マチュピチュではないけれど(甲州街道を歩く5)

f:id:tochgin1029:20161224131502j:imageスタートした相模湖駅の周辺は、かつての与瀬宿にあたる場所のようです。が、あまり特徴のある建物もないあたりは、パッと見は何の変哲もない駅前の風景です。それよりは、宿場を抜けて近くに見えてきた相模湖の眺めがとても印象に残ります。なにしろ、このあたりの集落は、すべてといっても過言ではないほど、山の斜面に張り付いたように広がっていて、そんな場所だからこそ遠くの景色は最高の眺めです。中山道では木曾谷を歩きましたが、木曾谷では集落もまばらだし、谷あいの限られた場所にだけ人家はありませんでしたが、このあたり、斜面の上から下まで人家がとぎれなく建っています。ただ、そんな山間の集落をぬう道はなにが旧道なのかそうでない道なのか、とても紛らわしく、吉野宿まで道に迷ったようです。近くには中央高速が通っていてもあてにはなりません。やっと道がわかって旧道に戻ってみた相模湖の景色はほんとうに綺麗でした。道に迷うのも悪くはない。そう思う瞬間です。

f:id:tochgin1029:20161224131644j:image坂を下りて高札場を過ぎれば、そこはもう吉野宿です。こちらは賑わいとは無縁の静かな宿場です。本陣跡がのこ周辺には資料館があって、中に入ると資料館の管理人のおじさんが、いろいろと教えてくれました。なんでも、このあたり小仏~上野原までの甲州街道にはこちら表街道とは別に裏街道というのも存在したそうです。陣馬山の反対側にある和田峠という峠を越えて通う裏街道は宿が一か所しかなくて、上野原の商人たちはむしろそちらを好んで利用していたのだとか。小仏から上野原までは至近距離に宿が散在しています。宿駅ごとに荷物を運ぶたび運賃を払うのは、商売人にとってばかになりません。そうして盛んに利用された裏街道と表街道とは争いごとにもなったそうです。また、このたてものの2階では養蚕の展示がされています。かつては、ここでも養蚕業が盛んでした。そういえばかつて通った八王子は、織物組合が残る織物業で盛えた町でした。関東の山間で作られた生糸が、里の街に下りてきて織物となる。関東で盛んだったこのシステムの一端がよくわかります。f:id:tochgin1029:20161224132336j:imageそして、資料館の窓から裏を眺めると、よく相模川の流れが見えます。おじさんによれば、このあたりの木材は、筏を組んで相模川にながせば、茅ケ崎のあたりまで動かすことができます。さらに、茅ケ崎から船に乗せ換えれば、海上から江戸に運ぶことが可能で、陸を運ぶよりも効率がよいわけです。中央線や中央高速と現代の交通路を基準にして古の交通路を想像すると、相模湖や藤野だけ神奈川県にあたることがとても不思議なのですが、なるほど相模川の水系を基準に考えるととてもわかりやすいですね。

ここからも、谷間の道を上下にアップダウンする山あいの道は迷いやすくて、方向感覚がマヒしてきます。神奈川県と山梨県の県境もそんな谷あいの場所です。そして、その谷を登る途中には諏訪の関所跡が存在します。そして相模国から甲斐の国にはいります。

f:id:tochgin1029:20161224132019j:image谷底の県境を上りつめて現れた台地の上に、上野原の街は現れます。そしてその台地上の空気感は、川沿いと森の間をぬける湿度の高い風景から、湿度の低い乾いた台地に突然に変わるのです。国が変わったことを実感させます。この街には大ケヤキがあるそうですが、見に行った大ケヤキはちょっと期待外れだったかな・・・。f:id:tochgin1029:20161224132234j:imageその上野原からは鶴川までわずか2キロなのですが、その間には川がながれていて、渡し船でしか渡れませんでした。上野原の台地から降りて川を渡ります。それを超えた鶴川の宿は、おいてきぼりを食らったようなちいさな集落ですが、それだけにかつての宿場風情を想像できるように、道の両側に家がならびます。この鶴川の宿のはるか上を眺めれば中央高速が通っていて、同じ高さにも人家らしき建物があります。どうやらここからの行程は上り道で、登った先にも集落が広がるようです。

f:id:tochgin1029:20161224131329j:image鶴川から野田尻までの道は、台地をのぼりながら、それぞれの台地に広がる集落を、ぬうように通る工程で、それはとても不思議な印象なのです。台地と集落を通過しながら上を見れば、そのまた上に台地と集落が広がっている繰り返し。その光景は、マチュピチュというよりも、映画「燃えよドラゴン」で、ブルース・リーが刺客を倒して階段を登れば、階上の部屋には、また別の刺客が現れれる。その繰り返しと似ているなと思いました。そして、登り切ったさきにある大門の集落は山の尾根筋に広がった集落で、この集落の上にもう集落はなくて空がほんとうに広い。f:id:tochgin1029:20161224131401j:imageここから1キロほど西に向かえば野田尻の宿につきます。野田尻はとても静かな山あいの集落で、今日の行程はここまでです。このあたり、中央高速談合坂SAの至近距離です。SAというのは自動車を乗り入れるのでなければ、高速道を利用しなくても入れます。そのままSAで休憩しました。が、ここから四方津駅までのバスは一日2往復しかありませんでした。f:id:tochgin1029:20161224131234j:image山かげに沈もうとする太陽と競争するように、2キロさきの四方津駅に戻ります。けっして過疎地ではないはずですが、四方津駅は谷あいの小駅といった風情で、まわりにはなにもありません。

四方津駅といえば、ここから延びるエスカレータで「コモアしおつ」という、まるでマチュピチュのようなニュータウンがあるらしく、見てみたいのですが、それは次回のお楽しみとします。それにしても、次回にはここから歩いて野田尻宿まで行くかと思うと悩みではあります。

 

いまさら、はじめて聴くジョニミッチェル

逃避行


 朝のFMラジオ。ピーターヴァラカンさんの、「ウィークエンドサンシャイン」という番組でたまたま流された、BLACK CROWという曲を良いなと思い。そこから、ジョニミッチェルのいくつかの曲を、YOUTUBEで見たり、彼女の旧譜を買い求めたりして聞くようになりました。彼女のアルバムには、ジャズミュージシャンたち、ジャコパストリアスやハービーハンコック、ウエインショーターなどビッグネームたちが参加したものが多く、今のいままでほとんど聞かなかったのかなぜかはよくわからないのですが・・・
 とりあえずも、いくつかの曲を聴くと、彼女の曲に出てくる「狼」というモチーフが多いことに気が付きます。曲名にも含まれるし歌詞にも含まれたものがあり、ウィキペディアなどを見ると、彼女の出自はカナダの中西部の州だとのこと。彼女の心底にある原風景の中に、おそらくは森とその中を駆ける狼たちが居すわっているのだろうと思います。カナダの大陸中部といえば、わたし自身は子供のころに読んだ「シートン動物記」のことが連想されます。動物記の作品には、「狼王ロボ」とか「ウイニペグの狼」とか、狼を主題にした話が多く載せられるのを思い出します。ウイニペグというのはカナダ中部の街のことで、ジョニの出生地とは異なりますが、イメージが重なるのです。まあ、田んぼと工場住宅の入り混じったなんの変哲もない郊外の風景が広がる、私の心の原風景とはだいぶ異なりますね。
 さて、ジャコパストリアス。この出たがりの「天才」と評されるベーシストは、もちろんウェザーリポートの演奏で知っていますし、アルバムを買ったこともあります。大学の音楽サークルでジャコに心酔していた先輩が居たことを思い出されますが、彼の演奏を本当に心底から素晴らしいと思ったことは、あまりなくて、コロコロと転がすテクニックのすごさには参っても、目立ちたがりやのジャコのライブ映像をあまり良いとは思えなかったのです。
 けれど、ジョニと一緒に演奏するジャコパストリアスの演奏は、ほんとうに素晴らしいです。ジョニの歌に絡みつくような彼のベースは、あいかわらず彼の出たがりなところが現れているようますし、その出たがり感が好みでない評者はジョニのアルバムに対しても、アマゾンレビューが低い評価のようですね。

 でもジョニの歌に絡むジャコのベースは歌伴というよりも、ジャズメン同士が演奏しあうような感じで私にとっては素晴らしいものです。前にでるでるジャコのベースと、主役は自分だよと、歌うジョニとのせめぎ合いはスリリングだと思います。その魅力はジャズのものだと思うのです。

 なお、現在の彼女は難病を患い、相当に重症のようです。もう表舞台で歌うことがないでしょうが、穏やかな余生を過ごしてほしいと思います。

明るい山の道(甲州街道を歩く4)

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 前回までの歩きは、西八王子駅あたりまでを歩きました。今回は甲州街道で初めての峠越えになります。
先々週に歩いたときは、いちょうの葉が黄金色に輝いていましたが、すでに葉っぱは落ちかけています。

f:id:tochgin1029:20161205232726j:image少し歩くと、多摩御陵への入り口が現れます。この多摩御陵というのは大正天皇の墓で、その隣の武蔵御陵というのは昭和天皇のお墓です。案内に書かれていた通り、近代になってから初めて天皇の墓は近畿を離れたというわけで、場所を決めるのにいろいろな論議があったのでしょう。こんもりとした低い山が並ぶ風景は、どこか奈良の明日香村の風景にも似ています。探したのが京都に似た景色ではなく、明日香村に似た景色であること。なにか意味があるように思います。次第にあたりは人通りが少なくなり、すかっとした直線の道に変わります。
f:id:tochgin1029:20161205232836j:image 高尾駅まで行けば、だいぶ山もちかづいてきます。この辺りはまだまだ紅葉が残っていて、緑色、赤色、黄色、茶色の入り混じった近くの山々が美しいですね。2か月くらいまえに「ブラタモリ」の番組で、高尾山が取り上げられていました。なんでも、このあたり広葉樹針葉樹の植生が入り混じり、そのため高尾山に生える植物の種類は驚異的に多いとのこと。このあたりの紅葉のきれいなことも、これと関連があるのではないでしょうか?小仏まではだらだらとした坂道がつづきます。しだいに狭い谷を中央本線と並行するようにないますが、それでも木曾谷などの険しさと比べればなだらかなもので、途中にある小仏関所の跡も、これまでに見た、碓井の関所や木曽福島の関所などと比べれば、簡素なつくりのようです。やがて舗装された道は途切れ、本格的な山道に入ります。久しぶりの山道は急な上り坂ですが、あまり長めのよいところはありません。登り切った先にある小仏峠は、それほど見通しのよくない場所でした。どうやら明治天皇が在所した場所らしく、記念の碑が立っています。
f:id:tochgin1029:20161205232926j:image ここで、高尾山方面と相模湖方面は道がわかれます。どうやら、ほとんどの人たちは高尾山方面に向かうようです。相模湖方面にむかうのはわたし一人だけです。まったく誰にもあわない山道をぽつんとひとりで歩きますが、むしろ南向きの山道は、小仏峠までの道と違って、日が差し込むとても明るく快適な山道に変わります。f:id:tochgin1029:20161205233002j:image下には落葉した葉が山道にぎっしりとじゅうたんのように敷き詰められています。あっというまに山道をおりてもその印象は全く変わりません。南向きの斜面に広がる集落はここでも日が差してとても明るい。山の中から受ける暗い印象がまったくありません。
f:id:tochgin1029:20161205233017j:image 少しあるけば小原宿に到着します。甲州街道で本陣と呼ばれる建物は、3か所しか残っていないと日野宿の本陣で教えてもらいました。ここ小原宿に残る本陣もそのひとつですが、いままで中山道の本陣の建物や日野宿の本陣と比べれば、随分と簡素な建物でした。住人のようなおじさんが、庭仕事をしている家は、まるで普通の古民家と変わりがない印象です。東海道中山道と比べるれば、甲州街道のとおりすぎる宿場町は、いまのところは、濃厚な宿場の風情を感じるところは少ないようです。けれど、山間の集落の意外なほど明るい雰囲気がとても好ましくて、これもまた甲州街道の特徴なのかもしれません。
f:id:tochgin1029:20161205233037j:image 小原宿からいったん坂を上り下りすれば次の与瀬宿につきます。JR相模湖駅のあたりが与瀬宿のようですが、今日はここまで、この先もたぶん明るい山道になりそうな気さえする、気持ちのよい行程でした。

街を抜ける(甲州街道を歩く3)

 今回の歩きは、府中の大国魂神社がスタートです。七五三の家族連れでいっぱいの神社はとても賑やかです。f:id:tochgin1029:20161120212901j:image日本橋新宿と今まで歩いて、甲州街道で今の町並みから昔の宿場の名残を感じ取れるのは、府中が初めてです。それくらい今の甲州街道からは昔の名残を残すもの消えてしまっているのですね。それでも、府中の街を歩けば高札場の跡が残り、僅かですが旧家も残っています。

f:id:tochgin1029:20161120212930j:image 途中の分倍河原は合戦の場所として知られていて、駅前には新田義貞銅像が建っています。このあたり、多摩川と河岸段丘に挟まれた起伏の大きい土地のようです。

 しばらくあるき、バイパス道と合流します。何の変哲もないバイパス道ですが、道の脇に石碑とか神社とかいかにも由緒のありそうな旧家とか点在し、意外に飽きないものです。f:id:tochgin1029:20161120212955j:image

たとえば、府中の市街地を抜けて西に進んだところには、熊野神社という神社があって、裏手には復元され石が積まれた立派な古墳が建っています。隣の展示室では石室のレプリカがあって、おじさんが説明をしてくれます。おじさんによれば、この古墳の形は非常に珍しいもので、全国でも三つくらいしか存在しないそうです。武蔵国で古墳といえば、さきたま古墳群が有名ですが、それとはまったく形が違います。全く別の氏族なのでしょうね。古代の武蔵国は上州の側から開けていたからこそ、当初は東山道にふくまれていました。けれど、途中から東海道に変わっています。単なる地形の問題ではなく、途中で武蔵国を左右するような争いごとがあった。ヘゲモニーを握る氏族が変遷したのかもしれない。などと想像してみます。

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石室のレプリカに入って思うのは、立派な石室を死者のためにこしらえる風習は、やはり仏教伝来前の死生観なんだろうと思いました。仏教伝来後なら、死後に裁きを受けるあの世は、現世とは全く異なる世界です。けれど、古代人にとって、死後のあの世は現世と地続きの場所として認識されているように想像しました。

 さて、街道をさらにあるき国立市に入ります。谷保八幡宮という神社が途中にあります。この神社を訪れるのは2度目ですが、階段をあがるのでなく、下がって本殿に向かう不思議な神社です。台地の上を通っている街道から、降りたところに本殿があって湧き水が湧いています。大国魂神社の場所には、あまり「聖地」といった趣を感じませんが、こちらのほうが「聖地」といった趣きがあります。壁のコンクリートにおもしろいように苔が貼りついていました。
f:id:tochgin1029:20161120213050j:image しばらく歩けば多摩川の河原。ほかの街道でもそうだったように、往時には、ここも橋はかかってなく、日野の渡しという渡し舟で渡っていたようです。しばらくいけば、日野宿に到着します。
f:id:tochgin1029:20161120213118j:image 日野宿には、甲州街道では珍しく、本陣が残っています。中山道に比べれば簡素なものですが、それでも立派な建物で中に入れば、ガイドのかたの説明を聞きます。
日野は、なんでも新撰組にゆかりがある地だそうです。この本陣の持ち主かつ名主だった佐藤家も、近藤勇や土方俊三と交流があったそうです。一方ではこの本陣には、明治天皇も滞在したことがあるとのこと。ふすまに書かれた書は、建武の新政後醍醐天皇を助けた武将たちになぞらえていますが、ガイドさんによれば、それぞれの武将は実は新撰組の士を仮託したもの。新撰組は明治政府に取っては逆賊であって、おおぴらに名前を書くのははばかられたからではないかと。おもしろいことに、ここでは、ガイドの話を聞くのはわたしをふくむおじさんたちと若い女性たち、という変わった構成でした。
 多摩地域の土地やそこに住む住民たちには、自治意識が高くて進歩的な土地柄のイメージを持っていたのですが、説明してくれたボランティアのは、府中でも日野でも、侍にようなピシッとした佇まいの方。まるで、口ごたえなどできないないような雰囲気でした。そんなこの地域は、新鮮組を生んだ場所でもあるし、民進党では最も保守的な議員とされる、長島昭久さんのポスターが貼られています。地盤なのですね。かなり保守的な地域なんだなという印象を持ちました。
f:id:tochgin1029:20161120213310j:image 日野から八王子までは、再び台地を上ります。通り沿いには、日野自動車とかコニカミノルタなどの大企業の事業所が点在します。いまでこそ住宅地に囲まれていますが、かつては、台地上の広大な原っぱで、このような大きな工場を建てるにはうってつけの場所だったのだのでしょう。街道はいつのまにか八高線を渡っています。八高線などというといかにも都の果てまで来てしまったようですが、先入感とはだいぶ違う。多摩地域ってけっこう狭い範囲なんですね。
f:id:tochgin1029:20161120213334j:image 八王子の街は、もう戦争もおわろうかというころに空襲を受けています。途中の浅川を渡る橋には機銃の跡がのこるようです。そんな八王子は全く市街地が途切れない。歩いていてとても大きな街だというのがよくわかります。江戸時代の力士像が残る古い神社の公園で、こどもたちがせっせとあそぶ風景は、ここまでは見なかった光景で、人の往来も多い活気があふれる場所ですね。
f:id:tochgin1029:20161120213420j:image 関東では、山と平野の境にいろいろな街が生まれています。北関東なら、高崎、桐生、足利、伊勢崎などといった両毛線沿いに、どれも織物で栄えた街が点在しています。この八王子の町も、織物で栄えた町らしく、織物協同組合という建物もあります。通り沿いには看板建築がほうぼうに残っていて、金物店、洋品店、酒屋、鰹節店なんてものまである。味気ないマンションに変わった建物も多いですが、往時の名残り相当に残っている。ここがかつては相当の規模をほこった大商店街だったことを簡単に想像できます。両毛線沿いの町では、商店街は、モータリゼーションですっかり寂れてしまいましたが、八王子の場合は、都心との距離が幸いしたのか、それらに比べれば、衰退のスピードは緩やかです。f:id:tochgin1029:20161120213359j:imageしばらくいけば、銀杏が並んだ道を通ります。八王子の市街地の西端は、すでに西八王子駅のそばです。
西八王子駅では、ベンチにこしかける老人たちの姿が目立ちます。府中でもすることのない老人が神社わきでごろごろしている光景をみかけました。都心から放射状に延びるベットタウンのなかでも、さいたまと比べ、このあたり東京都下の高齢化はいっそう進んでいるようです。
 いよいよ、東京都も西の端。次は小仏峠を越え本格的な山道に入ります。

北関東民のさえないソウル(絲山秋子「薄情」)

薄情


 群馬、栃木、茨城、いわゆる北関東とよばれる3県は、テレビ番組のうえでは魅力のない県とされています。都道府県の魅力ランキングでは常に下位をさまよっているし、そんなありさまに自虐的ですらある。そんな場所でくらす男女は快活さからは程遠い。わたしは、群馬在住の絲山秋子さんの小説「薄情」を、そんな北関東目線でから読んだのでした。
 主人公である宇田川さんは、夏は嬬恋のキャベツ農家で働き、冬は実家にもどる生活を繰り返しています。実家は神主らしいのですが、彼自身は土地の生活からは自分は浮いているようだし違和感を抱えながら生活しています。そんな彼は、鹿谷さんという人の工房に通うようになります。そこは主人公と似たような人々が集う場所になっていて、自分の行動がいちいちつつぬけになるようなきゅうくつな田舎で、その工房だけが、自分がなにものかを問われない、居心地のよさを感じるのだと。
 そして、この話には蜂須賀さんという同級生が登場します。この地をいちどは離れた彼女は、遠方の生活が破綻して戻ってくる。2人が恋愛感情を募らせるわけではないけれど、土地に違和感を持ちながら暮らすところは似たもの同士です。が、やがて工房は焼けてなくなってしまう。工房に集まっていた主人公は、それまで、工房に委ねて任せっきりにしてた自分のなかの一部分を、これから自分自身でこしらえなければと知る。そんなふうにこの小説を読みました。

 工房が焼けた原因は、付き合っていた蜂須賀さんと鹿谷さんのいさかいから。この土地から再び出て行こうとする蜂須賀さんに、でていくのは逃げるようなものだというような意のことを言います。  土地に縛り付けるということではなく、土地に向き合うこと=自分と向き合うことと言っているのだと思います。

 私が生まれたのは栃木県の南部で、実家はいまもその地にあります。典型的な農村集落のなかに、越してきたサラリーマン家庭です。何十年とその地にすんでいても、どこか「よそもの」感は消えません。実家に帰れば、同級生のだれだれがうんぬん。という話ばかりですが、なかには同級生の刹那的なくらしなんてのも聞くのです。素性がばればれの田舎はきゅうくつで、刹那的になるのも理解できなくもない。私自身そのきゅうくつさがいやで故郷をあとにしたくらいですから。
 群馬が舞台となったこの小説に、栃木出身のわたしはどこか親近感を持っていて、小説に登場する人たちのさえない感じが「すばらしい大自然に囲まれた、人情味あふれる仲間たち」なんて、すくすくとした自己肯定感など生まれようがない北関東という土地柄を表しているように、勝手に想像しています。「自分自身であること」という命題に、なやみつつも前向きに生きていく、さえなくて快活でない人たちの物語。そう読めたのでした。

台地の上を通る(甲州街道を歩く2)

f:id:tochgin1029:20161113113329j:image 今回の行程は、京王線芦花公園駅からの歩きです。私鉄の駅につづく商店街と生活道路のコンビは、生活するには気楽そうですが、よそものにはあまり変哲のない街で、面白味のないところです。
 ところどころに通り過ぎる川はコンクリートだし、あたりはケヤキ並木のつづくバイパス道。通り沿いに起伏はあまりないのですが、道のわきをみれば起伏のある地形のなかを通っている。台地状になった土地の中を通っていることがわかります。その台地から坂を降りるところだけバイパス道から分かれているます。その瀧坂と呼ばれるあたりだけが、わずかばかり旧道の面影が残っていて、薬師如来があります。
f:id:tochgin1029:20161113113423j:image 調布市にはいると、すこし沿道の建物の高さが低くなってきて、空が広くなってきます。国領のあたりがかつての宿場町のようです。あいかわらず、マンションなどが立ち並ぶ無味乾燥な町に、それでも古い寺や神社が残るあたりは、宿場のなごりを感じます。調布駅は数年前に地下駅となっていて、かつての駅前はぽっかりと空洞のような空間がひろがっています。いずれ、駅前広場はバス停として整備されるのでしょうし、再開発ビルが空間を塗りつぶすように建つのでしょう。でも、空っぽの空間を空っぽのまま残しておけばいいのにと思ったりもします。
 調布駅を過ぎて、台地上の道はえんえんと続いていますが、しだいにまわりはゆったりとした敷地の家がめだつようになります。そんな途中に、寺があって門のまえには新撰組で有名な近藤勇銅像がたっています。f:id:tochgin1029:20161113113501j:image彼はこの地の出身なのだそうです。この寺には立派な山門もあります。江戸時代の末期ともなれば、そうとうに農業の技術も発展した時代です。江戸の大消費地を控えたこのあたりは、かなりの豪農を排出したのではないかと思います。そして、豪農たちの知的欲求はかなりのもので、そんな知的欲求にあふれた環境が、近藤勇という政治的な人物を生んだのではないのでしょうか?この土地を歩きながらそんな想像がでいるのです。
 あいかわらず、台地の上はのっぺりとした住宅街がえんえんと続いています。地蔵やら石碑をのぞけば家も道路もどこか均一なところが、のっぺりとした印象を受けるのです。台地の上は強い風がよく通る場所です。そして、その場所は、昔の面影などのこらない住宅街。台地の上って家も田畑も風景も非常に移ろいやすい土地のように感じるのでした。
f:id:tochgin1029:20161113113523j:image 府中の町は、名前のとおりかつての武蔵の国の政治の中心です。今の大国魂神社のあたりが国府のあったあたり。ほかにも八幡神社もあります。ただ、台地の上にたつこの神社からは、ふしぎと霊的な印象を受けません。近畿の都の目線から見れば、この場所に国府が建つことの意味は、武蔵の国は「台地の広がる国」として都からは捉えられていて、その台地を征する存在として国府がこの場所に建っている。
 今日の歩きはここまでです。まだまだ単調な住宅街はつづきます。

なんの変哲のない道(甲州街道を歩く1)

f:id:tochgin1029:20161113112632j:image 中山道をゴールしてしばらくたつと、田舎の道が恋しくなって、街道歩きを再開することにしました。今度は甲州街道で、甲府まわりで下諏訪までの道を歩きます。日本橋から新宿までの道は、散歩のようにして歩いてしまったので省略。実質の歩き始めは新宿からです。
 新宿に昔の甲州街道の風情を残すところなど存在しないのはあたりまえというえばあたりまえ。ひたすら、雑踏の中をあるき始めます。すっかり雑踏は苦手になりました。早足で歩けば前を歩くひとにぶつかるのがうっとおしくもあります。
f:id:tochgin1029:20161113112657j:image 初台をすぎて、首都高の高架と合流します。わきには緑道が並びます。玉川上水の跡のようです。どちらかといえば、歩くにはあちらのほうが趣があって、静かでうらやましい道です。建物と高架のわずかなすき間にけやきの街路樹が続きます。ほんのわずかな風情です。やがて明大前のあたりでは京王線をわたります。都内の甲州街道は、しばらく京王線と併走します。
f:id:tochgin1029:20161113112726j:image 一里塚の跡には案内板だけが残るばかり。中山道では、旧道がそのまま、現在の幹線道路である場合は少なくて、まったく当時の面影が失われた場所は少なかったように覚えているのですが、都内の甲州街道はいまでも幹線道路として機能しています。高井戸の宿がどのあたりかはガイドブックではわかっても、かつての面影がないので違いがよくわかりません。
f:id:tochgin1029:20161113112744j:image それでも、桜上水をすぎれば、やっと高架道路との併走が終わって、見える空が広くなりました。なんてことのない生活道路と住宅街はえんえんとつづきます。今日の行程は、芦花公園駅のあたりで終わりです。街なかの道ははやく通り抜けたいところです。