ラジオ体操をしながらの妄想

 やっかいな梅雨がやってくるまでの季節は、新緑がきらきらとしたここちよい季節で、すこし早起きをしてご近所の公園に行けば、だいたい6時半ころにラジオ体操をしています。多くの体操をする人たちは、もう仕事はリタイヤしたんだろうななと思う年配の人たちがほとんど。彼らが「久しぶりだね」と知人に声をかけあう姿を眺めると、毎日のように欠かさず参加する人はそう多くはないようです。

 ちょっとした大きさのこの公園のラジオ体操は、日曜日ともなればほんとうにたくさんの人々が集まります。この公園を歩きながら、大勢の年配の人たちを眺めて妄想じみた考えが頭をよぎります。
朝にこの公園にラジオ体操に訪れる人たちは、だいたい300人くらい。そして、訪れる年配の方たちの平均年齢をだいたい70歳と仮定するなら、その合計値は、300×70=21000にもなる。その途方もない数字に妙な感慨を覚えたのです。この21000という数字は、こどものときに眺めたテレビ雑誌に載ってた、ウルトラマンの年齢に近いことを連想します。

 この公園に集まる300人が人生を過ごした時間は、それぞれはまったく別なものです。そして、ひとりの人間が過ごす70年という時間も、まっすぐな時間ではなく、だいたいは曲がりくねった時間でしょう。1年1年がまったく同じことなんてありえないでしょう。

 その人間の営みの総体は、現在を生きる人たちだけが占有しているわけではなくて、過去に生きていた人、これから生まれるであろう人たちまでを含めると、それはそれは膨大なものです。
 お墓に祭られるご先祖様、神様として神社に祭られる権力者から、遠い過去にこの地で行き倒れた人たち、非業の死を遂た人たちといったひとたちまで、神として祭られるモノや人は、なにか特別なひとのように思っていましたが、どうやらそうでもないのだと思います。有名だろうが無名だろうが、地上に生きてきたひとたちの人間の営みの膨大さに気がつくと、怪しげな心霊現象や宗教などに頼らなくとも、人間の営みの総体それ自身が、すでに神秘的なものなのかもしれません。

 

ぶどう棚の道(甲州街道を歩く9)

f:id:tochgin1029:20170523233755j:image 甲州街道の歩きは、前回は勝沼まででした。それから1か月が空いてまごまごしているうちに、春は過ぎて初夏になっています。1か月ぶりにおりた勝沼ぶどう郷駅におりると、あたりの風景は、4月よりも濃い緑色に変わりました。甲州街道勝沼宿から勝沼ぶどう郷駅までの離れた距離を歩くのは、前回はつらかったのですが今回はその逆。体力は十分だし、延々と葡萄畑が続く途中の道も快適に歩けます。ブドウの実はまだ小さな緑の小粒。農作業もいまが盛りらしく、手入れをする農家の人たちの姿を眺めることができます。f:id:tochgin1029:20170523233911j:imageJRの駅と離れた勝沼宿のあたりのほうが、古くからの街です。途中には田中銀行という建物があり、意外とモダンな建物とか寺社もあります。大善寺を見学したときに、この地のぶどう栽培の歴史の古さにびっくりしたのですが、この勝沼は、おもったよりも歴史の深い町であることを知りました。
f:id:tochgin1029:20170523233937j:image 街はずれには古い神社があり中に入ります。境内には大ケヤキの木がそびえていて、本堂へお参りします。ただし、本堂には、最近話題となった「日本人にうまれてよかった」という神社本庁のポスターが掲げられていて困惑します。日本人だろうが日本人でなかろうが、この世に生まれてくることに優劣などないのだから、このポスターがいわんとしているメッセージは、わたしは間違っていると思います。そして、この土地の精霊たちは、きっと日本人だから護るとか外国人だから護らないわけではなく、この土地を通り過ぎる人たちすべてだろうなと。この神社のお参りを拒否することもできたでしょうが、わたしはあえてお参りしました。「日本人だろうが日本人でなかろうが、この神社をおとずれるすべての人が護られるように」と。f:id:tochgin1029:20170523234004j:imageこの近くには萬福寺という、相当に歴史の旧い寺もありました。残念ながらあまり境内の手入れは行き届いていないようですが、ほかにもこのあたりには寺社が点在します。笹子峠から甲府盆地へ、山地から平地へと切り替わるこのあたりを良く眺めると、そうとうに古くから開けた土地であることがわかります。
f:id:tochgin1029:20170523234125j:imageここから、栗原宿までは、だいたい3~4キロくらいです。宿場町に由来するような古い建物もそれほど残っていないこの集落は、一見すればなんの変哲もない街道沿いの集落です。そういえば街道そいには、食堂チェーンの大戸屋 創業者の生家というものもあります。この甲斐の国は、やっぱり商人の国なんだなあと思います。そういえば中山道の旅では湖国を巡りました。近江の国も近江商人と呼ばれる商人の国でした。この甲府盆地の光景もどこか近江の国に似ているような気もします。近くのコンビニで休憩すると、あたりは自転車でひまを持て余している地元の中学生が居ます。自転車で中学生がふらふらできるのもあたりが平地だからであって、坂の多い山間部だと自転車でふらふらはできませんね。こういう中学生の光景は、平地の集落に特有に思うんです。
f:id:tochgin1029:20170523234102j:image ここから石和までの道は笛吹川がそばに寄ってくる道になります。川にはあまり水は流れていませんが、松並木を越えれば、堤防のわきに笛吹権三郎という少年の碑があります。この笛吹権三郎という少年、洪水によって生き別れた母親を探してあきらめきれず、自らも洪水によって死んでしまったそうです。笛吹川という名前もここからら採られているそうです。いまでは、非業の死者を供養するという習慣は薄れたのかもしれません。さらにすすむと廃墟のような古い建物のテアトル石和という映画館があります。つぎつぎに客が出入りしています。これを過ぎれば石和の本陣跡です、この付近には公園があって足湯があり、しばし休息。
f:id:tochgin1029:20170523234251j:image それにしても、この日は真夏のような高気温でした。そのせいか、石和から甲府までの道は、とりたてて述べるようなものがない変哲のない郊外の道です。ただ、わき道の行き止まりをのぞけば、行き止まりにはお寺が建っています。有名寺院ではないのですが、甲府盆地のあたりはさりげなく寺社が多いようです。
f:id:tochgin1029:20170523234207j:image 街道から少しそれて、甲斐善光寺に立ち寄りました。この甲斐善光寺は長野に比べればまったく無名なのですが、本堂の建物の大きさは信州となんら変わりがありません、むしろこちらのほうが、付近に高い建物が存在しないぶんだけ、あたりの景色に与える存在感や威圧感は、信州の善光寺よりもすごいと思えます。もっとも、参拝客の数は比べるまでもなく、こちら甲斐の善光寺は参拝客もぽつりぽつり。胎内くぐりという本堂の真っ暗やみをぬけるところも信州の善光寺と同じなのですが、客が少ないぶん、右左どっちに進めばよいのかわからない不安感や怖さはこちらのほうが上かなあと思います。
f:id:tochgin1029:20170523234228j:image 善光寺から街道筋に戻り、甲府の市街地に向かいます。日曜の甲府の市街地は見事なまでのシャッター通りと化しています。そして通りを誰も歩いていないのですね。市街地の道路にはなるほど歩道橋が多くて、たとえば老人にとっては、気の毒なくらい歩きづらい場所です。そんなのも、誰も通りを歩いていない市街地の理由のひとつではないでしょうか?甲府柳町の宿には、なかなか本陣跡らしき場所もみつかりません。しかたなく、身延山に向かう街道との追分で、本日の行程を終わりにしました。すこし、甲府盆地の歩きは変化が乏しかったようにも思います。ここからさきの道は、だんだんと標高が高くなっていくはず。きっと、高原の良い景色も眺めることができるでしょう。

 

関東平野の河川交通と蒸気船

 中世の関東平野を推定した地図を眺めると、おおきな河川がいくつも関東平野を縦断していることに気がつきます。茨城県東部の湖沼は、太平洋と繋がっていて、まるで太平洋の内海であるかのようです。その往時の光景は現在の姿からはかけ離れていて、そこでは水上交通がさかんであったと書かれた本もあります。けれど、いざ詳しく調べたくなると文献が少ないのです。 現在、埼玉県の東部では、それぞれの自治体が協力して「埼玉県東部の交通」と題した展示を、持ち回りで巡回展示しているそうです。非常に貴重なジャンルの展示なので、現在、展示を行っている宮代町の郷土資料館まで行きました。
 このあたりの東武線の車窓は、平坦な土地に田んぼと住宅が入り混じるのが代表的な風景で、いまだとちょうど田植えの季節です。そして、このあたりの河川のは、満々と水を蓄えゆったりと流れています。降りた姫宮という駅も、駅前こそ住宅が建ちならんでいますが、すこし歩けばすぐに田園風景が広がっています。郷土資料館の敷地のそばには、藁ぶきの旧家が移築されています。
 展示のなかで興味をもったのは水上交通でした。よくよく考えれば、あれだけの人口をかかえる江戸の暮らしを支える物資が、人足や馬だけで運べるわけもありません。築地にせよ日本橋にせよ川の近くに位置して、往時の浮世絵には蔵が頻繁に描かれています。こうした蔵に納められる物資というのは舟運によって運ばれていて、大量の物資を江戸まで運ぶのは、舟運の利用が前提となっています。江戸時代に盛んだった舟運が、明治になり発達した鉄道網に取って代わられますが、近代的な鉄道と時代遅れの舟運、というくくりには決してあてはまらない動きに興味を持ちました。この地域に鉄道が開通するまでの明治の一時期、それなりに舟運の近代化がされていた時代があったということです。この地域には江戸時代に盛んだった舟運を引き継いだ、蒸気船による定期航路というのが存在していて。利根川といった大河川では、通運丸とか古川丸とかいった名称で、複数の通運会社が競争を繰り広げていたそうです。東京発のこうした航路は、江戸川をさかのぼって、埼玉県北部、さらには、茨城県の古河、はては現在の小山市とか栃木市といった栃木県南部まで到達する航路さえあります。展示されている当時の時刻表だと、奇数日の午後3時に船は東京を出発し、反対に偶数日の正午に埼玉北部の河岸を出発するダイヤとなっています。現代だとフェリーとか高速夜行バスに類するのでしようか。高い堤防に囲まれた現代の利根川からとても想像ができない光景で、だからこそ、とても興味を掻き立てられるのです。
 水上交通に変わったのは鉄道交通です。日本鉄道がまっさきに建設したのは、現在でいう高崎線で、そこから東北線が分岐します。東北線ルートのもともとは大宮分岐案と熊谷分岐案があって、もしも熊谷で分岐するなら、その支線は足利佐野栃木といった現在でいう両毛線の諸都市を経由する予定だったようです。現在ではこれらの諸都市はどうもぱっとしない小都市ですが、東武鉄道がこの地域に建設されたのも、足利で作られた絹織物を東京へ輸送するためだとのこと。現在からは想像できないほどおおきな存在だったのだと思います。いままで気が付かなかったのですが、東武伊勢崎線のルートというのは、当時の舟運ルートを意識して選択されたようです。だから、いくつかの船問屋は、鉄道の開業後には駅の荷物問屋に衣替えしたそうです。
 その後、この地では鉄道免許の申請がブームとなっています。展示物をひと目見ただけでも、大宮から成田へ向かう鉄道とか、幸手鉄道やら○○鉄道という名称やらあらゆる名前の会社が鉄道の計画を立てています。そのなかでも武州鉄道という鉄道は、川口から蓮田を経由して、はては日光までを目ざすという壮大な計画を持っていたそうですが、結局は資金難で蓮田駅から先に延びることはなかった。現在の埼玉高速鉄道の延伸予定のルートがかつての武州鉄道のルートだったそうです。
 あまりにも都市化が進んだ関東平野では、歴史を紐解くにもとかく陸上交通の歴史に偏りがちで、さかのぼるのも鉄道の歴史から、せいぜい旧街道の情報くらいだと思います。実際に関東平野の舟運に関して情報を得るのに、ネットの検索は役立ちませんでした。けれど、ほんの100年ほど前まで、河川を通る舟運というのがれっきとした交通手段として生きていたのは事実です。展示物の文章を丹念によむと、舟運の衰退や廃止が、決して時代遅れによる利用者の減少などではなく、治水対策という時の政府による政策の影響だったことがわかります。実際に、栃木南部のいくつかの河岸は、足尾鉱毒の対策による渡良瀬遊水池の建設に伴い廃止されたようです。
 それにしても、関東平野の舟運については、いろいろなことを知りたくなるのですが、図書館にでも通わない限り、わからない情報があまりにも多いようです。

社会が見えなくなる(橋本治「たとえ世界が終っても〜」)

たとえ世界が終わっても ──その先の日本を生きる君たちへ (集英社新書)


 橋本治さんの新刊「たとえ世界が終っても〜」を読み終えたところです。
難病を抱えてるという橋本さんの体調もあるのでしょうか、最近の近刊には老いを感じてしまうところもあるのですが、それでもところどころに、鋭い指摘があります。
 書の後半を占める、異なる世代の編集者2人との鼎談形式の文章、1人はバブル期に成人を迎えた世代のかた、ほぼわたしと同世代。もう1人はゼロ年代に成人を迎えた年少の編集者です。橋本さんの繰り出す世相批判の言葉にたいして、年少の編集者は「ちょっとムカつくところがある」と述べます。橋本さんは「なんでムカつくの?あなた自身のことではない、世相批判だよ」と指摘します。そのような指摘をその年少の編集者は新鮮だという。彼の意識にとって、社会と自分が不可分のものとなっていて、だからこそ、世相批判をまるで自分が批判されたかのように感じてしまう。この編集者の思考経路には、わたし自身もおおいに当てはまるふしがあるのでギクッとします。個人としての自分と、自分を取り囲む家庭や仕事先、はては国家とか政府がカテゴライズする「国民」とが、一緒くたになってしまっているのですね。
 橋本さんは、バブル期のあとに日本人の心底から社会が消えてしまったと指摘しています。自分と自分以外の区別がつかなくなる。やれパヨクとか反日とかせっせとTweetする自称愛国者たちを、自分自身と国家を区別できない輩。と批判しても、それは彼らに限ったことではないことに、気を付けなければならないでしょう。それはバブル期以降の現代に生きる日本人にはある程度共通で持っている性格となってしまっているかもしれません。

「いや、わたしは違う」と思っても、毎日を仕事と家庭の往復に費やしている現代人にとっては、仕事と家庭のなかだけが社会のすべて。その社会とか公共に対する見方がとても貧しくなっている。だからこそ、決してネトウヨではない年少の編集者でさえも、橋本さんの述べる世相批判を自分が批判されたように受け取ってしまう。
 清水克行さんの「喧嘩両成敗の誕生」を読むと、中世 室町時代の都市が、個人個人がえんえんと争っている殺伐とした側面を持っていたことがわかります。結局は江戸幕府による管理社会になるまで、そのエスカレートした争いは終わらなかった。個人の心根から公共が失われた社会が行き着く先は、おそるべき管理社会だったり、上下つながりだけで横つながり欠落したような、軍隊社会になるのではないかと不安なりません。

少し怖くなる道(甲州街道を歩く8)

 1月に雪が積もる甲州街道をあるいた後、さすがに笹子峠越えは冬の間は無理だと思って、雪の解けるのを待っていました。4月になれば、たぶん雪も解けているでしょうか、甲州街道の歩きを再開です。この数日の天気予報では、ずっと雨の予報のまま。雨の中を歩くのも仕方ないか。と思いながらの道中です。
f:id:tochgin1029:20170409155343j:image 前回の終わり、JR初狩駅が今回の出発地です。近辺は雨が上がった直後で湿度がものすごい状態です。やっぱり誰も外を歩いている人はいません。このあたりの道中は、トラックがひんぱんに行きかう国道沿いを歩き、あまり落ち着かない道です。白野宿の手前でやっと国道と離れます。静かに歩くことができる旧道からは、バイパスとは違って、生活の匂いを受け取れるような気がします。途中で通り過ぎるのは、どれも小さな集落ばかりですが、集落にはお寺があって、鎮守の森があって、小さな公民館があって、なんていうのはどれも同じ光景。笹子駅の近くまで歩けば、大きな造り酒屋があって直売所も併設しています。帰り近くであれば立ち寄りところですが、先を急ぎます。
f:id:tochgin1029:20170409155302j:image 笹子駅すぎれば峠越えのだらだらとした上り坂がつづきます。バイパスと別れて旧道の山道に入ろうかというところですが、どうやら監視するセンサがあるようで、通り過ぎるたび警告音あ流れます。おそらく通行止めの意味なのでしょうが、特に通行止めを示す看板もなくて、意味がわかりません。しかたなく近くの県道を歩いて登ることにしました。こっちには通行止めのゲートもなっく、そのまま先に進めるようです。ただ、県道の山道は車で登ることが前提なのでしょう。勾配が緩やかなぶん路面は快適ですが、歩いて登るにはまわり道が多くて、余計に歩かされていると思われます。
f:id:tochgin1029:20170409155230j:image 道の途中で通れなかった山道と合流して再び分岐。ここからは山道に入れました。それほど通行止めになるような危険個所はないのですが、雨上がりの曇った天気では、とても眺望は望めません。路面もまわりの木もしっとり濡れています。このあたりで最も有名な観光スポットとされちえる「矢立の杉」はそんな杉林のなかにありました。広重の絵に描かれた杉らしいのですが、杉林の中ではあまり目立たないし、広重の絵の光景とはほど遠い印象です。そのとなりには「矢立の杉」という杉良太郎の歌碑が建てられています。たぶん、信州であれば、観光スポットの隣に杉良太郎の歌碑を建てるようなことはしないだろうなと思います。信州と甲州はともに似たような山がちば土地ですが気質はかなり違うと思います。アカデミックで教育熱心な信州に比べると、どこか甲州は信州に実利重視といった印象を受けます。
f:id:tochgin1029:20170409155203j:image 矢立の杉を越えると、その先は登るにつれ、あたりはどんどん白いもやのかかった視界ゼロの状態です。途中の尾根道では左右のどちらがわも真っ白いもやにかこまれて、そのなかをかき分けながら進みます。その山道が県道と合流すると、近くには旧笹子トンネルがあります。この旧笹子トンネルというのは国の重要文化財にも指定されている旧いものなのですが、このトンネルをネットで検索すると、上位に出てくるのは、やれ幽霊が出るとかいった心霊にまつわる言葉ばかりなのです。実際に白いもやにかこまれて視界ゼロのなかを、笹子トンネルに近づくと、もやのなかからに、なんとうっすらと白い影がみえるのです。観光地でもない山頂近くの旧道に、人などいるわけがないと思いますし、いくら心霊現象を信じない私でもさすがに怖くなりました。
f:id:tochgin1029:20170409155131j:image 至近距離に行けば、それは杞憂でした。どうやら説明書きを熱心に見ているただの人で、こちらは恥ずかしくなりながら挨拶をかわします。笹子トンネルを眺めると、その先は照明もない真っ暗闇が広がっています。反対側に明かりもみえません。トンネルを通れば歩く距離はかせげるでしょうが、恐ろしくてとても通る気にはなれません。トンネルわきの峠へ続く道を選びます。少し登れば峠にはつきましたが、峠といってもとくに見晴らしがよいわけでもありません。まだ先があるのでは?と疑いたくなるほど簡単な標識のわきを、そそくさと通り過ぎます。
 県道に合流すると、「峠道」というのがあるらしく看板をたよりに進みます。このあたり、砂防ダムが多数設置されています。笹子峠で気付いたことですが、このあたりの路面を靴で踏むと、ぐにゃりと足がめりこむように、このあたりの土壌は柔いようです。まわりの山肌を見てもところどころに、砂地がむきだしになった崖を見ることができます。
f:id:tochgin1029:20170409155056j:image ここで、どうやら道に迷ったらしく、どこをどう進んでも行き止まりになってしまいます。途中には「峠道」の看板が落ちたまま放置されている。ガイドブックとコンパスを照らしても一向にわからない(後で気が付きましたがガイドブックの方角が間違っていました)ここで峠道は断念し、県道との合流点までもどり、県道から山を下ることにしました。ここでも、歩道に比べると県道は相当に大回りしています。上り下りを加えるとそうとうに余分な距離を歩いたのではないかと思います。無事に山道を下りて、駒飼宿に付きました。人気のある場所に来たのはほんとうに久しぶりで、朝に比べれば天気も良くなってきて、道に迷った時の不安から解放されたせいもあって、明るい集落の光景には気分がほぐれます。
 山道を過ぎた後は、再び国道沿いを歩く落ち着かない道になります。ですが、山道を下りて視界が広がっていくと、その視界の先には甲府盆地が見えてきます。

 f:id:tochgin1029:20170409154942j:image勝沼の近くまでくると、道のわきには大善寺という寺がありました。この大善寺は、栽培しているぶどうから自家製のワインを作っているらしく、テレビで紹介されたのを見たことがあります。ワインの寺として有名なようです。この大善寺、単に珍しいお寺というだけではなく、そうとうに歴史のある寺のようです。旧い本堂は鎌倉時代に建てられた建物らしく、その中には、なんと奈良時代に制作された本尊がおさめられているそうです(製作者はなんと行基!)隣には、これも旧い鎌倉時代に制作された十二神将が配置されています。これほど中世の雰囲気が残る寺というのも、鎌倉のあたりをのぞけば関東近郊ではめずらしいと思います。お寺の解説では、日本に葡萄が持ち込まれたのも、すでに平安時代には文献に載っているらしく、相当に旧い出来事のようです。お寺でワインを作るのもそう、奇をてらったものではないようです。
f:id:tochgin1029:20170409155012j:image この大善寺から勝沼宿までブドウ園が軒を連ねます。わたしの故郷にもたくさんのブドウ園があるのですが、この勝沼ではブドウ園の看板に書かれているのは「ブドウ園と蔵出しワイン」という文言が多い。さらには通り沿いに「ワイン民宿」なる建物もあって、だんだんと通るだけでワインが飲みたくなってくるような道です。笹子峠を下りるときに、このあたりの土地が脆い砂地であること気が付いたのですが、この脆い土壌はぶどう造りやワイン造りには適していて、だからこそ勝沼でブドウ栽培とワインの製造が盛んになったのだと合点がいきました。
 ほどなく勝沼宿に付きました。本陣には立派な松の木があります。今回の行程はここまで。ですが、ここ勝沼宿のあたりからJRの勝沼ぶどう郷駅までは、意外に遠くてかなり歩かされます。駅には帰りの観光客がたくさん居ます。観光客が目指すのは、ぶどうの丘と呼ばれる観光施設です。この観光施設では、ワインの試飲がいくらでもできるのがいちばんの売りで、帰ってきた観光客の中には、呑みすぎて気持ちが悪くなっている観光客もいれば、千鳥足になっている観光客もいます。「ああワイン飲みたい」とばかり、わたしもワンカップのワインを買い込んで、電車を待つ間に飲んでました。

(気恥ずかしいけれど)愛の二重奏(カーラブレイとスティーブスワロー)

 「愛の二重奏」などといえば、なんとも気恥ずかしい言葉なのですが、
たまたま、YOUTUBEで眺めた、カーラブレイとスティーブスワローのデュエットの動画をみて、その気恥ずかしい言葉がとてもぴったりの演奏のように感じたのです。Carla Bley & Steve Swallow - Live In Concert 1988 - YouTube
ピアノを弾くカーラブレイは、自分自身の手元を見ることは少なくて、スティーブスワローを見ている。あからさまな恋をしている女性の顔ではないけれど、ずっとスティーブを見つめながら演奏している。スティーブスワローも同じくカーラを見つめている。
 カーラブレイが残した演奏やアルバムは少なくて、印象に残ったのは、いつかFMで流れていた、ディナーミュージックというアルバムにおさめされたダイニングアローンと いう曲が印象に残ったくらい。そこではカーラは歌っていて、歌詞の内容は、都会のまんなかの自宅で、ひとりでワインを開ける寂しいディナーの光景を描写したものです。わたしがカーラという音楽家から受けるのは、その歌のイメージが強くて、バンドでの演奏のほうが多い彼女ですが、そのなかでも、彼女はどこか孤独である印象を受けるのです。
 そんな彼女の1回目のパートナーはピアニストのポールブレイで、2回目のパートナーはトランペット奏者のマイケルマントラー。スティーブスワローは3回目のパートナーで、プライベートでも二人はパートナーの関係です。スティーブスワローは、ピックを使いながらエレキベースを弾く、ジャズでは珍しいタイプの奏者で、自身が前面にたつ演奏よりもプロデュースだったりひきたて役といった印象の強いミュージシャンです。
 眺めた画像は1988年のものですが、最近でもすっかり爺婆になった2人が、そろってインタビューを受けている動画を眺めることができ、いまでも良好な関係が続いているようです。

「銀座の恋の物語」のようにデュエットの曲なんていくらでもありますし「見つめ合いながら歌う二人」なんていう動画も、いくらでも見れますが、ここでの、カーラブレイとスティーブスワローのように、まるで「愛の二重奏」といった濃密なものは、ちょっと見たことがないように思うのです。

かんばん方式も回せない

 今週のニュースでは、ヤマト運輸が増大するネット通販の需要に運び手が追いつかず、運賃の値上げやサービスの縮小を行う。というニュースが流れていました。これを日本式のかんばん方式の終わりの始まりととらえている方もいて、なるほどなと思ったのでした。
おもいだせば、かんばん方式というのは限られたリソースを効率的に動かすための仕組みのはずでした。代表例はトヨタ自動車の生産方式で、日本を代表する企業としてトヨタの名が挙げられてくるようになったのは、ちょうどバブル経済が崩壊して、世間がやたらに世知辛くなってきた時代とマッチしていたからだともいえます。意地の悪い言い方をすれば、すくないヒトのリソースをいかに効率よく使い倒すか?という命題です。

団塊の世代がリタイヤした後に、現在の街場に起きはじめていることは、かんばん方式を回すことさえままならなくなるほどに、ヒトのリソースが減ってきていることなのだと思います。ヤマト運輸で起きたことは、その象徴的な出来事なのではないでしょうか?高度経済成長の経済モデルは、すでに50年もまえに終わったことですが、そんな企業社会の構造はそれぞれの企業の「仕事の動かしかた」の中にいまだに残っています。
 日本では、生活保護の申請は恥ずべきことで、失業率の低いことは良しとされる。失業率の高い欧米諸国と比べて失業率の低いことは、とかく誇らしく語られるけれど、本当にそうなのだろうか?とも思います。失業率の低さは、悪い意味で社会における労働力の「ゆとりのなさ」を表しているように思えてなりません。