自覚されない革命(大澤真幸「日本史のなぞ」朝日新書)

日本史のなぞ なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか (朝日新書)


日本史上に革命はあった。という人もいれば、革命はなかったという人もいます。革命がなかったという人によれば、庶民が立ち上がった抵抗運動が時の権力者を滅ぼした、なんてことは歴史上になかったと述べ、革命があったという人にとっては、たとえば明治維新大化の改新のような出来事を、革命と捉えている。大澤真幸さん「日本史のなぞ」朝日新書を読んで見ると、そのどちらとも異なる見解に驚いたのでした。
 とはいっても、それは別にアクロバティックな珍説ではありません。出てきた名前がおおよそ通俗的な革命家のイメージからほど遠いのですが、日本史の通史をひととおり理解していればなるほどとも思う名前で、革命家として取り上げたのは北条泰時です。学校の日本史の授業が好きな人であれば知っていても、そうでなければあまり知らない人も多いでしょう。
 北条泰時鎌倉幕府の3代目執権とされる人物です。源頼朝が亡くなった後の幕府は、御家人たちが反目する場となっていました。そのはざまをぬって、幕府に対して朝廷が挑発し戦を仕掛けます。存亡の危機に結束した御家人たちが大勝利をおさめ、首謀者とされた天皇上皇たちが流罪となりました。この承久の乱と呼ばれた争いの10年後に、泰時は御成敗式目という法を定め、鎌倉幕府の権力が安定化しました。この一連のできごとを、大澤さんは日本史上唯一の革命と述べているのです。天皇上皇を裁いて流罪に処したことは、足利尊氏のように皇国史観では逆賊とされ断罪されてもよさそうなのですが、むしろ後鳥羽上皇側に非があったのだとさえ支持されています。そんな日本史上唯一の革命に、大澤さんは、中国の易姓革命とも違う論理を見つけます。易姓革命の論理からは、天皇上皇たちに徳がないから、「天」のもとに断罪されたのだ。解釈できるでしょうが、ここでの北条泰時の政治的な判断はそうではなかったのだと。正直なところ、その論理がなんであるかは大澤さんの文章ではわかりにくかったのですが、それよりも御成敗式目の起請文を読むと、スッと理解できたように思います。

 御成敗式目の起請文には、序列の違いや好悪を抜きにして理非をあきらかにすること。梵天帝釈天、その他列島60州余の神々に対して誓うと書かれています。そこに「天」とか「神」とか自然界に対して超越するような概念は存在しません。むしろ列島を構成する大地や山や川、いわゆる「八百万の神」に誓っているかのようです。   
 貴族や官職の律令のほかには、御成敗式目が成立するまで、日本の国内には成文化された法はなく、まして律令にしても、それは中国の王朝のものを輸入したものです。御成敗式目が画期的なのは、律令とは違い、貴族ではない武士たちにとっての法であることで、それまで日常でつちかわれた、物事の理非を定める慣習がここで初めて法として成文化されたことでもあります。だからこそ、改変や追記はされても、この式目は相当の後世にまで引き継がれ準拠されています。
 いわば八百万の神の名にもとずいて、北条泰時天皇上皇たちを裁いた一方で、その職を廃することもしませんでした。むしろ朝廷側が代わりの天皇をつけるように仕向けてさえいます。それは、天皇の絶対化や神格化の否定をも意味します。戦後に先立つ700年前、すでに天皇人間宣言はされていたのですね。
 大澤さんの「日本史のなぞ」から、承久の乱あたりの出来事を調べるほど、この一連の変遷を革命と述べてもいいように思えます。そして、この時代に世俗の側から王権に制限をかけたような動きは、同時代の世界史でも類例がなかったように思います。革命だからといって、フランス革命のようなドラマチックな市民の蜂起ばかりが革命ではないのです。
 なお、ここでの泰時をはじめとした御家人たちのふるまいは、後世の幕府や足利氏の政治判断の手本としても参照されています。ただ、ここでの尊氏の判断そのものは、泰時に比べても非常に筋のわるい二番煎じで、その筋の悪い政治的な意思決定が、むしろこの後の中世の混乱を呼んだとさえ思います。皇国史観のように尊氏を逆賊と思いませんが、後世に混乱を引き起こし、中世を曲げた原因なのではとさえ思います。