが、穴山橋を渡ると旧道に入ります。旧道に入ると少しだけ古い建物と旧い街道沿いの集落の雰囲気を眺めることができます。台ケ原までの10キロ以上もさある道中には、このような古い建物が残る集落が点々としていて、それほど退屈はしない道中です。武川という集落では恒例の朝市をやっています。道ばたで案内をしている若い人にあいさつすると、どちらまで?と聞かれます。甲州街道を歩くというと、少し呆れたように「頑張ってくださいね」と言われました。
f:id:tochgin1029:20170726185227j:image台ヶ原の宿場の手前には、古道が残っていて、その道を進みます。定期的に整備はされているようですが、季節がら小さな草が路面を覆っていてすこし歩きづらい道です。
 たどり着いた台ケ原の宿は、これまでの道中を思い出しても、比較的旧い宿場の雰囲気が残っています。古い建物はリノベーションされておしゃれなカフェや雑貨店などに模様替えしています。地味な街道歩きの中で、このような、華やかな観光客の姿を眺めると、すこしだけ自分がなにか場違いなところにたどり着いてしまったような気になります。その台ケ原の中でも、人を集めているのは二軒のお店で、生信玄餅の金精軒本店と、地元では有名な造り酒屋の七賢の酒蔵兼店舗です。
f:id:tochgin1029:20170726185254j:imageなかに入った七賢の店舗では、麹を使ったドリンク類を販売していて賞味にあずかります。暑い盛りの栄養ドリンクとして、冷たい甘酒が見直されているようですが、ここでもメインは、お酒よりも甘酒のほう。ここで飲んだ甘酒の甘さは、スポーツドリンクよりも自然に身体になじんでいくような気がします。
 台ケ原からは、延々と上り坂が続く、体力を奪うような道です。途中の教来石宿は、宿場のはずなのですが、こんどはどこからどこまで宿場なのかはっきりしませんね。それにしても七里岩の長いこと長いこと!ここまで延々と歩いても歩いても右手にはずーっと崖が続いています。あいにく雨も降ってきたので、神社の境内でひと休憩します。こういう時に道ばたの神社があるのはほんとうに助かるもので、これまでの街道歩きでもときどき助けられています。
f:id:tochgin1029:20170726185347j:image教来石を過ぎた集落のはずれには、突然のように関所あとが現れます。そういえばこのあたりで甲斐国は終わり、信濃の国に入っていきます。
 まもなく、信州最初の宿場の蔦木に到着します。今日の行程はここまで。この集落には公共交通機関というものがまるでありません。もよりの駅は信濃境駅ですがやっぱり崖の上にあります。この日もJRの駅までの崖を登る道をあるきます。
f:id:tochgin1029:20170726185425j:imagef:id:tochgin1029:20170726185431j:image蔦木のあたりでは、標高は730Mでした。登りきった先の集落で標高を見ると900m!わずかな距離でこの標高差の違いを見ると、ここでも崖の上と下は別世界のようです。このあたりには遺跡とか博物館があるようで、とても魅力的な施設なのですが、見とても見学する余力はありませんでした。。
 JR信濃境駅に着くと、次の列車までは一時間以上。さいわい駅前で一軒だけ開いていた喫茶店に入ります。この店はいでたちの上品なご夫人がひとりで切り盛りしているお店のようで、店内はピアノが置いていて、クラシック音楽がずっとかかっています。がさつな関東の国からきたわたしには、とても浮世離れしたような空間でした。
f:id:tochgin1029:20170726185457j:image実はわたしの母親も信州生まれで、どこか教養好きな面を持つ信州人には、クラシック音楽好きという印象があって、田舎のお店にクラシック音楽なんて、いかにも信州っぽいなと思いました。それまで歩いた山梨の甲府盆地あたりの人たちだと、印象はそれとは反対で、教養よりも実利を重んじる商売人という印象。食事をしたお店や買い物をしたお店のどちらも損得にならないことには淡白な印象をもっています。おもしろいのは、そんな気質が甲府盆地から崖を登り台地を抜けて、信州に近くなるにつれて、グラデーションのように気質は変わってくるように思います。特に八ヶ岳近辺の信濃境での浮世離れしたようなお店を見つけて、どうみても甲府盆地あたりのひとたちの人柄とは違っていて、その違いをとても面白く感じています。
さて、甲州街道も信州に入るとゴールはまぢかです。次の旅では、いよいよ下諏訪にいよいよ到着します。

崖の上と崖の下(甲州街道を歩く10)

f:id:tochgin1029:20170726013319j:image甲州街道の歩く道中ですが、前回は甲府まで歩きました。甲府の街は、まんなかに甲府城が鎮座していて、政治経済からなにからなにまで山梨の中心です。駅前に鎮座する武田信玄銅像からは、どこか町全体がいかめしい印象を受けます。武田氏を滅ぼしたあとの甲府には、やがて徳川家の殿様がやってきたようですが、山梨といえば「武田」という印象が強くて、徳川の殿様の印象は薄い。ですから、いまの甲府の街も城下町の風情が強く、宿場町の名残りを求めるのは難しいようです。どこが本陣跡でどこが脇本陣の跡だったかも定かではなく、けっきょくは甲州街道と身延道の追分を旅の終わりにしています。今回はその追分からのスタートです。ともかく、7月の終わりにあるくのですから、今回は暑さと付き合いながらの歩きです。
f:id:tochgin1029:20170726013747j:image 少し歩くと、あっけなく街を抜けて郊外の風情となります。バイパスであろうが旧道であろうが、このあたりはまったくの車社会。歩く脇を自動車がすいすい通り抜けます。川を渡ると、その先には、大きくて印象的な木が建っています。昔の名残をのこすのはそのくらいでまわりは典型的な住宅地です。
 そこから少し歩くと、大きな公園があります。この山梨県を歩き続けてみると、とりわけ公衆トイレの少ないことや、たいがいトイレの設置されている小公園や広場みたいなものが極端に少ない印象を受けています。そんな数少ない公衆トイレのある公園にかけこむと、公園の中には立派な文学館や美術館が建っています。とりわけ、美術館はそうとうに力のはいった施設です。屋外には様々な近代彫刻が建っています。この山梨県立美術館は、ミレーの「落穂ひろい」を高額で購入したときに話題となったこととを覚えています。その美術館には客が途切れることなく中に入っていいきます。どうやら、国内の代表的なカメラマン101人の作品を網羅した企画展をやっています。通常だとこの手の企画は絶対に中に入って見学したいところですが、まだ旅もはじまったばかり、がまんして通り過ぎます。
f:id:tochgin1029:20170726013836j:image そのまま郊外風情の道路はつづいています。昼飯時には、安藤忠雄の作品らしく、いかめしい印象がする竜王駅のあたりで食堂を探しましたが、せいぜい1件くらいしか見つかりませんでした。ただ、中に入った定食屋のラーメンは予想外においしかったでした。その竜王駅のあたりは狭い道を自動車がびゅんびゅん割り込んできます、とても歩きずらいところ困惑していると、長い坂道が目の前に現れて、突然のように甲府盆地は終わります。いままで、びゅんびゅん飛ばしている自動車も、この急な坂道を上るためにアクセルをふかしながら登っていきます。もちろんわたしが登るのも息を切らしながら、こころの準備なく坂道を上るのはやっぱりつらいものです。登った先には台地がひろがっていて、あたりはすっかり高原の風景です。雲の多い空はとても遠くの山など眺めることはできないのですが、それでも起伏のある台地の道は、それまでのバイパス歩きに比べればのんびりしていて、とても気分のよい道です。起伏の多い台地上の道中では、視界に中央線が入ってくることはありませんが、道自体はほぼ中央線に沿っているようです
塩崎の駅を過ぎてから、韮崎までの道は線路に沿いながらの少し退屈な道で、釜無川を渡るとまもなく韮崎の街が現れてきます。
f:id:tochgin1029:20170726013942j:image韮崎の街は立派な駅前と立派な市街地を持つ街ですが、なにしろ35度を超える暑さですから、ほとんど誰も歩いていません。街を遠景で眺めた時にこの街を特徴づけるのは、何よりも遠くまで続く「七里岩」と呼ばれる長い崖線のことです。途中には崖に地蔵様が鎮座しています。そのひとつを音連れました。この先、中央線は崖の上を進みますが、甲州街道は、国道と一緒に崖の下を進みます。るあたりは、山梨では珍しい田園風景が広がっています。
f:id:tochgin1029:20170726014035j:image どこまでいっても崖は続きます。次の台ケ原宿までは16キロさきです。中間の穴山駅近辺までを今日の行程としました。ただし、ここから帰る方法が大変です。穴山駅は崖を登った台地の上、さっき歩き終えた甲州街道は崖の下です。崖の上に登るには、にあやしげな細い道を登らないとたどり着かないのです。登った先の崖上は崖下とは別世界です。田んぼが広がった崖下とは違い、崖上は畑が広がっています。ようやくたどり着いた穴山駅は、小さな無人駅でした。

エキセントリックの表出(山田詠美さんの恋愛小説)

無銭優雅 (幻冬舎文庫)


柄にもなく、ときどきは恋愛小説をむしょうに読みたくなるときがあって、その時に読むのは、山田詠美さんの諸作だったりします。短編も長編作品もたくさん書かれた山田さんの恋愛小説に、さて共通するモチーフってなにかあったっけ?などと考えてみると、恋愛もコミュニケーションのひとつだという、あたりまえの事実が提示されているのですね。
 数日前に、作家の平野啓一郎さんが、自身のアカウントでセックスもコミュニケーションのひとつだ。とツイートしていました。その意味は、恋愛がコミュニケートのひとつだということと同じ意味なんだと思います。でも、その言葉は女性作家たちの作品に体現されているように思います。例えば「無銭優雅」だと、どうにもうだつのあがらない登場人物たちの恋愛。どこかにエキセントリックな部分を抱えている女性。そして恋愛というコミュニケーションのなかで表出されたエキセントリックさは、受け止められて、反発されて、やがて許容されていく。長編作品では、そのエキセントリックさはやがて克服され、ハッピーエンドに終わっていきます。けれど、短編作品では、エキセントリックさは表出されたところでぶつっと終わる。読者であるわたしは、登場人物のその後を思い描いたりします。
 これだけ多作でキャリアの長いわりに、山田詠美さんの作品が、印象に残るような形でドラマ化されたり映画化されたことって少ない印象がするのです。山田さんの作品によく表れるエキセントリックな人間たちを演じるのはたぶん複雑で、映像作品として表現するのも難しいように思います。けっして浪花節のような、わかりやすい感動物語には収束されないし、人生訓や処世術みたいなものを小説の中に見つけようとする読み方への反発のようです。

 山田詠美さんの作品を読むたびに、人間誰しもそんなエキセントリックな部分のひとつやふたつは抱えているものだ。なんて気になります。

 

そういえば選挙だった

都内だと、すでに都議会の選挙が始まっています。自営の旧い工場や商店とかが立ち並んでいる職場の近くにはポスターが掲げられています。いつもであれば、掲げられているポスターのだいたいは、自民党一択なのですが、今回は少し様子が違っていて、貼られているポスターは2種類、自民党のポスターと都知事が立ち上げた都民ファーストの会のポスターを同時に掲げている店や工場が多いようです。自営業の家族だと義理立てで、都民ファーストの会自民党に分担して投票することも多いのでしょうか。
 都民ファーストの会では、ポスターには「ふるい都議会をあたらしく!」というキャッチフレーズが掲げられています。選挙ポスターの言葉としてさして目新しいものではないけれど、報道で流される豊洲市場の移転とか都議会自民党との対立といった、共通のコンテキストを知らなければ、その意味は、門外漢にはわからないだろうな?と思いました。読みかたによっては「古くなった都議会の建物を建て替えたいのか?」という意味にも受け取れますね。
 一方で自民党のコピーは、首相の顔とともに「進める責任。東京を前へ。」というコピー。これも、連日に報道される豊洲移転の問題を知らなければ、いったいなんの意味かわからない。東京を前へ、という文言は、門外漢にはウオーターフロンとの開発を進めよう!という公約にも読める。共通のコンテキストがなければ理解できない言語です。
5W1Hとかホウレンソウといったビジネスの情報伝達の視点では、どちらの文章もまるで落第です。戦後日本の広告コピーの世界は、そういえば、こうした共通するコンテキストを前提とした言語であって、そのコンテキストを共有しない人々にとってはまるで理解の及ばない言語です。
現代では、日本語の使われ方は、利害の調整、あるいは立場を規定する言葉としてしか使われていなくて、事実を伝達する言葉の機能が失われています。広告業界だと、その共通のコンテキストをコントロールしようとする技術だけが発達。
覚めた目線でその世界を眺めると、タレント政治家の登場のあと、その浅ましさばかりが現実政治の世界に入り込んでいるように思ういます。困るのはそうした刷り込みは、次第に個人の心身に侵食していくことです。

 

ラジオ体操をしながらの妄想

 やっかいな梅雨がやってくるまでの季節は、新緑がきらきらとしたここちよい季節で、すこし早起きをしてご近所の公園に行けば、だいたい6時半ころにラジオ体操をしています。多くの体操をする人たちは、もう仕事はリタイヤしたんだろうななと思う年配の人たちがほとんど。彼らが「久しぶりだね」と知人に声をかけあう姿を眺めると、毎日のように欠かさず参加する人はそう多くはないようです。

 ちょっとした大きさのこの公園のラジオ体操は、日曜日ともなればほんとうにたくさんの人々が集まります。この公園を歩きながら、大勢の年配の人たちを眺めて妄想じみた考えが頭をよぎります。
朝にこの公園にラジオ体操に訪れる人たちは、だいたい300人くらい。そして、訪れる年配の方たちの平均年齢をだいたい70歳と仮定するなら、その合計値は、300×70=21000にもなる。その途方もない数字に妙な感慨を覚えたのです。この21000という数字は、こどものときに眺めたテレビ雑誌に載ってた、ウルトラマンの年齢に近いことを連想します。

 この公園に集まる300人が人生を過ごした時間は、それぞれはまったく別なものです。そして、ひとりの人間が過ごす70年という時間も、まっすぐな時間ではなく、だいたいは曲がりくねった時間でしょう。1年1年がまったく同じことなんてありえないでしょう。

 その人間の営みの総体は、現在を生きる人たちだけが占有しているわけではなくて、過去に生きていた人、これから生まれるであろう人たちまでを含めると、それはそれは膨大なものです。
 お墓に祭られるご先祖様、神様として神社に祭られる権力者から、遠い過去にこの地で行き倒れた人たち、非業の死を遂た人たちといったひとたちまで、神として祭られるモノや人は、なにか特別なひとのように思っていましたが、どうやらそうでもないのだと思います。有名だろうが無名だろうが、地上に生きてきたひとたちの人間の営みの膨大さに気がつくと、怪しげな心霊現象や宗教などに頼らなくとも、人間の営みの総体それ自身が、すでに神秘的なものなのかもしれません。

 

ぶどう棚の道(甲州街道を歩く9)

f:id:tochgin1029:20170523233755j:image 甲州街道の歩きは、前回は勝沼まででした。それから1か月が空いてまごまごしているうちに、春は過ぎて初夏になっています。1か月ぶりにおりた勝沼ぶどう郷駅におりると、あたりの風景は、4月よりも濃い緑色に変わりました。甲州街道勝沼宿から勝沼ぶどう郷駅までの離れた距離を歩くのは、前回はつらかったのですが今回はその逆。体力は十分だし、延々と葡萄畑が続く途中の道も快適に歩けます。ブドウの実はまだ小さな緑の小粒。農作業もいまが盛りらしく、手入れをする農家の人たちの姿を眺めることができます。f:id:tochgin1029:20170523233911j:imageJRの駅と離れた勝沼宿のあたりのほうが、古くからの街です。途中には田中銀行という建物があり、意外とモダンな建物とか寺社もあります。大善寺を見学したときに、この地のぶどう栽培の歴史の古さにびっくりしたのですが、この勝沼は、おもったよりも歴史の深い町であることを知りました。
f:id:tochgin1029:20170523233937j:image 街はずれには古い神社があり中に入ります。境内には大ケヤキの木がそびえていて、本堂へお参りします。ただし、本堂には、最近話題となった「日本人にうまれてよかった」という神社本庁のポスターが掲げられていて困惑します。日本人だろうが日本人でなかろうが、この世に生まれてくることに優劣などないのだから、このポスターがいわんとしているメッセージは、わたしは間違っていると思います。そして、この土地の精霊たちは、きっと日本人だから護るとか外国人だから護らないわけではなく、この土地を通り過ぎる人たちすべてだろうなと。この神社のお参りを拒否することもできたでしょうが、わたしはあえてお参りしました。「日本人だろうが日本人でなかろうが、この神社をおとずれるすべての人が護られるように」と。f:id:tochgin1029:20170523234004j:imageこの近くには萬福寺という、相当に歴史の旧い寺もありました。残念ながらあまり境内の手入れは行き届いていないようですが、ほかにもこのあたりには寺社が点在します。笹子峠から甲府盆地へ、山地から平地へと切り替わるこのあたりを良く眺めると、そうとうに古くから開けた土地であることがわかります。
f:id:tochgin1029:20170523234125j:imageここから、栗原宿までは、だいたい3~4キロくらいです。宿場町に由来するような古い建物もそれほど残っていないこの集落は、一見すればなんの変哲もない街道沿いの集落です。そういえば街道そいには、食堂チェーンの大戸屋 創業者の生家というものもあります。この甲斐の国は、やっぱり商人の国なんだなあと思います。そういえば中山道の旅では湖国を巡りました。近江の国も近江商人と呼ばれる商人の国でした。この甲府盆地の光景もどこか近江の国に似ているような気もします。近くのコンビニで休憩すると、あたりは自転車でひまを持て余している地元の中学生が居ます。自転車で中学生がふらふらできるのもあたりが平地だからであって、坂の多い山間部だと自転車でふらふらはできませんね。こういう中学生の光景は、平地の集落に特有に思うんです。
f:id:tochgin1029:20170523234102j:image ここから石和までの道は笛吹川がそばに寄ってくる道になります。川にはあまり水は流れていませんが、松並木を越えれば、堤防のわきに笛吹権三郎という少年の碑があります。この笛吹権三郎という少年、洪水によって生き別れた母親を探してあきらめきれず、自らも洪水によって死んでしまったそうです。笛吹川という名前もここからら採られているそうです。いまでは、非業の死者を供養するという習慣は薄れたのかもしれません。さらにすすむと廃墟のような古い建物のテアトル石和という映画館があります。つぎつぎに客が出入りしています。これを過ぎれば石和の本陣跡です、この付近には公園があって足湯があり、しばし休息。
f:id:tochgin1029:20170523234251j:image それにしても、この日は真夏のような高気温でした。そのせいか、石和から甲府までの道は、とりたてて述べるようなものがない変哲のない郊外の道です。ただ、わき道の行き止まりをのぞけば、行き止まりにはお寺が建っています。有名寺院ではないのですが、甲府盆地のあたりはさりげなく寺社が多いようです。
f:id:tochgin1029:20170523234207j:image 街道から少しそれて、甲斐善光寺に立ち寄りました。この甲斐善光寺は長野に比べればまったく無名なのですが、本堂の建物の大きさは信州となんら変わりがありません、むしろこちらのほうが、付近に高い建物が存在しないぶんだけ、あたりの景色に与える存在感や威圧感は、信州の善光寺よりもすごいと思えます。もっとも、参拝客の数は比べるまでもなく、こちら甲斐の善光寺は参拝客もぽつりぽつり。胎内くぐりという本堂の真っ暗やみをぬけるところも信州の善光寺と同じなのですが、客が少ないぶん、右左どっちに進めばよいのかわからない不安感や怖さはこちらのほうが上かなあと思います。
f:id:tochgin1029:20170523234228j:image 善光寺から街道筋に戻り、甲府の市街地に向かいます。日曜の甲府の市街地は見事なまでのシャッター通りと化しています。そして通りを誰も歩いていないのですね。市街地の道路にはなるほど歩道橋が多くて、たとえば老人にとっては、気の毒なくらい歩きづらい場所です。そんなのも、誰も通りを歩いていない市街地の理由のひとつではないでしょうか?甲府柳町の宿には、なかなか本陣跡らしき場所もみつかりません。しかたなく、身延山に向かう街道との追分で、本日の行程を終わりにしました。すこし、甲府盆地の歩きは変化が乏しかったようにも思います。ここからさきの道は、だんだんと標高が高くなっていくはず。きっと、高原の良い景色も眺めることができるでしょう。