田中正造記念館を見学した

 館林にある、田中正造記念館にいって来ました。実家のある栃木から館林は近いはずなのですが、訪れたのはほぼ初めて、平凡な田園都市をイメージしていたのですが、そうではなく城下町だったのですね。中心市街地は寂れていますが、それでも古い屋敷とかが点在して城下町の風情が感じられます。記念館はそんななかにあります。

 中ではおじさんが丁寧に説明してくれました。田中正造が生涯をかけて取り組んだ足尾鉱毒事件ですが、事件の原因は、二つの出来事があったようです。一つは有力な鉱脈をみつけ、銅山では大増産がなされたこと。そして、洪水が起きたことです。銅鉱石は、主産物の銅を取り出す際の副産物として鉄と硫黄が排出されますが、硫黄は煙としてそのまま大気に吐き出され、廃棄物は野ざらしで積まれている。足尾の街は煙害により山の木は枯れてむき出しになり、洪水がおきれば毒物がわたらせ川に流れる。当時3000ー4000人ほどの人間は、川魚の漁でで生計を立てていたそうですが魚は全滅。今でいう両毛地域の田圃がほぼ全滅しています。一回目の衆議院選挙に当選した田中は、銅山の問題を取り上げ質問しますが、明治政府はまともに取り合おうともしない。経済優先の国策と、当時の大臣陸奥宗光古河市べえが親族関係にあったことも理由です。農民のリーダーたちが立ち上がり、政府に訴えようとしますが、川俣事件のように政府方は力で排除する。大隈重信をあてにしてもらちがあかない。田中は最終手段、天皇に直訴するという手段を執ります。この訴えは、明治天皇に届くことはありませんでしたが、この行動が鉱毒事件を、世間に認知させることになりました。大学生などが大勢足尾を訪れて、被害の実態を真のあたりにしました。当時学生であった、師がなおやも訪れようとしましたが、祖父の実業家しがなおみちは、まさに足尾銅山の購入に尽力した人物。足尾行きを止められるなんて、エピソードもあります。

 一時的にせよ、世論の盛り上がりにたいして、そこで政府が何もしないわけにはいかなくなったようです。政府のたてた対策は、ともかく洪水を止まればよいとの考え方で、水をためる場所を造るという計画です。3カ所候補があがったが、結局は谷中村が犠牲にあるわけです。田中はこの計画には反対でしたが、村の有力者のなかには賛成の意見も多く、ここで反目しあうのです。

 谷中村に移った田中は、抵抗を続けるのですが、結局は排除されます。引っ越した谷中村の住民は、移転先で辛酸をなめた人が多かったようです。那須に土地をもらい開拓を始めたが、とても開拓できるような土地ではなく3年で断念した人や、周辺の村に引っ越しても、周囲の差別に苦しんだ人。

 田中は、そんな孤軍奮闘の中で命を落としますが、彼の葬式はそれは盛大だったようです。地方の有力者が次々と香典を寄付するのですが、生前に田中が孤立無援になっていった課程を考えるとどこか割り切れなく思いますね。

 一方、原因の煙害の原因となる硫黄を大気から除去することは、戦後になるまで技術は確立しなかったようですが、できた時はすでに足尾の鉱脈は尽きようとしていた頃です。現在も悪影響はなくなってはいないとのことでした、311の日に、地震の影響から有害物質を含んだ袋が破れ、川に流れてしまった。おじさんの話では、これは永久に消えることはない。かなり力を入れて植林を行っていますが、これだって100年はかかるだろうと予想されています。

 すでに、足尾鉱毒事件への政府の対応は、その後の水俣病や、もちろん原発事故に対する政府の対応とそう変わりないかも知れません。庶民の生業や日常生活よりも、目先の産業振興が優先されることは、原発事故にも共通ですよね。

 藩閥が牛耳る明治政府は、やがて軍部が支配する大日本帝国へと変わり、欧米のような植民地争いに参入して滅びることになりますが、田中と農民たち庶民の運動は、それとは違う、権威的にならない政府のありかたの可能性が、かつてあったことを夢想させられます。