古の歴史を感じない道(北関東の諸街道12)

 今回の街道歩きは、例幣使街道から日光をまわって奥州街道を白河まで北上、北関東の街道をひとまとめに通ってきました。残ったのは宇都宮から日本橋までの道のりです。
f:id:tochgin1029:20180627232437j:image 今回の歩きでは、宇都宮の街が結節点となりました。まずは宇都宮駅へ、さらに宇都宮駅から伝馬町に向かうバスに乗ります。宇都宮市内交通の主役は路線バスで、郊外にそれぞれ向かうバスが途切れることがありません。ただしだいたいの車内はガラガラなのが寂しい光景です。空は梅雨空で、すっきりしません。
 宇都宮では、総じて旧街道跡を示す看板は淡々としたものです。日光街道奥州街道の追分もいたって簡素なものです。なので、道路も整備されてはいますが、それは市内の主要道として整備されているにすぎません。まわりものっぺりとした何の変哲もない住宅地です。のっぺりとした住宅地とのっぺりとした道路に街道歩きの楽しさはあまり感じません。途中に蒲生君平という儒学者?の石碑があって、それだけが、わずかに旧街道の痕跡を残しています。東武宇都宮線JR日光線をくぐったり跨いだりし、国道4号線と合流します。f:id:tochgin1029:20180627232528j:imageその交差点の一角に不動堂が建っていて、たぶんこれが宇都宮の街との境界のようです。国道4号線沿いに進めば、あたりは車の販売店が立ち並ぶ風情のない道路が続きます。どうやらこの道路「東京街道」と呼ぶらしく道端に標識があります。JR宇都宮線の線路が次第に近くに寄ってきますます。かつては特急列車が華々しく通っていただろう線路も、現在の主役は通勤電車と貨物列車。線路を眺めていても変哲のない電車ばかりが通り過ぎていきます。
f:id:tochgin1029:20180627232601j:image 変哲のない道のさなかに、雀宮宿があるはずなのですが、どこから宿場でどこが本陣なのか?さっぱりわかりません。沿道の雀宮神社だけがこの地の由来を示す唯一の建物です。その雀宮神社ですが、延喜によれば、上野下野の毛の氏、御諸別王にゆかりのある神社のようです。藤原の実方の妻の○姫がたどり着けずに生き別れた場所だそうです。旅の途中で倒れた旅人をともらう伝え話がここでも見られます。今とは違って遠くに生きる人と人との距離感はとても遠かったのだと思います。いったん別れた人とは、こんどはいつ会えるかもわからない。その心細さを現代の人はたぶん想像できないだろうと、思いめぐらせます。
 雀宮から石橋宿までの道も、あいかわらずのたいくつな国道歩きです。この国道歩きにもひとつだけ良いところがあって、昼飯をとる場所に困らないということでしょうか。沿道には有名無名の飲食店がたくさん立ち並んでいます。ここで昼飯。
f:id:tochgin1029:20180627232636j:image石橋の街は、くたびれた建物が残りますが、それだけ旧い宿場町の雰囲気が雀宮よりは残っているでしょうか。駅前の通りには「グリム通り」と名付けられています。近くには孝謙天皇神社という名前の神社があります。そういえば、奈良時代の末期に孝謙天皇をそそのかし天皇の位を簒奪したとされた、道鏡が流されたのは、下野の国分寺でした。ですから、このような孝謙天皇にちなんだ神社が建つのもなるほどなと思います(あとで調べたところ、流された道鏡を追いかけるように、孝謙天皇がこの地をおとづれたのだという伝説もあるようです)ただし、街道からは少し離れているようで行くのは断念します。町外れには、愛宕神社という神社がありました。
f:id:tochgin1029:20180627232745j:image 石橋から小金井まで、国道沿いは次第に殺風景な風景になってきます。雑木林と建物が交互に現れます。ここで、ようやく国道と離れ脇道へと入ります。道ばたには、かんぴょうを取り出したあとの夕顔の実が転がっています。かつては国分寺町とよばれた町で、その名の通りかつての下野国分寺の存在した地名です。しかし、地形図を眺めれば、この奥州街道が通るあたりは、国分寺があった場所とは、川ひとつ隔てた場所なのです、例幣使街道なら鹿沼から日光まで、日光街道なら日光から宇都宮まで、どこかこのあたりの街道には、この場所に存在しただろう土地の神を蹴散らして、徳川いろに塗りかためたような共通する印象を感じています。街道を整備した徳川の権力は、おそらく国分寺を整備した奈良の王朝にたいしては、自分たちが継承する武家権力が倒した旧権力として、古の王朝をながめているのでしょう。国分寺と街道とが離れていることの距離感をそのようにも読み取れます。かつての王朝が治めた天下と自分たちが治めている天下は違う世界なのです。したがって、小金井の宿場に入っても旧い町並みが残るわけでなし、少しだけ残っている旧い建物も、まもなくとり壊すのだろうか?網で囲まれた状態です。住宅街にある一里塚を通りながら、先に進みます。
f:id:tochgin1029:20180627232955j:image 小金井宿から新田宿まではあっというまにたどり着きます。かろうじで簡単な看板が掲げられていて、そのことだけが宿場だと示しています。奥には広葉樹の林が広がっていて、その手前には不動が建っています。新田宿をすぎれば、あっという間に小山市内に入ります。少し歩いたあと、国道から離れ新幹線の線路に近づきます。この小山には新幹線の車両基地があって、車両が停まっていないか?と探してみます。1編成だけ停まっていて、そばから覗いてみるのですが、金網が高くそびえていて、間近にながめることはできませんでした。残念。
f:id:tochgin1029:20180627233043j:image 新幹線沿いから国道に戻り、そのまま小山の市街地に入ります。何の変哲もない道は、結局のところ小山宿まで続いています。旧宿場がどこなのか?というのもよくわからずじまいです。あまりにも東京から至近距離であるがため、旧街道の風情を楽しむような道どりではありませんでした。かつて下野国分寺が建っていたこのあたりは、ほんとうは豊かな歴史をかかえた土地のはずだと思いますが、後世の権力者たちや産業資本たちは、歴史を切断していきます。このさきの行程は、古河や栗橋といった大河川が密集するあたりを進んでいきます。次回は面白い風景を楽しめるでしょうか?